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おーい
YOLKI
「雨の匂いを、消さないでほしいんです」
カウンター越しに、その男——航は言った。
2026年、1月10日。鈴鹿の街は、季節外れの冷たい雨に濡れていた。
紗季は調香用の試紙(ムエット)を止める。
「普通、お客様は雨の湿っぽさを嫌って、もっと華やかな香りを求められますが……」
「あの日の雨は、特別だったんです。少しだけ苦くて、でも、一番優しかった」
航が語る「三年前の三月」というキーワードに、紗季の指先がわずかに震えた。それは、彼女がプロの調香師になることを決意し、そして最愛の恋人と「互いの夢のために」別れを選んだ日だった。
紗季は、棚の奥に隠していた古い遮光瓶を取り出した。そこには、あの日、駅のホームで彼を見送った後に調合した、自分だけの『さよならの香り』が眠っている。
「……一度、これを試していただけますか?」
瓶の蓋を開けた瞬間、狭い店内に、雨に濡れた沈丁花と、遠くで沸かした紅茶のような、静かな香りが広がった。
航の目が、大きく見開かれる。
「これだ。どうして、あなたがこの香りを……」
窓の外では、2026年の雨が降り続いている。二人の止まっていた時間が、香りの魔法によってゆっくりと動き出そうとしていた。