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3日後の金曜日、妻が実家に帰って自宅に不在なのをいいことに、津久野は愛人の華代に連絡を取り、ちゃっかりお泊りすることを決めていた。
退院したばかりの華代を祝うためのケーキをきちんと持参して、愛人の住むマンションに向かう。久しぶりの逢瀬に胸を高鳴らせるおかげで、足取りはかなり軽かった。
マンション前に駐車されている黒のワンボックスカーの横を通り過ぎ、ふと振り返る。
いつもはそんな場所に路駐されることのない車道に、大きな車が停まっていることに不快感を覚えたが、車には誰も乗っておらず、駐停車を知らせるためのハザードランプが点灯していたので、すぐに戻って来るだろうと考え、足早に通り過ぎた。
エレベーターに乗り、8階を押して華代の住むフロアまで一気に昇る。鏡に映る自分の髪型を気にして整え、さわやかなほほ笑みを唇に湛えた。
数秒後、8階に到着。向かって右側の扉まで小走りで駆け寄り、インターフォンを押す。すぐに顔を覗かせた愛しい人を、津久野は迷うことなく抱きしめた。
「華代、ずっと逢いたかった。連絡もとれなくなって、本当に心配していたんだぞ」
胸の中にいる華代は、少しだけ困った様相でほほ笑む。
「ごめんなさい。見苦しい姿を部長に見せたくなかったの」
元気そうなその姿を目の当たりにしたことで、津久野は安堵しながら華代の髪を撫でる。
「見苦しいなんて、そんなの気にすることないのに。だけど看護師の岡本さんが駆けつけてくれて、すごく安心したね」
髪を撫でる動きに抵抗する感じで、華代は頭を振りながら津久野の体を両腕で押し、すかさず数歩退いた。
「……どうした?」
今まで華代が津久野の行動を拒否したことがなかったせいで、髪を撫でていた手をそのままに訊ねる。まるで空中に浮かんだ手が、華代を呼び寄せているようにも見えるそれに、愛人は優しくほほ笑んだ。
「部長に早く、中に入ってほしかっただけ。だって、ふたりきりになりたかったし」
「そうか、そうだよな。ふたりきりになるのは、久しぶりだから」
「ん……。今夜はずっと一緒にいられるんだよね?」
問いかけられた言葉を聞きながら、津久野は扉を閉めて玄関に入り込む。そしてキッチリ鍵をかけた。
「ああ。妻の体調が悪くて、実家に帰ってる。土日とも一緒にいられるよ」
「でも日曜くらい、奥さんのところに顔を出したほうがいいんじゃない?」
津久野に背を向け、リビングに入っていく華代。どんな顔でそれを言ったのかわからないせいで、津久野は思わずその背中に抱き着く。
「華代がそんな心配をしなくてもいい。大丈夫、かなり具合が悪いから、逢いに来ないでくれって言われてるんだ」
「そうなんだ、へぇ」
「これ、華代が好きなお菓子屋さんのケーキ。大好きなミルフィーユを買ったよ」
背後から、ケーキの入った箱を差し出した。華代はそれを受け取り、緩んだ津久野の両腕から抜け出す。
「部長がいつもより遅かったのは、コレを買ったせいだったんだ。紅茶淹れるね」
キッチンに向かう華代から離れ、津久野は背広を脱いでソファの背にそれをかけてから、慣れた様子で腰かけた。
「ちょっとだけ残業もしたんだ。華代がいないせいで、俺の仕事が回らなくなってるんだぞ」
体調不良で休んでいた愛人に会社でのことを知らせると、華代は紅茶を淹れる作業をテキパキこなしつつ、乾いた口調で返答する。
「私がいなくたって、部長の仕事をフォローしてくれる社員は、ほかにもいるのに」
「華代ほど、俺をわかってくれるヤツなんていない。わかってないな」
寂しさを表すために告げたセリフだったが、キッチンにいる華代は肩を竦めてやり過ごした。
先ほどから華代に見えない壁を作られているのを感じて、津久野は訝しげに眉根を寄せた。
「俺、華代を怒らせること、なにかしたっけ?」
「なにもしてないけど、なんで?」
「なんか、こう……。冷たい感じが伝わってきてる」
華代は紅茶のポットに熱湯を入れ、キッチンタイマーのボタンを押して時間をセットし、苦笑いを浮かべながらソファの傍にやって来た。
「わかってないのは部長でしょ、もう!」
「え、な……なにが?」
津久野に体当たりしてソファに腰かけた華代は、横にある逞しい二の腕に縋りつきつつ、抱きしめた腕を自身の腕にぎゅっと絡めた。
「寂しかったんだよ、これでも。自分の体調悪化のせいで、ずっと部長に逢えなかったことがね」
「うん」
「久しぶりのふたりきりの逢瀬に、照れない恋人はいないんじゃないかな」
「なんだ、照れ隠しってことか?」
空いた手を華代の頬に添えて、音もなく顔を近づける津久野の動きを遮るように、キッチンタイマーが時間を知らせた。華代は親指と人差し指で津久野の唇をつまみ、クスクス笑う。
「部長のせっかち。こういうのは、もっとあとにしなきゃ。せっかく紅茶を淹れたのに、アレがはじまっちゃったら台無しになるでしょ」
「でも少しくらい――」
久しぶりの逢瀬だからこそ、華代に触れたがる津久野の粘っこい視線を振り切るように、華代はソファから勢いよく立ち上がった。
「いつもすぐにがっつくでしょ。とめられるの?」
「だって……」
「今ここではじまっても病みあがりの私は、ソファなんていうところで、部長を受け止めらないんだからね。それくらいの配慮もできないの?」
