「是枝部長」
水音が止まり、柳田さんが顔を上げた。
食洗器があるのだから使っていいと言っているのだが、手洗いに慣れているからつい洗ってしまうらしい。
「コーヒーかなにか、お飲みになりますか」
「あ、いや――」
これだ!
俺は頬杖をやめて、姿勢を正す。
「――柳田さんに一つ、頼みがあるんだけど」
「何でしょう」
「社外では、部長呼びと敬語をやめて欲しい」
「……ですが――」
「――落ち着かないから」
珍しく、柳田さんが返事に困っている。
これは、いい兆候だ。
俺を男として意識してもらう第一歩として、まずは『上司と部下』の関係性を崩す。その為の、呼び方だ。
柳田さんのことだ。
社内では上司と部下、自宅では雇用主と従業員、だから部長呼びはやめても『是枝さん』止まりがいい所だろう。
先手必勝!
「俺の名前、知ってる?」
「それは……はい」
「言ってみて?」
「……是枝彪」
「ん。じゃ、下の名前だけ」
見るからに気まずそうに視線を左右に彷徨わせた後、彼女の唇がゆっくり開く。
「彪……さん」
俺の知っている柳田さんらしくない、消え入りそうなか細い声。
想像以上の衝撃に、自分でも驚いた。
女性の仕草にツボとか、性癖のようなものはないと自分では思っていたが、実はあったらしい。
いつもキリッと凛々しく堂々としている柳田さんの、恥じらう表情というか戸惑い気味なか細い声に、心拍数は上昇し、股間の圧迫度も上昇する。
もっと、彼女のその表情が見たい。
「さん、はいらないかなぁ」
柳田さんの唇がきつく結ばれる。
ヤバい、可愛い。
けれど、さすが柳田さん。
顔を上げて俺を見据えた時には、いつものキリリとした表情に戻っていた。眼鏡の端が光ってすら見える。
「それは、さすがに私の立場として相応しくないと思います」
「そう? 縁があって一緒に暮らすことになったんだ。堅苦しい立場とかなしに、ホント、家族っていうか恋人? みたいに――」
「――いえ! 金銭、もしくは金銭に変わる対価の授受がある以上、是枝部長は私の雇用主であり――」
「――椿って呼んでいい?」
「……はぃ!?」
さすがに唐突過ぎて驚いたのか、声が裏返っている。その声すら、俺にはツボだ。
「綺麗な名前だよね、椿って。柳田さんにぴったりで」
「そ、そんなっ! 滅相もございません! 名前負けしてしまっていることで、両親には大変申し訳なく思っており――」
「――椿」
「……っ!」
彼女の反応もさることながら、彼女の名前を発する自分の声にも、緊張と興奮を覚える。
彼女の表情を間近で見たくて、俺はゆっくりと立ち上がり、キッチンに行く。
「コ、コーヒー淹れますね」
間に耐えられず、柳田さんが俺に背を向けてバリスタのスイッチを入れる。
「椿も一緒に飲もう?」
「い、いえっ。私は――」
「――椿、って呼ぶ人、いる?」
「え……?」
すぐ隣に立ち、見下ろす。
「きみを椿って呼ぶ人、いる?」
「います。一人ですけど」
なんで聞いたのか、と後悔した。
なぜか勝手に、彼女を名前で呼ぶほど親しいのは自分だけじゃないかと思ったのだ。
だが、勝手に後悔して落ち込むだけに留めておけばいいものを、聞いてしまえばそれが誰なのか気になってしまう。
「仲、いいの?」
「はい。写真に写っていた幼馴染です」
二歳年下とかいう、彼女の肩を抱いていた男。
「あ、そういえば、ご確認させていただこうと――」
「――敬語、やめよう」
「え? あ、はい。いえ、ですが――」
「――家でまで堅苦しいのは落ち着かないから」
「……わかりました。すぐには難しいかもしれませんが――」
「――すでにガッチガチの敬語なんだけど?」
「え? あ、すみません」
どうやら、彼女の敬語の壁を崩すのは、一筋縄ではいかないようだ。
俺は、ふっと肩の力を抜き、彼女が伸ばした指が触れる前に、バリスタのボタンを手で覆った。
「とりあえず、名前呼びから始めようか」
「……わかりました」
俺を見上げる彼女の碧い瞳に吸い込まれそうだ。
本当に吸い込まれてしまう前に、俺はボタンを押した。
ギーッと音をたてて、バリスタがコーヒーの抽出を始める。
「で、何だっけ?」
「え?」
「ご確認」
「あ、はい。その、幼馴染に私がこ――彪……さんのお宅にお世話になっていることを伝えてもいいでしょうか」
「ああ。いいよ」
「ありがとうございます!」
ホッとしたように、表情を緩ませた。
「今も仲がいいの?」
「はい。時々ふらっとご飯を食べに来るので、引っ越したことを知らせておきたいと思いまして」
「へぇ……」
や――椿は弟のようだと言っていたが、果たして相手はどうなのか。
二歳差ってことは、二十五……六?
