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第63話 穏やかな供物
薬師は、縫季をまっすぐ見た。
「今の『怪物』と呼ばれる王が、昔はちゃんと、『人』だったことをな」
縫季の喉が、きゅっと鳴った。
(怪物)
(そう呼ばれる帝辛を見るたびに、お前の魂はどれだけ傷ついた)
(これは――滅ぼされた側が語り継いだ帝辛だ。恐怖が伝聞を歪め、人間を怪物に書き換えた記録)
胸の光が、強く明滅した。
縫季は、ゆっくりと息を吐く。
肺が痛い。限界は近い。
それでも。
「教えてくれて、ありがとう」
縫季は言った。
薬師は目を細める。
「……お前は、何者だ」
縫季は、少し考えてから答えた。
「帝辛の終わり方を、見て歩いている者だ」
薬師は、その答えに何も言わなかった。ただ、「そうか」とだけ呟き、また布を水に浸した。
縫季は、胸の光に指先を触れる。
帝辛の魂が、この世界線を拒んでいる。笑いながら壊れていく終わり方を。
(だめだ)
(次の線へ……)
縫季は、寝台の縁を掴んで体を起こした。
肩が悲鳴を上げる。視界が一瞬白くかすむ。
薬師が眉をひそめる。
「まだ寝ていろ。今立てば、また倒れるぞ」
「……倒れても、またどこかで拾われるだろ」
縫季は、かすかに笑った。
「俺は、少し急いでいる」
薬師は呆れたようにため息をついた。
「どこへ急ぐんだ」
縫季は、胸の光を握りしめた。
「帝辛が笑って終われる場所へ」
薬師は、その言葉を聞いて、ふっと目を細める。
「……そんな世界が、まだどこかに残っているといいな」
「残ってる」
縫季は、言い切った。
「残っていなければ、これが、あまりに――」
言葉が喉で途切れる。
縫季はそれ以上口にせず、寝台から足を下ろした。
足裏が冷たい。体は重い。輪郭は揺れる。
それでも、胸の光だけは、ほんの少し温度を増していた。
(まだ行ける)
(まだ、探せる)
薬師が、扉の方に視線を投げる。
「廊下を真っ直ぐ行けば、縫い目が薄い場所に出る」
縫季が目を細めると、薬師は肩をすくめた。
「長く宮にいると、分かるんだよ。『この世と違うもの』の匂いがする場所くらい」
「……助かる」
縫季は礼だけ告げて、薬房を出た。
背中越しに、薬師の小さな声が追いかけてくる。
「昔の陛下を知る者が、まだどこかで笑っていられる終わり方を……見てやってくれ」
縫季は振り返らない。
振り返れば、また迷うからだ。
廊下の先。空気の密度が、ごく僅かに違う場所がある。世界線の縫い目だ。
縫季は、そこへ歩を進める。
一歩ごとに、体から余計なものが剝がれていく。力も、寿命も、香も。
(……あと、いくつ)
(あと、いくつの帝辛を見れば、お前の笑い方を取り戻せる)
胸の光が、小さく応えた。
言葉を持たない返事。
それで十分だった。
縫季は、再び裂ける世界へ身を投じた。
ぼろぼろの体ごと。笑いながら壊れていく帝辛たちの記憶ごと――
まだ見ぬ、「自然に笑っている帝辛」の世界線を目指して。
◆
世界がほどける音がした。
縫季は香の縫い目をまたぎ、次の世界線へ落ちる。
落ちる、その刹那。空間の外側から、柔らかく、それでいて背骨をひやりと撫でる気配が差し込んだ。
九つに分かれた影の尾が、縫い目の上をすべり、世界線の匂いを嗅ぐように揺れている。
天界の観測だ。
九尾。
人界の言葉ではない香の律が、縫季の背筋へ直接書き込まれた。
――観測、続行。――対象、帝辛。――歪み層、中位。
声ではない。意味だけが、魂の奥へ落ちてくる。
縫季は振り返らない。尾と目が合えば、心の底まで読まれる。
そのまま、世界へ落ちた。
◆
足裏に、冷たい石の感触が戻る。
白い光がほどけ、輪郭を持ったとき、縫季は小さな庭の端に立っていた。
朝でも夜でもない。薄明るい空の下、葉の影が静かに揺れている。
庭に面した廊の向こうに、帝辛がいた。
一人で、座っている。
茶卓がある。湯気もある。碗も二つ。
だが片方は、最初から誰も座らぬ席のように静かだった。
縫季は息を止めた。
(……近い)
目の前の光景は、たしかに近かった。
帝辛は碗を持つ。湯の上へ指先を寄せ、触れずに温度を測る。その仕草は、縫季の記憶にあるものとほとんど変わらない。
静かで、整っていて、無駄がない。
王として、美しい。
それでも。
胸の奥で抱えた帝辛の魂の断片が、弱く震えた。
拒んでいるわけではない。だが、喜んでもいない。
縫季は、廊の向こうの帝辛を見つめた。
帝辛は碗を置く。茶を飲む。目を伏せる。それだけだった。
誰かを待つ気配がない。誰かへ渡す温度がない。穏やかなはずなのに、その穏やかさは、あまりにも閉じていた。
そのとき、庭の向こうで足音が止まった。
神官が二人、少年を挟んで立っている。少年の手首には白い布が巻かれていた。供物の印だ。
痩せた肩が小さく震えている。
縫季の目が細まる。
帝辛は、そちらを見た。
目を逸らさない。眉ひとつ動かさない。
「刻を遅らせるな」
コメント
1件
うわああ第63話読み終えたよ…!!😭💕 薬師との別れのシーン、特に「昔の陛下を知る者が、まだどこかで笑っていられる終わり方を……見てやってくれ」って言葉がめっちゃ刺さった…。縫季が「帝辛が笑って終われる場所へ」って言い切る強さ、ぼろぼろの体でそれでも進む姿がもう本当に尊い…😢🌟 そして最後の少年供物のシーン!「刻を遅らせるな」って帝辛の一言がすごく重くて不穏で、次が気になりすぎる!!次の世界線で縫季は何を見るんだろう…九尾の観測も気になるし、続きが待ちきれないよ〜!!🔥📖