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マンションに着いたという迅の電話を受けてから数分後、私の部屋のインターホンが鳴った。いそいそと応答し、モニターに映ったのはもちろん迅の顔だ。
私はどきどきしながら玄関に向かい、そっとドアを開けた。
「いらっしゃい」
「お邪魔します」
緊張しているのは、私だけではなさそうだ。
迅は固い表情で玄関に足を踏み入れた。私が閉めたドアを背にしたまま、その場に突っ立っている。
私は彼の顔を見上げて声をかける。
「迅君、どうぞ」
彼は私の声にはっとしたように瞬きをし、照れ笑いを浮かべる。
「あ、ありがとう。今さらだけど、なんだか緊張しちゃって。えぇと、では、失礼して……」
迅はぎこちない動きで、私が用意したスリッパに足を入れた。
私は迅の先に立って短い廊下を進んだ。さほど広くもないから、リビングとして使っている部屋まではほんの数歩だ。扉を開けて彼を中に促す。
「好きな所に座ってて。今、お茶、出すね」
「ありがとう。あぁ、その前に、これ」
迅は私の前に小さな紙袋を差し出した。
「電話で言ってたお土産。米粉のバームクーヘン」
「ありがとう。なんだか気を使わせちゃったね」
「全然。友達がうまいって言ってたから、美祈ちゃんに食べてもらいたいと思ってさ」
「じゃあ、お茶と一緒に出すね」
「美祈ちゃんに買って来たんだから、俺はいらないよ」
「でも、誰かと一緒に食べた方がずっと美味しいよ。ちょっと待っててね」
「俺、何か手伝うよ」
「大丈夫。すぐ用意できるから。迅君はゆっくりしていて」
「じゃあ、早くこっちに来てね。美祈ちゃんの顔をゆっくり見たいから」
「わ、分かった」
迅の言葉がくすぐったい。私はそそくさとキッチンに行き、お茶の準備を始めた。
「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」
「じゃあ、コーヒーをもらおうかな」
「ミルクとか砂糖は入れる?」
「いや、無しでいいよ」
他愛のない会話を交わしながら、恋人という存在が今自分の部屋にいることを、私はとても不思議に思っていた。身内以外の異性をこの部屋に招くのは初めてで、まだ現実感がなく、心がふわふわしていた。その気分のまま、私は二人分のマグカップにインスタントコーヒーの粉を入れ、ポットからお湯を注ぎ入れた。
コーヒーの香りが燻る傍で、今度は迅の手土産を切り分けようとナイフを手にする。バームクーヘンをカットしようとして、刃先がうっかり指に触れてしまった。
「いたっ!」
「大丈夫?!」
ナイフを置いてその血を水で洗い流そうとしているところに、迅が慌てた様子でやって来た。
彼は即座に私の手をつかんだかと思うと、ぷつっと小さく血が浮いた指先をその口にくわえた。
「ちょ、ちょっと、迅君?!」
驚く私に構わず、彼は私の指先を舐めている。
生温かい舌の感触にぞくりとして、私は首をすくめた。
「も、もう大丈夫だからっ。たいしたことないしっ。だから離してっ」
迅はのろのろと私の指から口を離し、ついさっきまで血が浮いていた部分を確かめるようにじっと見ていたが、よし、とつぶやく。
「血は止まったね」
「たいしたことないって言ったでしょ」
私はどきどきしながら水道の蛇口を開けて、指先を中心に手を洗った。傍で心配そうな顔をしている迅に笑いかける。
「ありがとう。あと、これを切るだけだから」
「俺、やろうか?」
「うぅん、大丈夫。ほら、指はもう全然なんともないでしょ?」
「じゃあ、このマグカップ、先にあっちに持って行くよ」
「お願いします」
迅がマグカップを手にソファに戻って行く。
私は彼に気づかれないようにそっとため息をついた。今のアクシデントのせいで、ただでさえ落ち着きのなかった鼓動がいっそう騒がしさを増した。この状態を引きずったまま迅の傍に座った時、果たして平気でいられるか、まったく自信がない。
「美祈ちゃん。眉間にしわが寄ってるけど、大丈夫?」
迅に気づかわし気に声をかけられて、我に返る。
「大丈夫よ」
私は笑顔を作り、改めてバームクーヘンにナイフを入れた。切り分けたそれらを皿に乗せて、迅の元へ向かう。
「お待たせ」
迅の前に皿を置き、私はソファに腰を下ろした。
彼が不満そうな顔をする。
「どうしてそんなにそっちに座るの?」
「あの、ほら、これくらい間隔を開けた方が、互いに寛ぎやすいんじゃないかと……」
「そう言えば、この前うちに来た時も、最初俺から離れて座ったよね」
迅は思い出し笑いをし、私の方へずいっと近寄り距離を詰めた。
「恋人同士の定位置の話、もう忘れた?」
言うなり、迅は私の肩に腕を回した。
彼の腕にもたれかかる格好になり、私は焦る。
「ちょ、ちょっと待って」
「美祈ちゃんの方から俺にくっついてくれるんなら、手を離してもいいよ」
迅は笑って言いながら、ますます私の肩を抱く手に力を込めた。
彼の体温と彼の匂いにくらくらとめまいを起こしそうになる。私はかすれ声で彼に頼み込む。
「ねぇ、お願いだから離して」
「どうして?」
「だって……」
「だって、何?」
「だから、こんなにくっ付いていたんじゃ、私の心臓が持たないのよ」
「これくらいのことで?」
迅にしてみれば、たいしたことではないのかもしれない。
しかし私にとってはたいしたことであって、今も激しく高鳴る鼓動のおかげで胸が苦しい。
「お願いだから、恋愛初心者をあんまりいじめないで」
「とか言いながら、この間の行動は結構大胆だったんじゃない?」
「あ、あれは、その……」
私は口ごもった。確かに、あの時の、あの衝動的な行動は、自分でも大胆すぎたと思う。その時のことを思い出すと、穴に入りたくなるほど恥ずかしい。
上目づかいで迅の表情をうかがうと、彼の口元には愉快そうな笑みが刻まれていた。
彼にからかわれているのかしらと、私はむっとして唇を歪める。
「迅君、面白がってるでしょ」
心外だと言いたげに迅は目を見開く。
「まさか!面白がってるんじゃなくて、可愛いなって思ってるんだよ」
「うそね。絶対にからかってる」
「からかってないって。本当にそう思ってるんだってば。俺の彼女はなんて可愛いんだろう。こんなに可愛い人が俺の彼女なんだぞ、って世界中の人に自慢したいよ」
迅が並べる言葉の甘さに耐えられなくなり、私は彼の口を手で塞ぐ。
「本当にもう、お願いだからやめてよ」
迅は私の手のひらにちゅっと口づける。
私は彼の不意打ちに驚いて手を引っ込めた。
「そういう照れた顔も、ほんと、可愛い。大好きだ」
しみじみとした口調で言い、彼は私の額に口づけた。
その唇が離れた時、おずおずと見上げた彼の目は、真っすぐに、そしてますます甘い光を湛えて、私を見つめていた。
その瞳に引き込まれて、視線を外せなくなる。
その合間にも、彼の顔は静かに徐々に迫ってくる。彼の吐息を間近に感じながら、私はそっと瞼を閉じた。