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ジェルの「保護」という名の、あまりにも緻密で完璧な監視を潜り抜けるのは、容易なことではなかった。
けれどその夜、隣国との国境紛争による公務の疲れからか
珍しく彼は私の寝顔を確認すると、いつもより早々に部屋を辞した。
厚い絨毯に吸い込まれていく、遠ざかる軍靴の律動。
その音が完全に消えたのを確認してから、私は薄い掛け布を跳ね除け、寝台から音もなく滑り出た。
導かれるように足が向かったのは
華やかな現王宮とは対照的に、死に絶えた沈黙が支配する北側の旧館だった。
月明かりさえも躊躇うような、埃の舞う長い廊下を抜ける。
突き当たりの、重厚な真鍮の取っ手が冷え切った扉をゆっくりと押し開ける。
そこは、かつて音楽室だった場所だろうか。
部屋の中央には、青白い月光を一身に浴びて
亡霊のようにひっそりと佇む一台のグランドピアノがあった。
漆黒のボディは輝きを失って曇り、象牙の鍵盤は年月を物語るように黄色く変色している。
それなのに、なぜかその荒れ果てた光景に、胸が締め付けられるような懐かしさを覚えた。
吸い寄せられるように椅子に座り、震える指先をそっと鍵盤に乗せる。
───弾けるはずがない。
だって、私は王女としての教育も、高貴な嗜みも、何一つとして覚えていないのだから。
記憶の空白は、指先の感覚さえも奪っているはずだった。
けれど、指は私の意思を裏切り、まるで魔法にかかったかのように滑らかに動き出した。
静寂を切り裂くように、一音、また一音。
それは、切なくもどこか陽だまりのような温かさを孕んだ旋律だった。
埃っぽい停滞した空気を震わせ、古い楽譜の匂いが蘇る。
(……この曲、私、知ってる。知っているどころか、魂に刻まれている)
音の波に揺られ、真っ白だった脳裏に鮮烈な光景が弾けた。
窓から差し込む柔らかな陽光。庭園から漂う、むせ返るような花の香。
そして、ピアノの隣で
リズムに乗り切れない様子で不器用に手拍子を刻む、一人の少年。
彼はジェルのような、見る者を畏怖させる冷徹な美貌ではない。
もっと素朴で、陽だまりそのもののような、眩い笑顔を浮かべていた。
『上手だね、シェリー。君が弾くこの曲が、僕は一番好きだよ。心が洗われるみたいだ』
少年の声が、耳元で愛おしそうに蘇る。
今のジェルの、どこか芝居がかった、完璧すぎる愛の言葉とは違う。
魂の底から通じ合い、響き合っているような、無垢で、切実な響き。
何より、その少年の瞳は、どこまでも澄み渡った青空のような、純粋な色をしていた。
「……だれ?あなたは、誰なの……っ」
溢れ出す「知らないはずの記憶」に心臓が早鐘を打ち、混乱に指がもつれる。
静かな夜に、無残な不協和音が突き刺さるように響き渡った。
その直後──
「ここで何をしているんだい、シェリー」
背後から放たれたのは、心臓を直接凍りつかせるような氷の質感を帯びた声だった。
振り返ると、半開きの扉の前にジェルが立っていた。
逆光になっていて、彼の表情は読み取れない。
けれど、彼が纏う空気は
かつてないほどに刺々しく、そして形を保てないほどに荒れ狂っていた。
「ジェル、私……。眠れなくて、つい。このピアノを見つけて、どうしても触れたくなったの。なんだか懐かしくて」
私が必死に言い訳を口にしながら、逃げるように椅子から立ち上がると
ジェルは音もなく一気に距離を詰めてきた。
そして、逃げ場を塞ぐように私の手首を乱暴に掴み上げた。
「懐かしい?そんなはずはないだろう。君は王女として育ったが、ピアノなど、一度も習ったことはないはずだ」
至近距離で見つめてくる彼の瞳は
見たこともないほど険しく、恐怖にさえ似た焦燥にこわばっていた。
掴まれた手首に、指の跡が残るほど強い力が加わる。
「痛い……っ、ジェル、離して…っ」
「……そのピアノは、呪われているんだ。以前、ここで非業の死を遂げた忌まわしい者がいた。だから、この部屋ごと封印されていたはずなんだよ」
彼は吐き捨てるように言うと、強引に私の肩を抱き寄せ、部屋の外へと連れ出そうとした。
その力は、これまでの「紳士的で完璧な婚約者」という仮面が粉々に剥がれ落ちたかのように
粗暴で、剥き出しの焦りに満ち溢れていた。
「二度と、ここへは来ないでくれ。いいかい、シェリー。君の記憶に必要なものは、僕がすべて用意する。僕が教えることだけが君の真実なんだ。それ以外のゴミのような残像に、決して惑わされないでくれ……っ」
私を抱きしめるジェルの声が、微かに、けれどはっきりと震えていた。
彼は私を守っているのではない。
何かから、私を必死に遮断しようとしているのだ。
あの青い瞳の少年は、誰?
ジェルが「呪い」と呼び、葬り去ろうとしている過去の真実は、一体何のことなの?
そんなことを考えながらも
ジェルの硬い胸板に顔を埋め
彼の異常な鼓動を肌で感じながら、私は言い知れぬ不安に震えていた。