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112 ◇夜が更けていく
さて、その夜……。
「余程将棋で勝てたのが嬉しかったみたいだね。
食事がなかなか進まないくらい将棋の話が続いたもの」
「聞き役も大変よね」
「いつもならそうも思わないんだけど、ほらっ、今日は雅代の話が待ってたから早く話終わらないかなぁ~、早く寝てくれないかなぁ~なんてね」
「「ふふっ」」
「ちょっとお父さん、可哀そう」
- 父親の話でしばらくふたりの間の空気をほぐしたあと、雅代はポツリポツリ
哲司の話を始めた -
「哲司くんの離婚の話を聞かされた日に、私、プロポーズされてたの」
「えーっ、すごいじゃないの、雅代。それで?」
「断っちゃったの……」
そう言うと、すでに雅代は涙目になっていた。
「んまぁ~、どうしてっ! あれでしょ、他人様の懐具合を持ち出すなんて
はしたないことだと承知しているけれど、哲司くんは今をときめく商社に勤めていてお給料だっていいし、よく考えてみなさい? 容姿端麗、性格よし、舅姑あんたのことも子供の頃から知っていて、嫁いびりするような人たちじゃないでしよ。
それによ、哲司くんにはもう鳩子ちゃんがいるから、これから子供作らなきゃいけない縛りもない。
そしてあんたのことを好いてくれている。
雅代~、今、日本中どこを探したって哲司くん以上の素晴らしい伴侶になれる人っていないよ? 何で断るかなぁ」
育代は興奮しすぎて、あんまり悔しくて涙まで出てくるのだった。
「お母さん、私ねあの時はまだ勤めてたし、哲司くんの離婚の理由を知って
どうしても倫理的にプロポーズを受け入れてはいけないと思ったの。あの時は……」
「倫理的って……?」
「それは、ごめんなさい、言えない……」
「あの時はってことは……」
「汚いよね、私。働けなくなったら、後悔するなんて」
「人間なんて、人間だから……そういうこともあるわよ。
自分の状況が変われば気持ちが変わることなんてよくあることよ」
よくあることなのかどうか、定かではないが生真面目な娘を慰めるために
育代はスラスラとそれを言葉にした。
「雅代、もしもだけど……あるかないか分かんないけども、哲司くんがもう一度結婚を望んでくれたらその時は、お嫁に行けばいいよ。
それって汚いことでもなんでもないから。
それに今度哲司くんが結婚の意思表示してくれる時は、雅代の今の現状を知った上でのことになるでしょ? ということは、そういうこともひっくるめての求婚になるんだから、それでもいいからってことよ。
全部受け入れてくれるってことだから。
私は哲司くんの男気に期待する。ぶははっ」
「お母さんったらぁ……」
まだまだ暑さの続くお盆過ぎ、蝉の声も寝静まった頃、夜風に……
窓際に吊るしてある風鈴が夏の風情たっぷりにチリリンと鳴る。
そして、話し終えた余韻をじんわりと母と娘の心の中に残し、夜は更けていった。
――――― シナリオ風 ―――――
〇雅代の実家/大川家 茶の間 夕餉のあと 夜
母娘の会話は続く……
鈴虫の声。
薄暗い部屋。
灯心の明かりがゆらぐ。
育代「余程、将棋で勝てたのが嬉しかったみたいだねぇ。
食事中もずっと将棋の話で、箸が止まってたよ」
雅代(笑いながら)「聞き役も大変よね」
育代
「いつもならそうも思わないけど……ほら、今日は雅代の話が待ってたから。
早く寝てくれないかなぁ~なんて、心の中で思ってたわ」
雅代「ふふっ……」
育代「ちょっと、お父さん可哀想だねぇ」
ふたり、しばらく笑い合う。
部屋の空気がやわらぐ。
◇雅代の告白
少し沈黙。
雅代(ゆっくりと)
「哲司くんの離婚の話を聞かされた日に……私、プロポーズされてたの」
育代、思わず声を上げる。
育代「ええっ!? すごいじゃないの、雅代。それで、それで?」
雅代(かすれ声で)「……断っちゃったの」
雅代の目に涙が光る。
沈黙。
育代(身を乗り出して)
「なんでそんなことをっ!
他人様の懐具合を言うのは下品だけど、哲司くんは今をときめく商社勤め、
お給料もいいし、容姿も人柄も申し分ないじゃないの。
それに、舅姑さんだってあんたのこと小さい頃から知ってる。
嫁いびりなんてしない人たちよ。
しかも鳩子ちゃんがいるから、無理に子どもを産まなくてもいい。
なにより――雅代、あの人はあんたを好いてくれてるのに!」
興奮して涙ぐむ育代。
育代(震える声)
「今どき、あんな人、どこ探したっていないよ……なんで断るのよ……」
雅代(涙ぐみ、嗚咽まじりに)
「お母さん……私ね。
あの時はまだ働いてたし、哲司くんの離婚の理由を知って、
どうしても――受けちゃいけないと思ったの。
倫理的に。」
育代「倫理的って……?」
雅代「……ごめんなさい。それは、言えない」
沈黙。
育代(静かに)「“あの時は”ってことは……今は違うの?」
雅代、俯いてぽつりと……。
雅代
「汚いよね、私。
働けなくなったら、後悔してるなんて……」
育代(やわらかく)「人間なんて、人間だから……そういうこともあるわよ。
状況が変われば、気持ちも変わる。それでいいの」
少しの間、夜風が吹き抜ける音。
育代
「雅代。もしも――もしもだよ?
哲司くんがもう一度“結婚したい”って言ってくれたら、その時はいきなさい。
それは汚いことじゃない。
その時の彼は、あんたの“今”を全部知った上で言うんだから。
それでもいいって言うなら、それが本物ってこと。
私はね、あの子の男気に期待してる。ぶははっ」
雅代(涙の中で微笑んで)「お母さんったら……」
風鈴がチリリンと鳴る。
(N)
「まだ暑さの残るお盆過ぎの夜……風鈴の音が、母と娘の胸の奥に、
やさしい余韻を残した。
こうして――長い夜は静かに更けていった」