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#復讐
草原草原(くさはらそうげん)

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木風
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#サレ妻
都築七美
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給食費の欄に四千三百二十円と書いて、真尋は赤ペンのキャップを閉めた。
月末に端数まで合うと、その月がちゃんと終わった気がする。緑の表紙のA5のノートは、結婚した翌年の一月から一年に一冊、今年で九冊目になる。
「お母さん、七の段、言える?」
向かいで結衣がひらがなのプリントから顔を上げた。お風呂の壁に貼った九九の表を、このごろ勝手に覚え始めている。
「七、十四、二十一」
「はやい」
「お母さんは毎日、数字と仕事してるからね」
十月三十日、木曜の夜九時。恭平はまだ帰らない。真尋は家計簿の隣に家計口座の通帳を開いて、十月の引き落としを上から順に指で押さえていった。住宅ローン十万二千円、電気、ガス、水道、結衣のスイミング、恭平の実家への仕送り三万円。
指が止まった。
十月二十七日の行が、空いている。
毎月二十七日には、結衣の学資保険の一万六千円が引き落とされる。二〇一八年の八月、結衣が生まれた月から、一度も欠けたことがない。真尋は通帳を一ページ戻し、九月の二十七日を見た。『学資 16,000』。八月も、七月もある。十月だけがない。
「お母さん?」
「ん。何でもない」
真尋は家計簿の余白に小さく『10/27 学資 引き落としなし。要確認』と書いた。二十七日の時点で口座には三十一万円あった。足りなかったはずがない。
銀行の手違いか、保険会社の都合か。明日の朝、電話すればいい。
そう思って、真尋は七の段の続きを聞いた。結衣は四十九で一度つまずいて、五十六まで言い切った。
朝、結衣を送り出してから、真尋は保険会社の窓口に電話をかけた。パートは九時半からで、事務所まで歩いて十五分。八時四十分なら三十五分ある。
音声の案内を三つ抜けて、女の人の声が出た。真尋は証券番号を読み上げた。
「ご契約者様のお名前と、ご本人確認を」
「契約者は夫です。篠原恭平。私は妻の真尋です。被保険者は娘の結衣で――」
「奥様ですね。少々お待ちください」
保留の音楽が一分ほど流れた。真尋はその間に、家計簿の余白に日付と時刻を書いた。『10/31 8:43』。
「お待たせいたしました。ご家族様ということで、ご契約が現在有効でないことだけはお伝えいたします。こちらのご契約は、十月に、ご契約者様であるご主人様のお申し出により、解約の手続きが完了しております」
真尋は、聞いた言葉をそのまま頭の中で繰り返した。ご主人様のお申し出により。解約。
「解約、ですか」
「はい」
「いつ、ですか。何日に」
「申し訳ございません。お手続きの詳細につきましては、ご契約者様ご本人にしかお答えできない決まりになっております」
「返戻金は。どこに振り込まれたんですか」
「そちらも、ご契約者様に」
「分かりました。お名前を伺ってもいいですか。担当の方の」
相手は少し間を置いてから、名字を言った。真尋は『10/31 8:43 解約済み(10月)。担当 ○○さん。詳細は契約者のみ』と書き、受話器を置いた。
手は、思ったほど震えていなかった。
七年と二か月。八十六回。一万六千円が八十六回で、百三十七万六千円。解約で戻る金は、払った額より少し減る。たぶん百三十万円前後。その百三十万円は、どこへ行ったのか。
真尋は家計簿を手提げに入れて、家を出た。
神谷税理士事務所は駅前のビルの三階にある。机が六つ並んだ事務室の、入口にいちばん近い机が真尋の席だった。
「パートさん、丸正さんの照合、終わった?」
古株の大久保が、湯呟みを並べながら聞いた。
「もう少しです。十月分の、一か所だけ合わなくて。二十三円」
大久保は笑って、二十三円くらいいいじゃない、と言った。
「二十三円が、毎月同じ仕入れ先で出てるんです。端数の切り上げ方が、その一社だけ違う」
真尋は丸正食品の仕入れ伝票を三か月分、机に並べた。消費税の端数は切り捨てで統一されているのに、一社だけが切り上げになっている。一枚で数円、月で二十三円。三年分なら千円に満たない。ただ、その一社だけ、伝票の枚数が去年の倍に増えていた。
