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金曜の朝、七時四十分。
私は、いつもどおり五階の棚から回った。青いペン、残り七本。台帳に書く。書いたあとで、少しのあいだ、その字を見ていた。
今日、この台帳を持ってこいと言われている。
持っていけば、会社の記録として扱われる。中身を、常務が読む。各階の数字。誰の机のペンが減るか。そして、三年ぶんの、寄贈(匿名)。
持っていかなければ、懲戒。
二階に戻ると、課長が先に来ていた。お茶を持たずに、自分の席で、何もしていなかった。
「水瀬さん」
「はい」
「どうする」
「データは全部出しています。台帳は、持っていきません」
課長は、何も言わなかった。言わないで、お茶を淿れに立った。
十時、エレベーターの音がして、常務が降りてきた。
一人だった。秘書も、佐伯さんもいない。大きな声で「大久保」と言って、まっすぐ総務のフロアを歩いてくる。フロアの全員が、立ち上がった。
常務は、私の机の前で止まった。
「水瀬、だったな」
「はい」
「その台帳、会社の記録だろう。出せ」
机の上の、緑の台帳。常務は、それを指した。
「会社の記録は、データで全部お出ししています。三年ぶん。佐伯主任にも、課長にも」
「聞いてない。それを出せと言ってる」
「これは、私の備忘です」
「備忘」
常務の声が、一段大きくなった。
「会社の数字を、会社の時間に、会社のペンで書いたものが、私物か」
返す言葉を、私は持っていた。でも、言えば長くなる。長くなれば、中身の話になる。中身の話になれば、三年ぶんの欄の話になる。
あの欄は、出せない。
私のことなら、引く。でも、あの欄に書いてあるのは、私のことではなかった。
「私の備忘です」
もう一度、それだけ言った。
「なら、懲戒だ」
常務は、はっきり言った。
「業務命令に従わない。会社の記録を私物化している。それで足りる。大久保、手続きを」
課長は、立っていた。
立ったまま、しばらく動かなかった。それから、お茶を机に置いて、私と常務のあいだに、一歩出た。
「常務」
「何だ」
「その台帳は、総務課長の私が、水瀬さんに頼んで付けさせているものです」
常務が、課長を見た。
「前任者から引き継いだ、総務の伝統です。公式のデータとは別に、手で控えを付ける。私が新人のころから、総務にはそれがありました。中身は、私が確認しています」
確認、と課長は言った。原本を読んだときの顔で。
「それを私物と言われるなら、私が頼んだことですから、私の責任です。水瀬さんの懲戒には、当たりません」
フロアの誰も、音を立てなかった。
常務は、課長を長く見た。それから、私を見て、台帳を見た。
「……パーティーまでに、おかしな数字が出たら、お前の責任だぞ、大久保」
「はい」
常務は、それだけ言って、エレベーターに戻っていく。振り向かない。扉が閉まるまで、課長は立っている。
閉まった。
課長は、椅子に座った。座って、ぬるくなったお茶を一口飲んで、言った。
「まあまあ。言っちゃった」
額の汗を、手で拭いた。ぬるいお茶を、もう一口。
私は、頭を下げた。下げたまま、何も言えなかった。
小森さんが、私の隣で、泣いていた。声を出さずに。
夜、台所。
専務は、私が話す前に言った。
「課長が庇ったな」
「……はい。聞いていましたか」
「兄さんが、怒って帰ってきたそうだ」
「課長が、自分の責任だと」
「お前が人を庇うから、人がお前を庇う」
専務は、椅子に座って、言った。
「父親の印刷所でも、東雲さんの前でも、俺の七箱でも。お前は、自分のことでは引く。人のことでは引かない。それを見ている人間が、総務にもいた。それだけだ」
それだけ、とこの人は言う。
「台帳は、出さなかったな」
「出していません」
「あの欄のためか」
「……はい」
「俺のために、懲戒を受けるつもりだったのか」
答えなかった。答えなくても、分かっていると思った。
専務は、しばらく黙っていた。それから、言った。
「母の台帳も、同じだった」
顔を上げた。
「『寄贈』の欄があった。母も、規定で買えない物を自分で買って、棚に置いていたらしい。欄に書いていたのは、母自身だ。誰が、とは書かなかった」
「……お母様の台帳は」
「捨てられた。親父が」
専務は、青いペンを一本取って、机の上に置いた。置いて、手を離した。
「母が死んだあと、家にあった物は全部。親父が、片づけた」
それ以上は、言わなかった。私も、聞かなかった。
週明け、第二回の報告会の議題が、メールで回ってきた。
十一月二十七日、金曜。会議室C。
議題の最後に、一行が足されていた。
『総務部 水瀬による補足説明(常務指示)』
小森さんが、画面を見て、言った。
「ひよりさんが、話すんですか。人前で」
「そう、らしい」
午後、五階の廊下で、佐伯さんが待っていた。
人のいない所だった。佐伯さんは、笑顔を作らなかった。
「補足説明、見たか」
「見ました」
「お前が、俺の案を手伝ったって言えばいい。一言でいい。手伝った、って。常務の前で」
「……」
「言わなきゃ、契約の話を、親父さんにする」
コメント
1件
うわ、第20話めっちゃ好き……! 課長が「言っちゃった」って額の汗拭いてぬるいお茶啜るシーン、静かなカタルシスがやばい。あの一言で全部変わった感。庇い方が泥臭くてカッコよすぎる。 専務の「母の台帳も同じだった」で一気に伏線回収されたのも気持ちいいし、最後の佐伯さんの脅しで空気がまた凍る——次の展開が待ちきれないっす🔥