香坂君が帰り、居間で一人きりになった。ふと、部屋の中を見渡してみる。すると、じわじわと言葉に出来ない不安が心に押し寄せてきた。
ここはまだ、『自分の居場所』じゃないなという、違和感だ。
何が何処にあるとか、そんな事を知った程度じゃ埋められない疎外感を抱いてしまう。
香坂君の気持ちに応える事はしない、自分の『夫』は司さんなんだという気持ちはこんなにも早く抱く事が出来たというのに、この疎外感だけは『…… すぐにどうこう出来る類のものじゃないな』と感じた。
(いいなぁ…… 『未来の自分』は、此処が居場所なんだもん)
「…… 司さん?」
名前を呼びながら、彼が寝室だと教えてくれた部屋のドアをノックする。
「 …… 」
返事が無い。きっとまだ寝ているんだろう。だってすごく疲れていたもの。
「…… 入りますね」
人の寝室に入るのはとても抵抗があったが、どうしても今一人で居たくは無い気分になってしまった私は、あまり音がたたないようゆっくりと、司さんの寝る部屋のドアノブを回してみた。
カチャッ——。
とても小さい音しかたたなかったのに、静かな部屋の中では大きな音に感じてしまい、ちょっと焦った。
(焦る必要ないじゃない、起こすつもりで部屋に入ったのに!)
でもきっとまだ、彼が目覚ましをセットした時間じゃない。本当に起こすの?自分の勝手な理由で。自分の中の不安と対峙し、その事で心が乱れているってだけで、司さんを起こしてしまってもいいのかな。
(記憶にない自分に嫉妬して、不安を抱いて、無性に『今の私』が司さんに触れてみたいってだけで、部屋に入ってもいいのかな)
『好きな人と自分が深い関係にある』という状況を経験した記憶の無い私では、どこまでが許される事なのか判断が出来ない。突き進んで良いのか、相手に気持ちをぶつけてもいいものか…… 。
今までの私はどうしていたの?
どこまで司さんに心を開いていたの?
どこまで自分自身を預けていたの?
わからない、ワカラナイヨ——
心の中が、ぐちゃぐちゃだ。もうなんでこんなふうに嫌な気持ちでいっぱいになっているのかもわからなくなってきた。
一歩、また一歩と、ベッドの方に歩いて行く。
(声、掛けながらの方がいいのかな?起こすんだったら。でも、起こしてもいいのかな、自然に司さんが起きるまで待った方がいいのかな、疲れているんだし)
色々グダグダと悩んでいるうちに司さんの寝顔が布団の端に見えてきて、急に頬が緩んでしまった。ぐちゃぐちゃだった心の中が、大人相手なのに、『可愛い!』と感じてしまう司さんの寝顔の事でいっぱいになって、ちょっとその場で踊り出してしまいたい様な変な気分になってくる。
「ふにゃあって…… ふにゃあって顔してるっ」
小さな声だったけど、つい言葉にしてしまった。普段の雰囲気だったら、もっと気難しい顔で寝ている方がずっとしっくりくるだろうに、どうしてこの人はこんな些細な事まで私好みなんだろうか。寝顔を見ているだけで、自分がいっぱい心の中でモヤモヤと考えていた事が、なんだか馬鹿らしく思えてきた。
(私って、なんだか現金だなぁ…… )
ベッドのすぐ側の、司さんの寝顔が見える位置で私はしゃがみ込むと、ベッドの上に腕を預け彼の顔をじっと見詰めた。
規則的に聞える寝息が、なんだか落ち着く。やっぱり寝かせておいてあげよう。疲れて寝ている人を起こすのは忍びないし…… 何よりも寝顔が可愛いし。『可愛い』には勝てない。『可愛い』に打ち勝てる人なんて、きっとこの世の中には一人もいないはずだ。
私は自分の腕に頭を預けると、司さんの寝顔にちょっと微笑みかけ、ゆっくり瞼を閉じた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!