テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
会議室の窓から、夕暮れのオレンジ色が差し込んでいた。
イギリス――アーサー・カークランドは、机越しに日本――本田菊の方へと身を乗り出す。
「おい、菊。昨日のメール、どうして返事しなかったんだ?」
「……申し訳ありません。確認が遅れました」
「遅れましたじゃないだろ。こっちは心配してたんだぞ!」
周囲の国々がちらちらとこちらを見て、苦笑やため息が漏れる。
アーサーは感情を隠そうとしない。喜べば笑い、怒れば眉を寄せ、嫉妬すれば露骨に不機嫌になる。
誰が見ても「愛が重い」男だ。
だが、菊は違った。
微笑みながら、穏やかな声で応じる。
「……以後、気をつけます」
その表情は水面のように静かだ。誰も、その奥底を覗こうとはしない。
会議が終わり、各国が部屋を出ていく。
菊は書類をまとめ、無駄のない動きで鞄にしまった。アーサーがまだ隣にいる。
「送っていく」
「結構です。近いですから」
「いいから」
並んで歩く帰り道、アーサーは何度も口を開きかけ、結局くだらない世間話に落ち着いた。
菊は相槌を打ちながら、その横顔をちらと盗み見る。
(……今日も、私を見てくれていた)
胸の奥で、熱いものがゆっくりと渦を巻く。
それは決して表に出さない。
アーサーの気持ちは、声や態度ですぐに伝わる。だが、自分のそれは、音もなく深く沈んでいく。
その夜。
菊は暗い部屋で一人、棚の引き出しを開ける。
中には、アーサーからもらった些細な品々――会議で貸してくれたペン、包装紙の端切れ、渡されたメモ用紙。
すべて年月順に整理され、薄いフィルムで丁寧に保護されていた。
指先で一つ一つを撫でる。
どれもアーサーの存在を確かに刻んだ証拠。
この部屋の鍵は、自分しか持たない。
(……あなたは私から離れられない)
心の中で静かに呟く。
言葉にすれば重すぎる愛は、深海のようにひっそりと、しかし確実に膨らんでいた。
翌朝も、アーサーは嫉妬混じりに菊へ絡み、周囲は笑い、呆れる。
菊は微笑み返す。
だが、その笑みの奥で眠る底なしの執着を、アーサーはまだ知らない
会議の帰り、アーサーはふと足を止めた。
「……あれ?」
道端の店のガラスに映った自分の顔が、やけに疲れて見えた。
そのすぐ横に、菊の影。変わらず落ち着いた表情で立っている。
「どうしました?」
「いや……なんでもない」
歩き出そうとしたが、視線の端で菊の目がこちらをじっと見ているのに気づいた。
瞬間、背筋に小さなざわめきが走る。
その目は、淡々としているのに、何か底の見えないものが宿っていた。
数日後。
アーサーは自室で資料を探していて、机の引き出しの奥に見慣れない封筒を見つけた。
開くと、中には以前会議で使った古いメモ用紙。
自分の筆跡。自分が雑に渡した覚えのある紙切れだ。
それが、折り目も破れもないまま保存されている。
端に、小さな付箋で「〇年〇月〇日 会議資料」と日付が書かれていた。
妙な既視感があった。
――そうだ。あの日、資料を忘れたとき、菊が「預かっておきます」と言って持っていったものだ。
だが、なぜこんな形で残っている?
翌日。
アーサーは何気ないふりで尋ねた。
「なぁ、日本。この前の会議で使った紙とか、保管してる?」
「ええ、多少は」
「多少?」
「……必要なものは、捨てませんから」
視線が一瞬だけこちらを射抜く。
その静けさに、アーサーは無意識に息を呑んだ。
(……俺は、何か、とんでもない場所に足を踏み入れてるのかもしれない)
それからというもの、菊の視線が妙に気になるようになった。
笑顔も、言葉も、以前と変わらない。
だが、時折ふっと感じる――自分を逃さないように見ている目。
ある夜、別れ際に菊が小さく呟いた。
「おやすみなさい、アーサーさん。……また明日も、必ずお会いできますよね」
当たり前の挨拶のはずなのに、背中に冷たいものが走った。
(……この人、本当に“必ず”にするつもりだ)
アーサーは初めて、菊の愛が自分より遥かに深く重いことを――
そして、その深みにすでに飲み込まれつつあることを、自覚していた