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山崎美咲のインスタグラムは、意外とあっさり見つかった。
同僚との打ち上げで明るく笑う写真、飼い猫があくびをする日常スナップ、街角の柔らかな光を切り取った風景ばかり。どれも清潔で穏やかで、男性の影など微塵も感じさせない。それが逆に、妙に作為的に見えてしまうのは、私の疑心がそうさせているだけだろうか。
……じゃあ、拓也の浮気相手は……誰?
私はスマホを閉じ、工房の蛍光灯の下に戻った。バックヤードの静けさが、ますます重くのしかかる。蛍光灯の白い光が作業台を冷たく照らし、ルーペ越しのサファイアがぼんやりと霞む。
ここ数日のストレスが指先を鈍らせ、ピンセットがわずかに震えて石を落としそうになる。コンペティションまであと4日。
テーマは「Eternal Bond」――永遠の絆。皮肉すぎる。
私はルーペを外し、額を押さえた。頭の奥が重く、拓也の顔が浮かぶ。あの喫茶店での冷たい言葉、山崎美咲の香り、離婚届の空白欄。すべてが絡まり、デザインに集中できない。スケッチブックを開くと、描きかけのリングが嘲笑うように見えた。
センターに据えるはずのサファイアは、5周年で作ったものと同じ青。拓也の指に嵌めるはずだった石を、今はコンペティションのために削り直している。
「もう、意味がないのに……」
呟きが漏れた。パソコンに取り込んだデータを見ても、線が歪んでいる。修正しても、納得できない。時計はもう終電を過ぎていた。私は作業台に突っ伏し、冷たい金属の感触を頬に感じた。涙が一滴、落ちてサファイアの横に小さな染みを作る。
――でも、負けたくない。
私はゆっくりと顔を上げた。拓也との絆が壊れかけているなら、この指輪で新しい絆を形にしてみせる。失われたものを、別の輝きに変えて。深呼吸して、ピンセットを握り直した。まだ、諦めない。
「佐々川さん、まだ帰らないの?」
「田川さん……」
田川亜美が背後からそっと近づき、パソコンの画面を覗き込んできた。
「まだやってるの? 随分熱心ね」
私は反射的にノートパソコンの蓋をゆっくりと閉じ、笑顔を作った。亜美は微笑みを浮かべたまま、コーヒーカップを片手に私の隣に寄りかかった。
「テーマ、難しいわよね。Eternal Bondって……佐々川さんは、もうイメージ固まった?」
彼女の瞳に、優越感のようなものがちらりと光った。いつも完璧で、隙のない田川亜美。きっと彼女のデザインは、誰もが納得する美しい絆を描いているのだろう。
「じゃあね、お先に」
田川亜美はコーヒーカップを空にし、ゴミ箱に放り投げた。乾いたプラスチックの音が、静かなバックヤードに短く響く。
彼女が踵を返す瞬間、ふわりと漂ってきた香りが、私の息を止めた。白檀。深く甘く、ほのかに煙のような余韻を残すオードパルファム。
――あの夜、拓也のネクタイに染み付いていた香りと同じだった。
私はルーペを置いたまま、彼女の背中を凝視した。亜美は気づかぬふりで作業台に戻り、ポーチから小さなボトルを取り出して手首に軽く押し当てる。香りがもう一度、静かに広がる。
まさか……。
胸の奥が冷たく締めつけられた。山崎美咲だと思っていた香りの主は、田川亜美だったのか。私はゆっくりと息を吐き、スケッチブックを閉じた。指先が冷たい。コンペのデザインが頭から飛ぶ。代わりに浮かぶのは、拓也と亜美がどこかで会っている光景。
――遅くまでの残業、知らないバー、親密な距離。
田川亜美はロッカールームから戻ると、肩に掛けていたトートバッグを作業台の横に置いた。
落ち着いた朱色の栃木レザー、ポルコロッソのもの。光沢を抑えた上質な革、底の四隅に打たれた真鍮のリベット、持ち手のステッチの色まで──すべてが、私が去年のクリスマスに拓也から贈られたものと同じだった。
私はルーペを置く手が止まった。視界が一瞬、狭くなる。
仕事で使うには少し贅沢すぎるから、大切に使っていた。なのに今、同じものが亜美の肩に掛けられている。彼女は気づかぬふりでバッグを開け、中からスケッチブックを取り出した。取り出す仕草に、わずかに指先が震えたのを見逃さなかった。
その瞬間、目の奥に何かを隠す光が一瞬だけ走った。私は呼吸を止め、目を見開いた——偶然ではない、これは計算だ。
「……それ、どこで買ったの?」
思わず声が出た。亜美は顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「これ? プレゼントしてもらったの。素敵でしょ」
誰から――とは、聞けなかった。聞く必要すらなかった。
「お先に、あんまり無理しないでね」
「……お疲れ様でした」
私は呆然とサファイアの青い輝きを見つめた。
「……バーベキュー」
確かに去年の秋、Lueurと拓也の広告代理店の有志でバーベキューを楽しんだことがあった。川辺の公園で、炭火の匂いと笑い声が響き、ビールジョッキを傾けながら皆で写真を撮った。あの時、田辺亜美は私の隣に座り、『佐々川さんの旦那さん、優しそうですね』と微笑みながら拓也を遠くから見つめていた。拓也も『田川さん、綺麗だね』と笑っていた。