そこで、初めて会った夜に、椿が『今年二十八歳になる』と言っていたことを思い出した。
今年もあと三か月ちょっと。
俺は抽出が終わったカップを取り出し、そのまま口に運んだ。
「椿の誕生日って、いつ?」
「え?」
「もう、終わっちゃった?」
「まだです」
「いつ?」
「十月三十日です」
来週の金曜日。
「そっか。じゃ、金曜の夜はお祝いさせて」
「え?」
「一緒に食事に行こうって言ってたのに、まだ行けてないだろ? だから、椿の誕生日には、美味いもん食いに行こう」
そう言いながらも、俺の頭の中では早くも、何を、どこに食べに行こうかと考えていた。
ホテルディナーは……いきなり過ぎだよな。
「それ、土曜日ではダメですか?」
「え?」
初めてでもないのに、彼女の予想外の返事にフリーズする。
「すみません。誕生日当日は……予定がありまして。有休を貰うことになっているんです。あ! これ――彪さんにはまだお伝えしていなかったですよね。申し訳ありません」
丁寧に頭を下げる。
誕生日に予定……。
「予定って……デート、とか?」
「いえ、お墓参りです」
「おはか……?」
またも、予想外の切り返しだ。
「はい。私の誕生日は、祖母の命日なんです」
「命日……」
「はい。なので、その日は毎年、有休をいただいてお参りに行っているんです」
「そうなんだ」
「はい」
誕生日が身内の命日とは、どんな心境なのだろう。
誕生日は恋人とお祝いをするから休む、なら若い子にはあるだろう。が、お墓参りとは。
「遠いの? お墓」
「いえ」
「じゃあ、定時で上がるから、待ち合わせて――」
「――その日は、帰れないんです」
「え?」
「毎年、幼馴染とお墓参りに行って、そのまま食事をしたりするので」
食事をしたりするから、帰れない?
頭の中で、ピコーンと音がした。
ウルト〇マンのアラームのような音が。
警告音だ。
これ以上踏み込んではいけないという、警告音。
「そっか。じゃあ、土曜日ね」
「ありがとうございます」
警告音に従った俺は、撤退を選んだ。
今はまだ、彼女のプライベートを詮索できるほどの関係ではない。
年下の幼馴染……。
なにかある、と感じた。
外れて欲しい勘ほど、よく当たる。
例えば、幼馴染が元カレだったとして、今の俺には問い詰める資格も、嫉妬する権利もない。
まずは、その資格と権利を得なければ。
その為には何をしたらいい……?
自慢じゃないが、俺は自ら女を口説いたことがない。
基本的には告られて付き合うか、何となく付き合い始めていた。
恋人がいない時に出会いを求めたこともないし、なんならこのままおひとり様でもいいかなと思っていたところだ。
俺には結婚願望がない。
性欲もさほど強くない。
だから、一人を寂しいとも思わない。
そんな俺が、初めて近づきたいと思った。
俺以上に他人を寄せ付けない空気や、言動に興味を持ったのが始まりだったが、裏表のない言動や、率直な意見、素直な反応、全てが好ましい。
彼女の鉄壁を崩すには……。
『どうせ同居に持ち込んだんなら、押しまくれ! 押し倒せ!』
溝口部長と谷の言葉を思い出し、振り払った。
いやいや、それはさすがに……。
そう思いながらも、手の届く場所にいる彼女に触れたい衝動を、確かに感じていた。
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