後ろで椅子の音がした。所長の神谷が、所長室から出てきて真尋の机の横に立った。白いシャツの袖を肘までまくり、胸ポケットに赤いボールペンが一本刺さっている。
「どの一社だ」
真尋は伝票を一枚、裏返して渡した。神谷は三秒ほど見て、赤ペンで仕入れ先の名前に丸をつけた。
「仕入れの単価と数量も、この一社だけ抜いて並べなさい。今日中に」
「はい」
「大久保さん。篠原さんの照合は間違わない。二十三円で止まったなら、二十三円に理由がある」
大久保は肩をすくめて湯呟みを配った。神谷は所長室に戻りかけて、足を止めた。
「篠原さん。顔色が悪い。何があった」
真尋は伝票を持ったまま、少し迷った。事務所で家の話をしたことはない。
「娘の学資保険が、解約されていました。今朝、保険会社に電話をして。夫の申し出だそうです。私には詳細を教えてもらえませんでした」
神谷の眉は動かなかった。
「通帳はあなたが持っているのか」
「はい。家計の口座は」
「全部コピーしなさい。今日中に。残高が映る形で、一ページも飛ばさずに」
「所長、それは――」
「数字は嘘をつかない。嘘をつくのは人だ。紙が手元にあるうちに写す。それだけだ」
神谷は所長室に入り、扉を閉めた。
大久保が真尋の湯呟みに茶を注いで、小声で、冷血って言われてるけどああいうところがあるのよ、うちの所長は、と言う。
真尋は湯呟みを両手で持った。熱い。
恭平は夜九時過ぎに帰ってきた。
玄関で靴を脱ぎながら「飯、まだ?」と言い、スーツの上着を椅子の背に放った。銀色の腕時計をはずして、テーブルの端に置く。三年前、会社の表彰で貰ったと言っていた時計だった。
結衣はリビングのテーブルで、漢字のプリントをやっている。真尋は味噌汁を温め直してから、恭平の向かいに座った。
「恭平さん。結衣の学資保険のこと、聞いていい」
「何」
「十月の引き落としがなかったから、保険会社に電話したの。解約されてるって。恭平さんの申し出で」
恭平は茶碗を持ったまま、真尋を見た。それから結衣を見て、また真尋を見た。
「ああ。解約した」
「いつ」
「先月だか、今月だか。忘れた」
「百三十万円くらい、戻ってるでしょう。それ、どこに」
恭平は箸を置いた。
「俺の金だ。何に使ったか、いちいち言う義務があるのか」
「結衣の学資保険よ」
「だから、俺の金で払ってた保険だろ。契約者も俺だ。解約するのも俺の自由だ」
結衣の鉛筆の音が止まっていた。真尋は視界の端でそれを見た。
「パートのくせに、俺の金の使い方に口出すな。お前は家のことだけやってればいい」
恭平は箸を取り直して、味噌汁を飲んだ。
真尋は、言いたい言葉を二つ三つ、順番に飲み込んだ。結衣が見ている。結衣の前で、この人と声を荒らげるわけにはいかない。
「分かった。ごはん、おかわりは」
「いい」
真尋は立って、結衣の横に座った。
「結衣、この字、はらいが足りない」
「えー」
結衣は消しゴムを持った。鉛筆の音が、また始まった。
結衣を寝かせたのは十時だった。恭平は風呂に入って、十時半には寝室の電気を消した。
真尋はリビングの戸を閉めて、食器棚の下の段から通帳を全部出した。家計口座の通帳は九年で七冊。古いものは輪ゴムで束ねてある。
コピー機は家にない。真尋はスマホで一ページずつ撮った。残高の列が切れないように、机の上の灯りを寄せて、一枚ずつ。七冊で百六十二ページ。全部撮り終えたとき、時計は十二時十分を回っていた。
撮った画像を、事務所の自分のアドレスにも送る。神谷の言葉が頭に残っていた。紙が手元にあるうちに写す。
台所のごみをまとめて、真尋は玄関を出た。十一月一日になったばかりの外は、冷えていた。ごみを置いて戻る途中、郵便受けに白いものが見えた。
夕方、取り忘れていたらしい。真尋ははがきを引き抜いて、玄関の灯りの下で表を見た。
宛名は恭平。差出人は、今朝電話した保険会社だった。
裏を返す。『ご住所変更手続き完了のお知らせ』。
『このたびはご住所変更のお手続きをいただき、ありがとうございます。今後のご案内は、下記の新しいご住所へお送りいたします。お心当たりのない場合は、至急お問い合わせください』
新しいご住所の欄に、住所が印字されている。
『西町二丁目 コンフォール西町302』
この家の住所と違う。駅の向こう側だ。
真尋は、はがきを持ったまま、玄関の灯りの下に立っていた。
コメント
1件
わあ〜…これ、めっちゃくる…😭💦 給食費の桁まで書き留める真尋さんの几帳面さと、解約通知の冷たさが対照的すぎて胃が痛くなった。「ご主人様のお申し出により」って、そんな一言で七年が終わるんだ…。ラストのはがき、住所違うの確信犯じゃん…。続きが気になりすぎて今夜眠れないレベル🆘💔 真尋さん、絶対幸せになってほしい…!