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ある日の会議室。
アーサーが他国と笑い合っているのを、菊は席から静かに眺めていた。
笑顔が眩しい。
だが、その笑顔が自分に向けられていないことが、胸の奥をじりじりと焼く。
(……それは、私にだけ向けてほしい)
心の声が、日に日に強くなる。
最初は、ただ少し寂しいだけだったはずだ。
けれど今では――アーサーが誰かに目を向けるたび、世界から色が失われるような感覚に襲われる。
帰り道、アーサーが何気なく言った。
「さっきの話、ルートとも続きしないと――」
「……なぜ、あの人と?」
自分でも驚くほど低い声が出た。
アーサーが目を丸くする。
「え、いや、仕事の――」
「……私は、アーサーさんに私だけを見てほしいのです」
雨上がりの空気のように、言葉は静かに、しかし逃げ場なく響く。
その夜、菊は机に向かい、引き出しから一冊のノートを取り出した。
そこには、何年も前から書き留めてきたアーサーの言葉や仕草が、細かい文字でぎっしりと並んでいる。
笑った日、怒った日、ふとこちらを見た瞬間――すべて記録してきた。
ページを指でなぞりながら、菊は小さく微笑む。
「……あなたは、私を見ていてくれます。
でも、もっと……もっと、私だけを見ていてほしい」
その願いは、もう理性では止められない。
静かな水面の奥で、狂おしいほどの愛情が渦を巻き、ゆっくりとアーサーを飲み込もうとしていた。
数日後、アーサーはふとした拍子に菊の部屋に足を踏み入れた。
そこには、本棚のように整然と並ぶ箱やファイルがあった。
ラベルには日付と短い言葉――「初めての手紙」「雨の日のハンカチ」「笑顔を向けてくれた日」。
蓋を開けると、中にはアーサーが過去に何気なく渡した品や、置き忘れた小物が丁寧に収められている。
その量と保存状態の完璧さに、アーサーは言葉を失った。
後ろから菊の声が響く。
「……見つけてしまいましたか」
振り返ると、菊は微笑んでいた。だが、その笑みはあまりにも静かで、目だけが熱を帯びていた。
「全部、大切なのです。あなたの痕跡は、ひとつ残らず」
「……き、菊これは――」
「だから、お願いです。私だけを見てください」
その声は甘く、必死だった。
だがアーサーの胸には、熱ではなく冷たい感覚が広がる。
彼は一歩、後ろに下がった。
「……悪いが、それはできない」
短い言葉だった。だが、それがどれほど残酷かは、アーサー自身が一番よく知っていた。
菊の瞳が揺れる。
「……どうして」
「お前の全部を否定してるわけじゃない。けど……俺は、お前の“世界”には入りきれない」
沈黙が落ちた。
それは、雨の後の空よりも重く、静かだった。
その日以来、菊は笑顔を崩さなかった。
だがアーサーは知っている。
あの深淵は、拒絶されたことで消えるどころか、もっと深く暗くなっていることを。
(……俺は、このままでいられるのか?)
胸の奥に小さな不安を抱えたまま、アーサーは菊と並んで歩き出した。