銀色の狼
「そうかい、そんな事があったのかい・・・」
誰もいなくなった旅籠の一室で、お紺が腕組みをして溜息を吐いた。
あの後お紺が現場に降りて来て、環がいなくなったことを告げたのである。
「道理で三味線を嫌がった訳だ、三味は猫の皮を使っているからね」
「それにしても、あの環さんが化け猫だったなんて・・・」
志麻が信じられないと言った顔で呟いた。だが、前後の状況から考えてそう判じるのが妥当であろう。
「山寺環とはよく言ったもんだ、あっちなんかまんまタマちゃんて呼んじまったよ。そういや猫踊り上手だったもんな・・・まぁ、本物の猫なら当然か」
お紺が冗談とも本気とも取れる言い方をした。
「私は怪しいと思ってたんだ、雨の中でお供と逸はぐれるなんて・・・」忠吉が忌々しそうに言った。
「おっ父さん、鼻の下を伸ばしていたくせに」
「本当かいお前さん!」
登勢とお信が二人して忠吉を責める。
「まぁまぁ親子喧嘩は程々にしなよ、それよりタマは、これを取り返しに来るんじゃないのかい?」
車座になった皆の真ん中には、怪猫の前足が置いてある。
「その可能性はある、暫く用心しておいた方が良いわね」
志麻が鬼神丸を手に取った。あの時鬼神丸が動いてくれなければ、死んでいたかもしれない。
コトリ・・・
中庭に面した濡れ縁で何者かの気配がした。
「誰!」
志麻が鬼神丸の柄を握って片膝を立てる。
その途端障子の桟を突き破って銀色の塊が飛び込んで来た。
「うわわわわわ!!!」
忠吉が腰を抜かして仰向けに畳に手をついた。
「お、狼ぃぃぃぃ!」
銀色の狼が頭を下げて近づいてくる。
「みんな退がって!」
志麻の動きは速かった。立てた前膝を狼に向かって踏み出しながら横払いに鬼神丸を抜き付けた。
ビュッ!
鬼神丸が空を斬る。
「え・・・!」
狼は志麻を飛び越えて畳に着地すると、置いてあった怪猫の前足を口に咥くわえた。
あっという間だった。
狼は身を翻し、再び障子を突き破って中庭に飛び降り、築山の石灯籠の傘を蹴って塀を飛び越え姿を消した。
そこにいた全員が、破れた障子を呆然と見つめていた。
*******
「私の剣が届かなかった・・・」
志麻は悔しそうに唇を噛んだ。
「仕方ないわよ、相手は獣よ、しかも狼。狼は獣の中でも一番賢いそうよ」
お紺に慰められても、悔しさは増すばかりだ。
「今度会ったら必ず倒すわ・・・」
「志麻ちゃん、あんたそんなに負けず嫌いだったっけ?」
お紺が呆れ顔で訊いた。
「ううん、あの狼の動き・・・何か新しい技の足懸りになりそうなの」
「へぇ、新しい技のねぇ・・・」
あれから怪猫も狼も現れなかった。しかし、これで決着がついたとは思えない。もう暫くはこの宿に留まろうとお紺と二人で決めている。
「お紺さん志麻さん、夕飯の支度できましたよ」
登勢が箱膳を二つ重ねて運んで来た。焼き魚の匂いがする。
「ごめんねお登勢ちゃん、お店大変な時なのに」
「何を言ってるんですか、二人は大切なお客さん。それに、おっ父さんとおっ義母さんも手伝ってくれるし」
「へぇ、仲良くやってるんだ?」
「今度の事で目が覚めたみたい、あの時私が二人を庇ったからかな?」
「そうだよね、お登勢ちゃんがいなかったら今頃二人は猫に食べられていたかもね」
ガチャン!
調理場で皿の割れる音がして、同時にお信の悲鳴が聞こえた。
「お義母さん!」
登勢が箱膳を放り出して駆けて行く。
「お紺さん私たちも行こう!」
登勢の後を追って部屋を出ると、目の前に狼が居た。狭い廊下の一体どこに隠れていたのか。
お紺を後ろに庇って鬼神丸に手を掛けた。
『鬼神丸、手出しは無用よ』心で鬼神丸に語りかけた。
・・・分かった
鯉口を切って剣を抜き、左足を出して入身に構えた。剣を寝かせて切先を落とす。
「さあ来い!」
狼は灰色の眼で志麻を睨め上げた。
廊下の事とて左右の空間に余裕は無く、直線上で勝負するしか無い。
志麻は剣尖を狼に向けたまま、右足を差し足で前に出した。
狼が一歩後退る。
そのままの速さで今度は左足を抜き足で前に出す。
再び狼が退がった。
それに合わせて一気に突いて出る。
刹那、狼が地を蹴った。
「掛かった!」
突いた剣を垂直に立てそのまま剣の下を潜るように躰を捌く。
切先に手応えがあった。
狼は志麻の頭上を越えて行く。
狼が着地するのと志麻が振り返るのが同時だった。
狼は暫く動かなかったが、やがてゆっくりと横倒しに倒れた。
「ふぅ・・・」
「やったね志麻ちゃん!」
「お紺さん急ごう!」
「うん!」
二人は狼を振り返る事なく調理場へ走った。
残った狼の骸は、喉から下腹にかけて一直線に斬り裂かれていた。
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