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榊原さんとこなす仕事が多々ある関係で、打ち合わせをしている内に、名前で互いを呼び合えるくらいに仲良くなった。
「絵里さん、大丈夫でしたか? さっきはターゲットが車の傍で立ち止まった瞬間、心臓がとまりそうになりました」
人ひとりが入りそうな大きなキャリーケースを引く彼と一緒に、エレベーターに向かう。
「ビックリしたよね。気づかれたかと思った」
「マンションの裏に車を隠すことも考えたんですけど、意外と遠回りになって時間をロスする可能性を考えたら、あそこがベスポジだったんですよ」
「航希くん、私が先にエレベーターに乗るわ。なにも持ってないんだし」
テキパキ足を進ませて榊原くんの前を歩き、エレベーターのボタンを押して扉を開けた。そしてさっさと乗り込んで、開くボタンを押し続ける。
「ありがとうございます、絵里さん」
こうしてふたりで、ハナの待つ自宅にお邪魔した。
「すごいなぁ。ホントにこんな、大きなキャリーケースがあるんだ」
私たちを出迎えたハナの第一声。私もこれを見たとき、同じことを思ったので、間違いなく類友だ。
「大学の知り合いが、忘年会のマジックで使ったのを思い出したんです。しかもこれ、くれたんですよ。場所をとるからいらないって」
榊原くんはキャリーケースを持ち上げ、リビングに移動した。あとに続いた私の目に、ソファで眠りこける津久野さんの姿が映る。
「ハナが津久野さんに襲われるんじゃないかと思って、すっごくヒヤヒヤしたよ」
ずっとスマホを通話中にしていたから、ここでのふたりの行動は耳で判断するしかなかった。
「でも大丈夫だったでしょ。嫌いっていう感情が出ないようにするのに、かなり苦労した」
「斎藤さんがターゲットに、薬入りの紅茶を無理強いせずにうまいこと飲ませたのには、すごいって思いました」
榊原くんがしゃべりながら大きなキャリーケースを開けてる間に、私はソファに横たわっている津久野さんの両腕と両足に、結束バンドを取り付けた。それを終えてから、目隠しとしてアイマスクを手際よくつける。
「ハナはテーブルの上を片付けちゃっていいよ。証拠隠滅!」
「はーい、証拠隠滅いたします!」
私のしていることを眺めていたハナに、仕事を与えた。
「それが終わったら、奥様に連絡よろ! これから出発するからって。航希くん、予定時間は大丈夫?」
津久野さんを持ち上げて、キャリーケースの中に梱包をしかけた彼に、時間を訊ねる。
「斎藤さんがターゲットにたくさん紅茶を飲ませたおかげで、早く寝入ったでしょ? 10分弱時間が余ってる」
「よかった。慌てて作業すると、どこかでミスをする恐れがあるから。梱包手伝うよ」
こうして、二手に分かれて作業をした。
「ハナは昨日、奥様と同伴で会社に行ったんでしょ? どうだった?」
キャリーケースの中に津久野さんの体をうまく入れるために、榊原くんが彼の背中を丸めたのを見て、私は下半身の関節を曲げながら訊ねた。
「事前にアポをとってたから、社長と人事が話を聞いてくれたよ」
「私も同伴したかったのに、今日の休みをもぎとる関係で、休めなかったもんなぁ。うまく話をすることはできた?」
「もちろん! 絵里が自腹を切って探偵事務所に調査してくれた資料が、すっごく役に立ったんだから」
弾んだ声をあげたハナが、タオルで手を拭いながら、傍にやって来る。手にはスマホが握られていて、奥様に連絡を入れてるように見受けられた。
「榊原くん、あとどれくらいで移動できそう?」
「5分もかかりません。絵里さん、お手伝いありがとうございました。蓋を閉めます」
津久野さんをなんとかキャリーケースの中に梱包し、そこから私が離れると、榊原くんがゆっくり蓋を閉めて鍵をかけた。
「斎藤さん、手を拭ったそのタオル貸してください。車に移動したら、キャリーケースの蓋に隙間を作るために、タオルをかませたくて」
(ああ、なるほど。津久野さんが窒息しないような配慮をしてくれるんだ)
「いいよ。奥様には5分以内に、ここを出発することを伝えておくね」
ハナは首にタオルをかけてから、スマホに先ほどの言葉を打ち込む。私はキャリーケースを立てるために持ち上げようとしている榊原くんを手伝うために、ケースの側面に手をかけた。
「よし、出発しましょう。斎藤さん、準備はできてますか?」
「証拠隠滅したし、いつでも行けるよ。部長の上着とカバンを忘れずに持ってっと。あとね奥様からの返信、指定された場所で待ってますだって」
「わかった。忘れ物はなし、出発しよう!」
きちんと背後を確認した私と、大きなキャリーケースを引っ張る榊原くん、津久野さんの私物を持ったハナの三人で、無事にマンションをあとにした。
車を走らせて数分後、環状線の舗道で待っていた奥様とうまく合流し、目的地のハナのおじいちゃんが管理している山に向かった。
「岡本さん、昨日のこと斎藤さんから聞きましたか?」
車が高速に乗ってからしばらくして、助手席の奥様が振り向きざまに喋りかけた。話しやすいように後部座席から身を乗り出し、ハナの自宅で聞いたことを口にする。
