コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
その秋、俺は大学生になった。期をほぼ同じくして、ついに城壁は目の前から完全に姿を消した。
こっちの国と向こうの国は一つながりの平面で接し、城壁のあった、左右どこまでも伸びる巾十歩あまりのその一帯だけが、回りの土壌から浮き上がって粗い石組みとなっている。城壁最上面の跡だ。これが、現在の国境の実況生中継だ。
国境の手前と先で文化が異なる。こっちの国民は、相変わらず責任転嫁に忙しい。誰かの成功を妬み、誰かの問題点を捜してはそこをつつき、足の引っ張り合い競争に熱中している。とにかく、そんなことばかりで毎日があわただしい。人々の表情はさえない。または、面の皮だけ笑顔の加工をしてる。
国境より向こうの「自由共和国」……最近俺は向こうの国をこう呼ぶ……では、人生で起こるすべての出来事の責任は自分で取ることが不文律だ。人のためになろう、社会のためになろうと努力することに忙しく、態度はどこか堂々としている。常に夢と理想を心の中に持ち、その実現へ向かって生きている。そこには一切の義務感も、強制力もない。
こっちの国は物価が高い。その原因と俺が思っていることを大まかに話すと、誰もが自分だけトクすることばかり考えている。互いに肘鉄を食らわせながら我こそはと前へ進んで、その結果、二十五セント得した人は勝ち誇った顔をして、負けた人を見下す。売り手はそんな消費者心理を逆手にとり、最初に値段を一ドル吊り上げておいて、販売の際に二十五セント安くする。または、期限切れ数秒前の生ゴミに値段をつける。一セントでも多い目先の利益のためならば、偽装でも何でもどんなことでもやる勢いだ。その結果、人と人は不信と疑惑で反発しあっている。食い物にされている側はお人よしの顔をしているが、実のところ単に権力に近寄る充分なカネや機会がないだけだったりする。機会が来るのを待つ間、ひたすら他人のアラ探しと批判に熱中する。
自由共和国は、物価が安い。そのうえ、やたらとサービスがいい。まずお客の力になることを考えて、お金はその感謝料としての付属品のようだ。こちらの大立者は、よいサービス・商品をより安く、より多くの人に提供するためのシステム作りに必死で、その結果として大きなビジネスを率いている。顧客に頭を下げて意見を聞き、さらなる品質向上に誠意を尽くす。客の喜んでいる顔を見ることを生き甲斐にしている。ついでに大金も集まる。余剰資金を持つ法人や個人は、時間と空間のために再投資する。そこに新しい毎日、社会、世界が姿を現す。非課税の寄付も盛んだ。これらは社会の底辺の生活向上に役立っている。その結果、底層からどんどん「希望の星」と呼ばれる成功者が出てくる。人格が磨かれた彼らは尊敬され、教えを請いに人が集まる。「希望の星」は例外なく、得ることよりも与えることがいつでも先にくる。それは心身ともに貧しい頃、自分が与えられたことへの感謝の現れであり、そうやって教わった知恵の実践であり、実践を通して知恵を分け与える教育でもある。相手も自分も一つだから、与えることは得ることと同じだと考えている。そんな一体化した社会では、人と人は信頼で結ばれている。
ついでに言ってしまえば、壁を越えた最初の頃、自由共和国の人達が互いに挨拶するのが新鮮だった。少し慣れはじめてからは、その習慣が面倒に感じはじめた。そこで、初めて会う人にまでいちいち挨拶をする部分を省くことはできないかと思いを巡らせてみた。そこから得た結論、現実、見えてきたものこそ、相手も自分も一つという一体感だった。
どうしてそういう違いが、あの城壁址を越えると起こるのだろう? 歴史か? 向こうの国では長い間にそういう文化が創られ、培われてきたのか? 見えない。
社会構造か? 確かに向こうとこっちでは違っている部分もあるにはあるが、同じ資本主義社会で、違う部分が、見えない。
教育か? 科目に異なるものもあるにはあるが、多くは共通している。教科書内容の違いよりも大きな違いが確かにあるのだが、やはり、見えない。
そして俺は、見えない壁の前で今日も立ち止まっている。