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その街で、私たちは呼吸の仕方を忘れていた。
空を仰げば、そこにあるのは太陽ではなく、幾重にも重なった巨大な配管と、そこから絶え間なく吐き出される鉛色のガス。街全体が巨大な肺胞のようで、吸い込むたびに肺の奥がチリチリと焼けるような、金属の味がした。
「見て、紗良。これが『本当の青』だよ」
そう言って、蘭が煤けたコンクリートの上に広げたのは、どこで拾ってきたのかもわからない、ボロボロに擦り切れた古本の断片だった。そこには、私たちが一度も目にしたことのない、鮮やかすぎるほどに澄んだ「草原」と「空」が描かれていた。
「バカね、蘭。そんな色、この世にあるわけないじゃない」
私は、拾い集めたネジのサビをシャツの裾で拭いながら、冷めた声を出す。でも、蘭の目は本気だった。彼女の瞳には、このガスに煙る暗いスラムの景色なんて、これっぽっちも映っていなかった。
「あるよ。絶対に。このガスの層を突き抜けて、もっとずっと高く、何万メートルも上に行けば……そこには風が吹いてて、草原の匂いがする場所があるんだ」
蘭の手が、震える指先で「バカみたいな設計図」を描き始める。それは、いくつもの廃材を繋ぎ合わせ、巨大な布を被せただけの、お世辞にも飛べるとは思えない歪な飛行船の絵だった。
「私が形を考えるから、紗良がそれを作って。二人でここを出るの。この牢獄みたいな街を捨てて、あの草原の色を、二人で見に行くんだ」
私はその設計図を黙って見つめた。 精密さなんて欠片もない。物理法則を無視した、子供の空想の産物。 けれど、蘭が語るその瞬間だけ、私たちの周りに漂う不快なガスの臭いが、少しだけ薄くなったような気がした。
「……いいよ。私が、形にしてあげる」
月日は、残酷な速さで二人の少女を「女」へと変えていった。 あの頃、一緒にジャンクの山を漁っていた手は、今や全く別のものを握っている。
紗良は、地下の湿った工房で独り、火花を散らしていた。 蘭がかつて描いた「バカみたいな設計図」は、今や数千枚の計算書と、緻密なギアの噛み合わせへと姿を変えている。 「……あと、少し」 溶接の面を上げた紗良の瞳には、かつての幼さは微塵もない。ガスの影響で白濁し始めた視界の隅で、巨大な飛行船の骨組みが、まるで墓標のように鈍く光っていた。
一方、地上では。 軍服に身を包んだ蘭が、冷徹な眼差しで街を俯瞰していた。 彼女の手にあるのは、設計図ではなく、機能美に溢れた重厚なライフル。 「……秩序こそが、この街を救う唯一の手段なのよ、紗良」 蘭は呟く。彼女は知ってしまったのだ。外の世界へ出ようとした者が、どれほど無残に軍に駆逐されるかを。親友を死なせないために、彼女はこの街の「壁」になることを選んだ。守るための銃。殺すための平和。
そして、運命の日は唐突に訪れる。 街中に鳴り響くサイレン。それは、不法飛行物体の検知を知らせる断末魔のような叫びだった。
「緊急配備!目標、セクターBより上昇中!全砲門、開け!」
無線から流れる怒号を、蘭は震える指で聞き届ける。 モニターに映し出されたのは、あまりにも不格好で、けれど美しく銀色に輝く、あの日の約束の成れの果て。
「……バカね、紗良。本当に行くなんて」
コックピットの中で、紗良は狂ったように点滅するエラーランプを見つめていた。 右翼からは黒煙が上がり、機体は激しく振動している。 防空軍の対空砲火が、雨のように彼女の周囲を切り裂いていく。
「あはは……。見てよ、蘭。飛んでる。私、本当に飛ばしちゃったよ」
紗良の顔には、死の恐怖など微塵もなかった。 モニター越しに、地上の軍拠点に立つ「かつての親友」の姿が見えた気がした。 最新鋭の迎撃システムを操る蘭と、ボロ布を継ぎ接ぎしたような飛行船に乗る紗良。 二人の距離は、今、物理的にも精神的にも、最も遠くて、最も近かった。
ドンッ、という衝撃が機体を貫いた。 エンジンが断末魔を上げ、プロペラが逆回転を始める。 高度計は狂い、窓の外は火花とガスの混じり合った、地獄のような赤色に染まっている。
けれど。 高度が一定のラインを超えたその瞬間。 厚い、厚いガスの雲海を、ボロボロの機体が突き抜けた。
「…………あ」
紗良は、息を呑んだ。 そこには、蘭がいつか見せてくれた古本よりも、ずっと、ずっと深い「青」があった。 太陽の光が、煤けた風防を透過して、彼女の頬を優しく撫でる。 機体はもう、バラバラに崩れ始めていた。翼がもげ、尾翼が千切れ、重力という名の鎖が彼女を再び地上へと引き戻そうとしている。
地上で、蘭はスコープ越しに、その「最期の輝き」を見つめていた。 引き金にかけた指が、震えて動かない。 軍規では、即座に撃墜すべき対象。けれど、彼女の瞳からは、大粒の涙が溢れていた。
「綺麗だよ、紗良……。あんたが作ったんだもんね。世界で一番、綺麗な翼だよ……」
空の上で、紗良は微笑んだまま、壊れた操縦桿をそっと手放した。 彼女の体は、炎に包まれながら、青い空からゆっくりと、母なる暗黒の街へと墜ちていく。 その心には、悲しみなんて一つもなかった。 だって、私は見たから。 あの日、二人で夢見た「本当の空」の色を。