「社長と人事の職員さんに逢って話ができたことと、調査した資料が役に立ったことを教えてもらいました」
「サレ妻と不倫相手が一緒にいることに、かなり驚かれてしまったの」
奥様はおかしそうに、瞳を細めてクスクス笑った。
「そりゃそうですよ、普通はありえないです」
言いながらハナの顔を見たら、肩を竦めて苦笑いを浮かべる。
「支店でのことも含めて、これまであの人がやらかしたことを、斎藤さんが全部ぶちまけたことで、来週の月曜は大変な事件になるのが決定なのよ。だけど……」
ほほ笑みを湛えていた唇が、真一文字に引き結ばれた。
「なにかあったんですか?」
「斎藤さんが辞表を提出したの……」
「ちょっと、そんな大事なことを、どうして言わなかったの⁉」
ハナと話をすべく、シートに腰かけ直し、隣にある顔を見据えた。私が苛立っていることがわかっているハズなのに、いつもと変わらず飄々とした態度を崩さない。
「辞表を提出するのは、人として当たり前でしょ。部長とデキた時点で、こうなる運命だったんだって」
「ハナ――」
「どこかでわかってた。誰かが大切にしているものを奪って満足しても、私はしあわせにはなれないんだってこと」
車内にお通夜のような、しんみりした雰囲気が流れた。それを変えるような、榊原くんの明るい声が響く。
「斎藤さん、次の転職先って、同じような系統の会社を志望してます?」
「ううん、全然なにも考えてない。まずはこのミッションを成功させて、落ち着いてからかなぁって」
おどけた感じで返事をするハナを、呆れた様子で眺めていると。
「実は俺が勤めてる探偵事務所が、万年人手不足なんです。所長の人使いの荒さが理由で、みんなが辞めていくんです」
(――所長の山下さんって、そんな感じの人に見えなかったけどなぁ。副所長の田所さんと仲が良かった気がするけど)
「まさかそこに勤めないかって、私をスカウトしてるってこと?」
どこか乾いた声で訊ねるハナに、榊原くんは車のエンジン音に負けないようなハキハキした口調で答える。
「副所長の田所さんは、元サレ妻なんですよ。ここに不倫経験者の斎藤さんが加わったら、事務所的には無敵になれそうな気がしませんか?」
「アハハ! 雑なスカウトの仕方だね、榊原くんおもしろい」
「俺、真面目に誘ってるんですけど?」
「絵里はどう思う?」
いきなりハナに話を振られて、驚きを隠せない。
「へっ?」
目を瞬かせながらハナを見つめる私に、隣で人差し指をたてて流暢に語りかける。
「所長さんが仕事のできる人だってことは、あの書類を見たら明らかだけどさ。事務所の様子を直接見た、絵里の感想をぜひとも聞きたいなぁと思って」
「事務所の様子って、私は二回しか顔を出してないから、よくわからない。雰囲気が悪いというのは感じなかったけど……」
運転席側に視線をチラチラ飛ばしながら答えると、ルームミラーに映った榊原くんの瞳が、嬉しげに細められたのが目に留まる。
「事務職しか経験のない私が、いきなり探偵事務所に勤めても、やっていけるものなのかな? 依頼された探偵っていう慣れない仕事を、自分からこなさなきゃいけないときだってあるでしょ?」
「事務職経験者だからこそ、お誘いしてるんです。副所長の田所さんは所長のお守りを兼ねているせいで、思うように事務仕事が捗らないことを、よく耳にしてるんです」
「なるほど、だったら考えてみようかな」
顎に手を当てて考え込むハナの横顔を、なんとはなしに眺めた。さっきよりも緊張感がとれて、表情が柔らかくなっていることに気づき、ほっと胸を撫でおろす。
事前に榊原くんに言われていたこと――慣れないことをする緊張感や失敗しないように気を張り詰め続けることは、病みあがりのハナの体調にとってよくない。
それを少しでも緩和すべく車内で話を振るので、ハナが話しやすいように相槌を打ってくださいと頼まれていた。
「榊原さんは、探偵の仕事は長いんですか?」
今まで黙って話を聞いてた奥様が、ハンドルを握る彼に話しかけた。
「今年で6年目です。まだまだ不測の事態に対処できないぺーぺーですよ」
「航希くんってばしっかりしてるのに、そんなことないんじゃない?」
「いえいえ、そんな。この間だって田所さんと一緒に調査してる最中に、警察の職質に捕まってしまったんです。ママ活の援助交際と勘違いされたせいでしつこく尋問された結果、ターゲットには逃げられちゃって。結局所長にわざわざ現地に来てもらったおかげで、解放された次第です」
ハンドルを握りながら肩を竦めて喋る榊原くんに、ハナがくすくす笑った。
「榊原くんってば、絵里と会話してるときだけ、めっちゃ口数が増えてる。どうしてかなぁ?」
「そんなことはない、と思いマス……」
たどたどしく口にした榊原くんに、奥様が追撃をぶちかますように話しかけた。
「もしかして、私たちお邪魔だったかしら。私と斎藤さんは、別の車に乗ったほうがよかったかもしれないわね」
「ほんとそれ!」
「奥さんと斎藤さん、俺で遊ぶのやめてくださいって。絵里さんが一番困ってるんですよ」
「え? 私、困ってないけど」
盛り上がる私たちの会話とは裏腹に、車の一番奥の席に立てかけられたキャリーケースは、静かな寝息をたてるターゲットを、居心地のよくない場所で守っていたのだった。