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夜がゆっくりと明けていく。
死に拒まれた堀口ミノルは、暗い山道をおりていた。
体中が耐え難いほど痛んだ。
自分がどこを歩いているかもわからず、完全に道を失った。
携帯電話は役に立たなかった。
バッテリーはすでになく、単なる荷物になっている。
会社から持ち帰った私物は、いつの間にか手元から消えていた。
たくさんの野生動物の視線を感じながら山をくだってきた。
暗闇の中で何かにぶつかるたびに、野生動物に襲われる恐怖に包まれた。
なぜ妻と娘は私を生かしたのか。
その理由を探らねばならない。
なぜまだ命を続けなければならないのか。
ただ明らかなのは、崖の先端で聞いた風のささやきは、愛するふたりの声であること。
体力はとっくに底をついていて、何度も何度も休憩を取った。
回復しないまま体を起こすと、体が刃に貫かれるような痛みが走った。
急な下り坂が多く、転げ落ちないよう木にしがみつきながら下っていく。
生への執着を捨てられない自分が哀れで、同時に死んではならないという頑固さが増すばかりだった。
木々の間に見える黒い空が、ゆっくりと水色を帯びていく。
懐中電灯だけが照らした世界がようやく輪郭を描き、現実を取り戻しはじめる。
世界はたった1日で変わった。
そう、世界は1日あれば変わる。
……だとしたら、私も。
心の中にある暗闇がゆっくりと取り除かれていく。
その場所はまた別の何かで埋められていく。
体を襲う痛みは、生への執着ではなかった。
それは太陽光の数倍の熱さを持つ、衝動だった。
「復讐」
巨大な復讐心が闇の中でしっかりと育っていた。
この物語を、負けたままで終わらせてはならない。
すべての罪をかぶったまま去るなんて、妻と娘に向ける顔がないではないか。
風のささやきは、妻と娘の応援歌だったのだ。
――恨みを晴らしてからでも遅くありませんよね? 気長に待っています。
――あの人たちをコロシテいいよ。それからダッコしてあげるね、パパ。
「ありがとう」
堀口ミノルは、明けた空に向けて懐中電灯を投げ捨てた。
*
どのほどの時間が経ったのだろうか。
山のどこかもわからない場所に、いきなり廃工場が現れた。
堀口は野生動物のように、遠くからじっと工場を見つめていた。
レンガ壁の一部は爆撃されように崩れ、建物全体は腐った血を浴びたように錆びている。
もうすぐ風化して自然へと還ってしまう。
そんな印象の建物だった。
「こうやって、また何かがはじまるのかもな」
自らの意志があったからこそ出会えた風景だった。
ひどく喉が乾いて苦しかった。
暗闇の中をずっと歩いてきたため、水を飲めていない。
湧き水があることを期待し、廃工場へと近づいていく。
木々を抜け、壁伝いに歩きながら、入り口を探して進む。
しかし壁の先を見たとき、堀口の全身がこわばった。
血!
地面が血で染まっていた。
その先には野生動物を捕獲する檻があった。
小型トラックの荷台ほどの大きさの檻だった
檻には野菜が入っている。
野菜は新鮮で、腐っていなかった。
堀口は壁に身を隠して、辺りを見回した。
……ここは廃墟じゃない。
誰かがこの場所に出入りしている。
狩り場だろうか?
シャツで汗を拭い、自らの服装を確認してみる。
着ているスーツはボロ雑巾に近く、とても人に会えるような状態ではない。
殴られて吹き出た血がこびりつき、一晩中山道を下ったためドロだらけになっている。
さらに顔面はひどく腫れ上がり、足の負傷でびっこを引いている。
だがそのまま去るには、喉の渇きを耐えられそうになかった。
少しずつ……。
警戒を解くことなく、檻へと近づいていく。
檻のすぐそばに、畑があった。
手入れの行き届いた野菜が育っている。
ニラ、ネギ、ミョウガ、チェリートマト。
人の存在を確固たるものとする証拠品だ。
堀口は痛みと緊張で、気を失いそうだった。
彼にとって、すでに人間は信じられる存在ではない。
一夜にしてすべてが彼に背を向けたのだ。
何百万人もの人々から聞いた言葉。
――この犯罪者め。
その鳴りが深くに定着し、血液のように全身をめぐっている。
畑の前には水道があった。
堀口は慎重に近づき、蛇口に手を触れた。
しかし蛇口は錆びていて回らない。
新鮮な野菜と、錆びた水道。
相反するふたつが理解できなかった。
結局、ここに人はいないのか。
野菜を見るかぎり、そんなはずはない。
もう一度注意深く周りを見回すと、水の入ったバケツを発見した。
すぐに近づき顔を突っ込んで、中の水を飲んだ。
葉っぱやほこりが浮かび、砂が沈んでいたが、かまわずに飲んだ。
生命を続けるためには、そんなことはどうでもよかった。
水を飲み終えると、視界がさらに明るくなったようだった。
壁にもたれかかり、畑と檻とそのうしろにあるうっそうとした森を見つめた。
ここは自然に守られた砦のような場所。
いや、長く人に見放されたせいで、自然の要塞と化したのだ。
偶然この場所を見つけた誰かが、定着したに違いない。
無人島に作られた砦のような場所。
上陸する意味すらない枯れた場所。
「誰がこんなところに」
過去にメディアで見たことがある。
人里はなれた山奥で、ひとり生活する人々の営みを。
インタビューで彼らは語った。
「自由だから」
現代文明を捨て山奥に定住したからこそ、彼らは自由を手にした。
堀口の心に、ひとかけらの光が生まれた。
私もこの人たちと同じように暮らしたい。
人間なんていない場所で。
そう……復讐を終えてから。
堀口ミノルの素朴な夢が生まれた瞬間だった。