テラーノベル
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ジェルが隣国の使節団を迎えるため、丸一日王宮を空けるという千載一遇の好機が訪れた。
彼が部屋を出る際、私の額に落とした口づけは
いつもより執拗で、どこか別れを惜しむような不気味な熱を帯びていた。
私のすべてを吸い尽くそうとするかのような、その重苦しい愛情。
だが、背後で扉が閉まり、その体温が完全に消えるのを待って
私はクローゼットの奥底に隠しておいた簡素な侍女服に着替えた。
向かったのは、きらびやかな現王宮の喧騒から切り離された、地下近くに位置する旧図書室だ。
そこは現王家が好む華美な蔵書ではなく
歴史の澱が溜まったような、カビと古書の匂いが重く沈殿する場所だった。
床は埃に覆われ、歩くたびに微かな足音が静寂を乱す。
しかし、こここそがジェルの完璧な監視の網から零れ落ちた、唯一の死角だった。
重い、錆びついた扉を全身で押し開け
私は迷わず「王家編纂史」と刻印された棚へと向かう。
指先を震わせながら、羊皮紙の厚い、皮表紙の分厚い家系図を棚から引き出した。
「……おかしいわ。そんなはずは……」
ページを捲る指が、ある一点で凍りついた。
王家の血統を示す、緻密で厳格な樹形図。
歴代の王や王女の名が黄金のインクで整然と並んでいるはずのその場所に
耐え難い不自然さが潜んでいた。
私の名──『シェリー・ド・エトワール』の欄だけが、周囲の経年変化を無視して
不気味なほど新しく書き直されたような跡があったのだ。
さらに、目を凝らしてその周囲を観察すると
恐ろしい事実に気づき、心臓が激しく跳ねた。
本来そこにあったはずの「別の名前」が
鋭利な刃物のようなもので執拗に削り殺すかのように削り取られている。
そして、その傷跡を隠すように、私の名が強引に上書きされているのだ。
(私は、最初からこの家系図にいた人間ではない……?なら、私は誰なの…?)
喉の奥がカラカラに乾き、呼吸が浅くなるのを感じながら
私は次に数年前の新聞記事が綴じられた巨大なファイルを棚の奥から引きずり出した。
ジェルが何度も語って聞かせた、あの「凄惨な襲撃事件」の客観的な真実を知るために。
指先を黒く汚しながら、埃に塗れた紙面を必死に捲り、ついにその運命の日付を見つける。
───三年前、九月十五日。
そこには、王宮を襲った凄惨な反乱の記録が踊っていた。
王女が混乱の中で非業の死を遂げたという不穏な噂。
そして、その未曾有の危機をたった一人で鎮圧し
反逆者たちの首を撥ねたという、一人の若き騎士の英雄譚。
私の指先が、その記事のすぐ横に掲載された、別の一節で止まる。
同月、同日。九月十五日。
『ジェル・ヴァン・クロムウェル、最年少にて近衛騎士団長に就任。王家への絶対的な忠誠を誓う』
「…日付が、全く同じ……」
心臓の鼓動が耳の奥で、警鐘のようにうるさいほど鳴り響く。
シェリーという王女が襲われ、記憶を失ったとされる悲劇の日。
それと全く同じ日に
ジェルは異例の速さで騎士の頂点へと登り詰め、比類なき権力をその手に掌握している。
これが偶然だなんて、誰が信じられるだろうか。
あの夜、王宮を襲ったのは本当に「名もなき反乱分子」だったのか。
それとも、あの完璧な慈愛の微笑みを湛えた騎士が
その野望を成し遂げるために、すべてを塗り替えるべく仕組んだ惨劇だったのか。
ふと、背後の暗闇から冷たい空気の流れが頬を撫でた。
弾かれたように振り返っても、そこには誰もいない。
ただ、高く積み上がった書棚が歪な影を落としているだけだ。
けれど、この図書室の闇のどこかに
ジェルが張り巡らせた目に見えない蜘蛛の糸が、今も私を絡め取ろうと蠢いているような、耐え難い錯覚に陥る。
(彼は……ジェルは、私を愛しているんじゃない。私を、自らの地位を守るための道具として利用している……?)
それとも、私という存在そのものが、彼の野望を完成させるために捏造された「最高傑作の虚像」に過ぎないのか。
手元の古い新聞記事を、破れんばかりに握りしめ
私は暗闇の中で独り、凍えるように震えていた。
ジェルが差し出す、温かくて甘い
けれど逃げ場のない腕の中にいたときよりも。
今、この冷たくて静かな暗闇の中で向き合う孤独と恐怖のほうが
ずっと深く、残酷に私の真っ白な意識を侵食していくようだった。
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