あの瞬間から、始まっていたのか。
白檀の香り、朱色のトートバッグ、そしてあのバーベキューでの視線の交差──すべてが、今になって繋がる。
私は作業台の椅子に沈み込み、ルーペを外した。指先が冷たく、胸の奥がざわめく。亜美はもう工房を出て、静寂だけが残っている。
コンペのデザインはもう頭にない。サファイアの青が、怒りと悲しみで歪んで見える。私はスマホを握りしめ、拓也にメッセージを打ち始めた。
「今夜、話がある」
送信ボタンを押す指が、わずかに震えていた。送信済みの文字が画面に残る。既読がつくのを待つ間、部屋の空気が急に重くなった。時計の秒針が、耳元で刻む音だけがやけに大きく響く。既読はつかない。5分、10分。画面を何度も更新しても、変わらない。
私はスマホをテーブルに置き、立ち上がった。リビングの明かりを消し、窓辺に寄る。外の街灯が、ガラスにぼんやりと映り込む。自分の顔が重なって見える。目が落ち窪み、唇が乾いている。こんな顔で、拓也に何を話せというのか。それでも、話さなければならない。
もう一度スマホを手に取り、追加のメッセージを打つ。
「帰ってこないなら、明日の朝、弁護士に連絡する」
指が止まる。送信するか、しないか。迷いの数秒が、永遠のように長く感じた。結局、送信せずに下書きに残した。まだ、脅しに頼りたくない。まだ、自分の言葉で終わらせたい。
終電に揺られ、重い足取りでマンションのエレベーターに乗る。行き着く先は、誰もいない真っ暗な部屋だ。
「ただいま」
空虚なリビングに溜め息まじりの声が響く。ふと、人の気配を感じ、私はベッドルームに駆け込んだ。そこに拓也の姿はなかったが、確かに彼がいた痕跡が残っている。
クローゼットを開けるとスーツやワイシャツ、ネクタイが消えていた。拓也が私のいない時間を見計らい、持ち出したに違いなかった。ハンガーがぽっかりと空いた隙間が、まるで嘲るように広がっている。引き出しの奥も漁ってみた。普段彼が大切にしまっていた腕時計の箱がなくなっている。
マホガニーテーブルに置かれたコーヒーカップ。底に残った黒い染みが、まだ乾いていない。彼がここで最後のコーヒーを飲んだのだろう。カップの縁に、薄く唇の跡が残っている。指でなぞると、かすかに温かみが伝わってきた気がした。錯覚だ。もう何時間も経っている。私はカップを手に取り、シンクへ運んだ。水を流しながら、ふと鏡に映る自分の顔を見た。
化粧は崩れ、目は赤く腫れ、頬はこけている。なのに、なぜか表情は妙に静かだった。泣くことも、叫ぶことも、できなかった。ただ、胸の奥で何かがゆっくりと、音を立てて崩れていくのを感じるだけ。
リビングに戻り、ソファに沈み込む。テーブルの上に置かれたままの郵便物の中に、封筒が一通。差出人は拓也の字。開封せずに、ただ指で撫でる。厚みからして、数枚の紙が入っているのがわかる。別れの手紙か、もう一通の離婚届か。どちらにしても、読む勇気は今はない。
窓の外では、夜の街が淡く光っている。遠くで車のクラクションが鳴り、誰かの笑い声が聞こえる。私たちの部屋だけが、時間が止まったように静かだ。スマホを手に取る。拓也のアイコンをタップし、メッセージ画面を開く。最後のメッセージは、私が送った「今夜、話がある」の文字。既読のマークは、ついているが返事はない。
スクロールして過去のやり取りを見ていく。去年の夏、旅行先で撮った写真。二人で笑っている。去年の冬、雪の降る夜に交わした「ずっと一緒にいよう」の約束。すべてが、嘘だったわけではないはずだ。少なくとも、あの頃の拓也は本気だった。でも今は、もういない。
私はスマホをテーブルに置き、両手で顔を覆った。涙は出なかった。ただ、喉の奥が焼けるように痛い。息を吸うたび、胸が軋む。どれくらい時間が経っただろう。ふと、玄関のチャイムが鳴った。心臓が跳ね上がる。まさか、拓也が……?
私は立ち上がり、ドアスコープを覗いた。そこにいたのは宅配業者の制服姿の男性だった。段ボール箱を抱えている。「荷物のお届けです」声が震えながらも、ドアを開けた。箱を受け取り、送り主欄を見ると、そこには見知らぬ会社の名前。開封せずにリビングの隅に置く。きっと、拓也が頼んだ最後の荷物だろう。
私は再びソファに座り、膝を抱えた。部屋の明かりを消さず、ただじっと暗闇の向こうを見つめる。拓也の匂いが、まだかすかに残っている。シャツの柔軟剤の香り。コーヒーの残り香。すべてが、ゆっくりと薄れていく。明日からは、どうすればいいのだろう。
仕事に行き、Lueurで新しいジュエリーを削り続ける。『Reborn Eternal』の次を作り続ける。でも、その指先で刻むのは、もう誰かのためのものではない。ただ、自分のための、永遠の欠片を。私は静かに目を閉じた。部屋の中は、静かだった。人の気配は、もうどこにもない。ただ、私だけが、ここに残っている。