テラーノベル
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【翠 side】
玄関のほうで、音がした。
鍵が回る音。
ドアが開く音。
……帰ってきた。
その瞬間、胸が、ぎゅっと縮んだ。
(……だめ)
息が、まだ整ってない。
このまま見られたら、
赫ちゃんのそばにいたら、
全部、ばれる。
俺は、赫ちゃんの背中にそっと手を置いた。
「……赫ちゃん」
声は、できるだけ、普通に。
「桃にぃたち、かえってきたみたい」
赫ちゃんは、ぱっと顔を上げた。
「ほんと?」
「うん」
それだけ言って、
俺は、ゆっくり立ち上がった。
立った瞬間、
視界が、少し揺れた。
でも、止まらない。
廊下に出る前に、
赫ちゃんの頭を、軽くなでる。
「……ここで、まってて」
赫ちゃんが、俺の服を掴みかける。
でも、玄関から声が聞こえた。
「赫ー!」
「お留守番ありがとうな」
その声に、赫ちゃんの注意が向いた隙に、
俺は、そっと手を離した。
……ごめん。
俺は、廊下を静かに歩いた。
足音を、できるだけ立てないように。
自分の部屋の前まで来て、
一度、立ち止まる。
胸が、苦しい。
息が、浅い。
でも、ここまで来た。
ドアを閉めて、
鍵をかける。
ベッドの横に座って、
背中を壁につける。
……この姿勢。
体が、覚えてるみたいに、
自然にそうしてた。
目を閉じて、
ゆっくり、息を吐く。
吐くほうを、長く。
……はぁ。
吸おうとしない。
入ってくる分だけで、いい。
胸に、手を当てる。
音を、聞く。
(……まだ)
焦るな。
今は、整える。
廊下から、
楽しそうな声が聞こえる。
「検査、長かったな」
「でも、少し落ち着いたみたいでよかった」
その会話に、
俺は、胸の奥が、ちくっとした。
……よかった。
それでいい。
俺は、ここで、静かにしてる。
息を、数える。
いち。
に。
途中で止まっても、
やり直す。
……だいじょうぶ。
咳は、我慢する。
喉が、ひっかかっても、
音は出さない。
布団の端を、ぎゅっと握る。
時間が、少しずつ、戻ってくる。
胸の苦しさが、
ほんの少し、薄くなる。
(……いまなら)
俺は、立ち上がらず、
そのまま、座って待った。
誰も、呼びに来ない。
それで、いい。
この部屋は、
俺が、ひとりで、整える場所。
ばれないように。
心配させないように。
……大丈夫な顔で、
あとで戻るために。
玄関のほうで、
赫ちゃんの笑い声がした。
それを聞きながら、
俺は、もう一度、ゆっくり息を吐いた。
まだ、完全じゃない。
でも——
戻れるところまで、来た。
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