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翌日、宏章は配達を終えて閉店の準備をしていると、早速桜那からLINEが届いた。どうやらいい物件が見つかったらしく、即決だったらしい。
……桜那らしいな。
宏章はLINEを眺めて、ふっと小さく笑った。
そのブレない潔さと行動力はやっぱり相変わらずで、清々しささえ感じた。
隣で片付けをしていた海音が、何やら上機嫌な様子の宏章に気付き、じとーっとした視線を送る。
「……店長、今日ずっと機嫌良いっすね」
宏章はハッとして、「え?そうか?」と何食わぬ顔で誤魔化した。
「隠さなくて良いですよ。俺分かってますから」
海音はすべてお見通しといわんばかりに、したり顔を向けた。
……俺、そんな嬉しそうな顔してたのか。
にやにやしながら宏章を見る海音の視線に、「……なんだよ?」と苦笑いで返す。
天真爛漫な海音に、宏章はもうタジタジだった。
「だって店長分かりやすいんですもん。頑張って下さいね!俺応援してますから!じゃ!俺はこれから彼女とデートなんで。お疲れ様でしたー!」
海音は満面の笑みで、元気に挨拶して嵐のように去っていった。
「もー早とちりして……、しょうがない奴だな」
呆れて頭を抱えながらも、宏章は嬉しさのあまりいい歳をして舞い上がってしまっている自分が情けなかった。
その後も桜那とのやり取りは続いた。
桜那は引越しの準備の為に一度東京に戻ってから、また二週間後に来るとの事だった。
スムーズに入居審査が通ったので、早速その二週間後に越してくる事が決まった。役場への手続きや、家具の買い出しなどの手伝いの為に、宏章も時間を作って付き合う事にした。
宏章はその日を心待ちにしていた。
ようやくその日が訪れ、宏章は空港まで桜那を迎えに行った。到着口付近で待っていると、ピンクのニットとデニムにトレンチコートを羽織った桜那が、宏章の元へ駆け寄って来た。
「宏章ー!」
甲高い声で名前を呼びながら手を振ると、無邪気な笑顔で宏章へ飛びついた。
桜那は新天地での生活に胸を膨らませ、嬉しくて仕方ない様子ではしゃいでいた。
二人は車でマンションへと向かった。
桜那の契約した住まいは、熊本駅から程近いセキュリティのしっかりしたマンションだった。
「この部屋日当たりもいいし、眺めも良かったから気に入っちゃった」
「広っ!めっちゃ良い部屋だなぁ」
部屋へ入るなり、宏章はその広さに驚いた。
「そう?前住んでたマンションよりは狭いと思うんだけど……」
「いや充分広いよ。さすが有言実行だな」
「有言実行って?」
桜那は首を傾げて聞き返した。
「初めて桜那のマンションで飲んだとき、言ってただろ?このレベルの生活維持してみせるって」
その日は初めて二人が結ばれた日でもあった。
桜那はあの日の夜を思い出して、愛しさと切なさで胸が苦しくなった。
「ああ……、でも今はもう、そんな事どうだっていいんだ。穏やかに過ごせるなら、どこでもいい」
「そうだな。そろそろ行こうか」
桜那が穏やかに微笑むと、宏章も微笑み返して二人は家を出た。
二人はあれやこれやと家具や家電を選び、まるでデート気分で楽しく過ごした。
翌日に家電と荷物の搬入があるので、桜那はホテルに滞在し、宏章はまた翌日も付き合う約束をして別れた。
翌日の午後に宏章はお店を抜けてやってきた。海音が気を利かせて店番を買って出てくれたのだ。二人で家具のセッティングや片付けを行い、あらかた落ち着いた頃には19時を回っていた。
「桜那、これここで大丈夫?」
宏章は桜那の服が入った段ボールを、クローゼットの前に置いた。
「うん、ありがとう。これで荷物全部だよ」
桜那がにっこり笑ってお礼を言うと、「じゃあ俺はこれで帰るよ」と言って、宏章は軍手を外した。
「え?帰るの?」
桜那は慌てて聞き返した。
「こんな時間だしさ、ご飯食べてってよ!ウーバー頼むから」
桜那は少しでも長く宏章と一緒に居たくて、理由をつけて引き止めた。
「え……、でも今日はもう遅いし、桜那も疲れてるだろ?」
「私なら平気だよ!一人で食べるの寂しいじゃん!」