「するに決まってるだろ。大事な華代の体のことを、ちゃんと考えてるって」
言いながら津久野の手が華代の利き手を掴み、ぐいっと下に引っ張ってソファに座るように促す。仕方なく華代はそれに従い、近づいてくる津久野の唇を受け止めた。
「んっ……」
触れるだけのキスがやがて深いものに変化し、そして――。
「んぅっ、やっ……ほらもう!」
華代は苛立ちをのせて頭を振り、胸を触る津久野の手をバシッと叩き落した。
「大好きな華代に触れたかっただけなんだ」
「違うでしょ。ずっとシてないから、ヤりたいだけなんじゃないの?」
慌てて立ち上がり、華代は津久野と距離をとる。触れられる距離にいたら、ふたたび先ほどのような行為がはじまると察知したからだった。
「そんなことないって。ホントだよ」
「まったく、困った部長! あーあ、紅茶が濃く出ちゃっただろうな。それでも飲んでもらうからね!」
身を翻してキッチンに戻っていく、華代のまぁるいヒップを、津久野は舌なめずりしながらじっとりと眺めた。
キッチンにて手際よくお茶の準備を終えた華代が、楽しげな足取りでソファに戻ってくる。
「部長のせいで、紅茶が濃く出ちゃったんだからね。見てよ、これ!」
足取りは軽やかだったのに、噛みつくような言葉を津久野に吐き捨てた。
ケーキと一緒にローテーブルに置かれたティーカップの中身は、華代が言うようにかなり色濃く出た紅茶が注がれる。
「悪かったって。罰として、俺が全部飲み干すよ」
「部長のそういうところ、大好き♡」
華代は喜んで、紅茶の入ったポットを見せる。2人分の紅茶がティーカップに注がれているのに、ポットの中身はかなり残った状態だった。そのことに津久野はゲンナリしたものの、華代の気分を害さないように、ほほえみを絶やさず笑いかける。
「部長が美味しく飲めるように、足し湯してあげるね」
「お気遣い、ありがたくちょうだいする」
みずからティーカップを手にした津久野は、先に紅茶を飲み干した。それを見た華代は、宣言どおりに足し湯してから、空になった津久野のティーカップに紅茶をドバドバ注ぎ入れる。
「私、すっごく嬉しい。こうして部長と一緒にいられるのが」
「華代の体調がよくなって、本当に良かったな」
「ミルフィーユ食べさせてあげるね。はい、あ~ん」
華代は一口分にフォークで切り分けたミルフィーユを、恋人の口元に運ぶ。津久野は嬉しそうにそれを頬張り、ふたたび紅茶を飲んだ。
「私もミルフィーユ食べようっと♪」
注いだ紅茶に手をつけず、自分用に取り分けたミルフィーユに、華代は舌鼓を打った。その様子を横目で見ていた津久野は、華代の腰を抱き寄せる。
「俺は早く華代を食べたいんだけど?」
「食べたければ、紅茶を全部飲んでからだよ」
「わかってる。だけど足し湯していても、結構苦みを感じるんだな」
仕方なく注がれた紅茶を半分だけ飲み、ボソッと文句言った津久野に、華代は隣で盛大なため息をついた。
「当たり前でしょ。ここで私の動きをとめた、誰かさんのせいなんですからね」
華代は美味しそうに、ミルフィーユをぱくぱく食べる。腰を抱き寄せて密着している津久野に流されそうもないのがわかったので、目の前に置かれたものにやっと手をつけた。
ミルフィーユを完食した華代は、津久野のティーカップが空になるタイミングで、ポットの中身を注いだ。
「部長、どうしたの? 手が止まってるよ?」
「なんか一瞬、くらっとした気がしたんだ。おかしいな……」
「めまいみたいな感じ?」
心配そうに顔を覗き込む華代を心配させないように、津久野は作り笑いを浮かべた。
「大丈夫。華代がいない間、いっぱい仕事をこなしたせいかもしれないな」
「部長が仕事をこなすって、それは違うでしょ。めんどくさそうな案件を、部下に押しつけるだけだもんね」
「華代?」
「そしてうまいことやりきったものを、自分の手柄にしてるっていう。ズルい仕事のやり方して、今の地位を得たんでしょ?」
津久野は驚き、隣にいる華代を見たら、なぜか霞んでよく見えない状態になっていて、めまいがさらに強くなっていく。
「華代おまえ、俺に薬を使ったの、か?」
「使われるようなことをしたのは、部長じゃない」
いつも津久野が聞いていた甘えた声じゃなく、ひんやりと冷めた口ぶりの華代が信じられなくて、目を見開きながら問いかける。
「俺がな、にをした……っていうんだ?」
津久野の視野が狭まると同時に、目の前に大きなシャッターがおりた感じでまぶたが閉じられ、大柄な体がソファの上に横たわった。
「ミッション完了だよ、絵里」
路駐している黒のワンボックスから、津久野が来たことを知らせた絵里のスマホと通話状態を維持していた華代のスマホ。ポケットに忍ばせていたそれを取り出し、現状を告げた。
『了解! 荷物を運び出す準備に取りかかるね』
絵里は端的に返答し、すぐさま通話を切った。
「部長、美味しいミルフィーユありがとね。お礼に、私からのプレゼント受け取ってよ」
華代は津久野にまたがり、触れるだけのキスをしてすぐに離れた。
「やっぱり前のように、ドキドキしないや……」
自分の中にある嫌悪感を確かめた華代は、絵里たちを向かい入れるべく、鍵を開けに玄関に向かった。
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