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ゼェゼェゼェ……。
胸の痛みがひどく、うまく呼吸ができなかった。
さらには全身が火であぶられたように痛み、足が思うように動いてくれなかった。
街灯のない田舎道。
会社を去るときにもってきた懐中電灯だけが、前方を照らしている。
肺を半分失ったように、浅い呼吸を繰り返しながら歩いていく。
それでも堀口は歩みをとめなかった。
たどり着くべき目的地を見つけたように、彼は重い足を引きずって歩いた。
堀口のうしろ、建設中止となったビスタがマッチ箱ほどに小さくなっていた。
夜はますます深まっていた。
心には、もはや絶望しかなかった。
うぐぐっ……。
再び足の痛みを感じ、立ち止まった。
ポケットから破れた写真を取り出し、パズルのようにひとつに合わせる。
妻と娘が堀口を見て笑っていた。
「あなた!」
「パパ!」
ふたりが亡くなる一ヶ月前。
人生最後の家族旅行で撮った写真だ。
うう……。
涙がこぼれ、写真の上にぽたりと落ちた。
「……すまない」
堀口はそうつぶやき、無理やりに口角をあげて笑った。
写真をポケットに戻すと、再び歩きはじめた。
行き先は決まっていた。
ビスタから遠く離れ、曲がりくねった田舎道をひたすらに歩いていく。
時間は深夜帯に差し掛かっていて、町人の姿はひとりも見えない。
明かりの消えた民家の横を通り過ぎる。
古びたレンガ壁からして、人は住んでいない。
この辺りのことなど、もう思い出せなかった。
昔、自分と親しかった誰かが住んでいたような気もする。
いや、ちがう……。
記憶が曖昧なわけじゃない。
何度も地面に体を打ったため、頭が正常に機能していないのだ。
体のどこかしこが痛く、懐中電灯に照らされた世界は霞がかっている。
どうして彼らが、親身に話を聞いてくれると思ったのだろうか?
彼らの靴底が頭に浮かぶ。
床に打ちつけられた頭の音が、残響のように鳴っていた。
脳に深刻なダメージを負っているかもしれない。
後日、後遺症となって現れるかもしれない。
未来。
私の未来。
……ちょうどよかった。
堀口の心は晴れた。
これから向かうべき場所が見えた。
それと同時に、堀口の体は軽くなった。
まるで健康な体を取り戻したように、一歩一歩目的地へと向かっていく。
痛みで足を引きずるような感覚は、もうなかった。
ひどかった頭痛も、折れた肋骨の痛みも、きれいサッパリ消えたみたいだ。
元気な20歳の頃に戻ったように、堀口は懐中電灯が照らす先へと歩いていく。
やがて民家などない、林道へと進入した。
砂と草でできた道を、勢いよくのぼっていく。
林道が終わると、木をよけ、草を踏みながら、さらに上へとのぼっていく。
岩の隙間から湧き水が出ていた。
無意識のうちに手ですくって飲んだ。
うぐぐっ!
突然、全身の痛みがよみがえった。
労働者に殴られた肉体の痛みと、犯罪者と呼ばれた心の痛み。
それらが一丸となって、細胞を荒らして回るようだった。
たまらず岩の上に座って深呼吸を繰り返した。
「……生に執着するから、痛みがぶり返す。大丈夫……。私はブレていない。ちゃんと決めた通りに進む」
命への執着が、痛みをもたらしたのだ。
こだわるな。
ふりかえるな。
どうせ行く場所はひとつしかないのだから。
堀口は再び痛みを乗り越え、山道を登りはじめた。
木々の隙間に小さな光が点滅している。
おそらく野生動物の目だろう。
山ネコ、ネズミ、鳥類、イノシシ。
どの野生動物がやってきても、怖くはなかった。
堀口は臆する様子もなく、自らが進むべき道をのぼっていく。
さらに長い時間を歩くと、木々が少しずつ減ってきた。
ようやく峠を越えると、非常識なほど大きな満月が現れた。
ここは断崖絶壁。
何万年も変わらない強風と波音。
大地の振動を全身で感じながら、崖の先に向かって歩いていく。
「もうすぐそばに行くから」
堀口は果てなく続く夜空を見つめた。
この空のどこかで、妻と娘が私の帰りを待っているのだろうか。
「副会長。あなたが亡くなったというニュースを聞き、私は心から悲しみました。
しかしあなたは私を覚えてはいなかった。私を罪人だと判断し、私の未来をすべて奪いました」
全身から汗が滴り落ちていた。
「ですが、あなたを恨みはしません。妻と娘を失った私に、そもそも魂など残っていなかったのです。私はビスタに情熱を注いできましたが、それは痛みを隠すための演劇のようなものでした」
涙を流す代わりに、堀口は笑った。
「妻よ、そして娘よ。お父さんは一生懸命働いた。だからそろそろ楽になってもいいだろ? ずっとふたりに会いたいと思ってたんだ。だからちょうどいい機会だよな?」
風に身をあずけ、海へと寄りかかったその瞬間だった。
ダメ!
どこからともなく声が聞こえた。
堀口は慌てて足を踏ん張り、その場に立ち止まった。
こないでください!
死ぬだなんて、考えないでください!
堀口は辺りを見回した。
深夜の断崖絶壁に、他人がいるはずなどない。
「……なぜとめるんだ? もう私には何も残っていないんだ」
うぐぐっ!
再び堀口の全身に痛みがよみがえった。
とても立っていられず、その場にしゃがみ込む。
自分の足を懐中電灯で照らすと、足首がほぼ倍に腫れあがっていた。
一箇所に現れた痛みは、徐々に全身に広がっていく。
「まだ命に未練が残ってるってのか。どうしてなんだ……。痛みなど感じるつもりはない。この世にもう未練なんてないんだ!」
その言葉に反発するように、痛みはさらに激しさを増していく。
堀口はうめき声をあげながら、もう一度立ち上がった。
ようやく訪れた機会。
簡単に逃すわけにはいかなかった。
再び海を見下ろし、崖の先端から身を投げようとした。
しかし全身が震えを帯びた。
恐怖が体にブレーキをかけていた。
「たのむ。動いてくれ!」
堀口はこぶしで太ももを叩きながら、飛び降りようとする。
しかし細胞が堀口の動きを食い止めている。
あなた!
再び風がささやいた。
「呼ばないでくれ。お願いだ。私を……ふたりのそばに行かせてくれ」
堀口の嘆願は、風によって拒まれた。
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