宏章は桜那を気遣うが、桜那は必死に訴えかけた。
「分かった、じゃあお言葉に甘えて」
宏章は初め困惑していたが、桜那の必死な様子に折れて一緒に夕食を取る事にした。
注文したオムライスが届き、二人はダイニングテーブルに向かい合って座った。
「宏章、ごめんね……」
わがままを言って困らせている事は分かっているのに……。桜那は無理を言って引き止めた事にしゅんとしていた。そんな桜那の様子に、「なんだよ、らしくないな」と宏章は笑った。
それでも尚、桜那が悲しげな表情を浮かべているので「デミグラスも美味いよ、食べる?」と言って、スプーンを差し出した。
桜那は身を乗り出し、スプーンをぱくっと咥えた。その仕草と表情に宏章は一瞬ドキッとしたが、「ほんとだ!美味しい!」と言って桜那がぱっと表情を変えて笑ったので、宏章はようやく安堵した。
「宏章、あのね……、こないだやっと実家帰ったよ」
桜那が静かに言うと、宏章は「え?」と驚いた。
「お兄ちゃんが間に入ってくれて……、それでお父さんとお母さんに会ってきたんだ。家に入るまでずっと緊張して……、何を話そうかずっと考えてたんだけど……。ドア開けたら、二人とも玄関で待ってて……」
桜那はその時の事を思い返して、宏章に語りかけた。
雅高に促されて、玄関ドアを開けると父と母が待っていた。母は娘の顔を見るなり、「さくら……」と名前を呼んで抱きしめた。母は肩を震わせ泣いていた。桜那もまた母にしがみつき、子どものように泣きじゃくった。
「お父さん……、お母さん……、ごめんなさい……」
父は何も言わなかった。ただ一言「……入りなさい」と言って、家の中へ招き入れた。
桜那は十数年ぶりに、実家のリビングに足を踏み入れた。
子どもの頃の苦い記憶が蘇る。
子どもの頃、常にリビングには張り詰めた空気が流れていた。父の機嫌が悪くなると、矛先はいつも母に向いた。父の機嫌を損ねない様、両親の顔色を伺う日々。桜那はリビングが嫌いだった。今日はあの頃とはまた違った緊張感に包まれていた。
桜那は泣き腫らした顔で、ソファへ腰掛ける。
雅高が隣に座り、心配そうに桜那へ一瞥した。
その様子を見て、父が切り出した。
「お前が芸能界を引退した後の事は、雅高から聞いたよ。今は会社を経営してるんだって?」
父が尋ねると、桜那はおずおずと顔を上げた。
「うん……、今はアパレル関係の会社経営してる。やっと最近軌道に乗ってきた所だよ。そんなに大きな会社じゃないけどね……」
桜那は控えめに答える。
緊張から、父と目を合わせる事が出来ずにいた。
父は少し間を置いた後、桜那へ語りかけた。
「そうか……、頑張ったな……」
桜那は驚いた。
まさか父からその言葉を言われるとは思っても見なかったから。それと同時に胸に熱いものが込み上げてきて、言葉にならなかった。
子どもの頃望んでいた、両親からの言葉。
……やっと認めてもらえた。
桜那は目頭が熱くなり、涙が溢れそうだったがぐっと堪えた。涙目になりながら、「お父さん、ありがとう」と静かに呟くと、意を決して本題を切り出した。
「私、熊本へ移住する事にしたの。今日はそれを伝えたくて来たんだ……」
突然の事に、父と母は驚いて顔を見合わせた。
「どうして熊本なんだ?それに、会社はどうするつもりなんだ?」
父が困惑して尋ねる。
「熊本には、震災の時ボランティアに参加して、それがきっかけでよく行く様になったの。人も町も空気も、みんな穏やかで温かくて……。そのうちに、ここが私の居場所なんだって、ここで暮らしたいって心から感じたの」
桜那は宏章の顔を思い浮かべながら、移住への想いを口にした。
その表情は穏やかで、幸せに満ち溢れていた。
「仕事はコロナ禍の時にリモートでも出来たから。必要に応じて東京と往復するし、何とかやってみせるよ」
きっぱりとそう言い切る桜那の表情を見て、父は驚いた。父の知る小さな少女の面影はなく、いつの間にか一人の立派な女性に成長していたのだ。
父はふぅっと一息つくと、静かに桜那へ告げた。
「どこへでも行きなさい。お前は自由だよ」
……見放された?
