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【翠 side】
少しだけ、息が落ち着いた。
完全じゃないけど、
立って動けるくらいには戻った。
俺は、ゆっくり立ち上がって、
部屋のドアを開けた。
廊下に出ると、
リビングのほうから、声と音がする。
コップが置かれる音。
椅子が引かれる音。
みんなの声。
……帰ってきてる。
分かってる。
でも、行かない。
行けない、じゃない。
行かない。
だって——
今さら顔を出したら、変だ。
帰ってきたって分かってたのに、
迎えに行かなかったみたいになる。
それは、嫌だった。
俺は、気づかなかったことにする。
そう決めた。
だから、ダイニングキッチンには行かず、
洗面所に向かう。
洗濯物が、少し溜まってた。
俺は、それを見て、
「ちょうどいい」って思った。
音を立てないように、
洗濯物をたたむ。
タオル。
シャツ。
小さい靴下。
呼吸は、意識しないふりをして、
でも、自然と浅めになる。
深く吸わない。
急がない。
廊下越しに、桃にぃの声が聞こえる。
「赫、ちゃんと留守番できたか?」
「うん!」
赫ちゃんの元気な声。
……よかった。
俺は、そっと息を吐く。
洗面所を出て、
今度は、風呂場のほうへ行く。
桶を戻して、
床を軽く拭く。
別に、今やらなくてもいいこと。
でも、やってると、
「今まで気づかなかった」理由になる。
手を動かしながら、
耳は、ずっとリビングのほうを向いてる。
「翠は?」
「部屋じゃない?」
……その話題が出る前に。
俺は、タイミングを待つ。
息は、もう少し。
もう少し、整えたい。
拭き終わって、
手を洗う。
水の音で、
少しだけ、胸が楽になる。
鏡を見て、
顔を確認する。
……大丈夫。
苦しそうじゃない。
いつもと同じ。
俺は、ようやく、
リビングのほうへ向かった。
境目のところで、
少しだけ足を止めてから、
わざと、きょろっと周りを見る。
「……あれ?」
その声で、
みんなが俺を見る。
「え、帰ってきてたの?」
「今?」
桃にぃが、目を丸くする。
「ついさっきね」
「気づかなかった?」
「うん」
短く答える。
「洗面所と風呂場、片付けてた」
嘘じゃない。
全部、やったことだ。
ただ、
気づいてたことだけ、言わない。
「……迎えに行けなくてごめん」
そう言うと、
桃にぃは、少し困った顔をして、
でも、すぐ笑った。
「いいよ、そんなの」
「留守番ありがとな」
……よかった。
薄情だって、思われなかった。
胸の奥が、
少しだけ、ゆるむ。
「黄ちゃんと瑞ちゃんは?」
そう聞くと、
茈にぃが答えた。
「まだ様子見だな。でも、朝よりは落ち着いた」
「そっか」
それだけ言って、
俺は、台所の端に立つ。
鍋を戻して、
調味料の位置を整える。
いつも通り。
何事もなかったみたいに。
息は、まだ、完全じゃない。
でも、
ばれてない。
それでいい。
俺は、
ちゃんと“普通”でいられてる。
そう思いながら、
ダイニングキッチンの端で、
静かに手を動かし続けた。
みんなに、ばれないようにするために。