桜那は父の真意が分からず困惑した。
その言葉の意味を確かめるのが怖くて、俯いたまま顔を上げられずにいた。
「……ただし」
父が続ける。
桜那は驚きから目を見開いて、顔を上げた。
「盆と正月には、顔を見せに来る事」
父は穏やかに微笑んでいた。
その表情を見るなり、心が緩んで思わず涙が溢れ出した。横で聞いていた雅高も安堵して、桜那の肩に優しく手を置いた。
その晩は兄夫婦と子ども達を交えて、みんなで食事をした。
雅高の妻の英里奈が色々気遣ってくれたおかげで、桜那はだいぶ打ち解け、リラックスして過ごす事が出来た。まだ十数年分のわだかまりが完全に解けた訳ではなかったが、それでもお互い歩み寄るきっかけが出来て、充実した時間を過ごす事が出来たのだ。
すべて聞き終えて、宏章は「頑張ったな……」と労った。宏章は桜那を抱きしめてやりたかった。再会した時からずっと……。
食事を終えて二人は会話を楽しむ。
食後のティータイムを終える頃には、もうすでに21時を回っていた。
宏章は「これだけ片付けてくよ」と言って席を立ち、キッチンでカップを洗い始めた。
「置いといてくれていいのに……」
桜那は宏章の背後に立つ。
「これだけだし気にすんなよ」
そう言って笑う宏章の背中を見て、桜那は堪らず「泊まってけば?」と言った。
宏章は驚いたが、「いや、俺明日仕事だしさ。今日も海音に任せて来ちゃったし」とやんわり断った。
桜那は、そう……と一言寂しそうに呟いた。
宏章は桜那への溢れそうな想いを必死で抑えていた。
「桜那、ソファで休んでたら?」
宏章が振り返ったその時、桜那が勢いよく抱きついてきた。
「宏章……!私、本当は宏章に会いたくてここに来たの……」
桜那は涙をポロポロと流して、背中へ回した手に力を込めた。その手は震えていた。
「ずっと宏章が忘れられなくて……、せめてK町に行けば踏ん切りがつけられるって思って……、もう会えないと思ってたのに……。宏章に会ったら、もう自分でもこの気持ちをどうしていいか分からなくて……。私から別れようって言ったのに……、自分勝手でごめんね……」
桜那は宏章の胸で泣きじゃくった。
宏章はずっと黙っていたが、桜那の肩に静かに手を置いて体を離し、桜那の目を見つめた。
「……ごめん、桜那」
宏章がため息をついたので、桜那はふいと視線を逸らした。
「俺、嘘ついたんだ……」
桜那は逸らした視線を、また再び宏章へ向けた。
「前の彼女に、愛想尽かされたって言ったけど……、俺から別れようって言ったんだ。その娘と一緒になる事に、どうしても踏ん切りつかなくて……。その娘には全部見抜かれてた。忘れられない人がいるんだろって……、めちゃくちゃ傷つけて……。それからはもう、ずっと一人でいようって思ってた。俺もずっと、桜那が忘れられなかったんだ」
宏章は切なげな目をして、強く桜那を抱きしめた。
「桜那……、好きだ。今度こそ一緒になってくれ」
桜那は涙が溢れて言葉にならなかった。
宏章の腕の中で、うんと強く頷くので精一杯だったが、ようやく一言「……好き」と言って嗚咽を漏らした。
苦しそうにしゃくり上げ、鼻水を垂らして泣きじゃくるその姿が子どもの様で、可愛らしさに思わず宏章は笑ってしまった。
「……なんで笑うのよ」
桜那は怒りながら泣いた。
「ごめん……、可愛くてつい……。子どもみたいな泣き方、あの頃と全然変わんないな」
桜那が顔を上げると、宏章は桜那の頬に手を添え、親指で涙を拭って優しく微笑んだ。
桜那は宏章にぎゅっと抱きついた。
それに応える様に、宏章も桜那を強く抱き留めた。
「……宏章、さくらって呼んで」
「え?」
「私もう桜那じゃないよ……本名で呼んで欲しいの」
「……さくら」
宏章は桜那の耳元で囁いた。
二人はようやく想いを確かめ合い、一緒になる事を誓った。