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#シリアス
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紫香楽
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鳳凰館の給仕としての休日。
私は、聞き慣れた下駄の音さえかき消されるほど、賑わいを増した帝都の雑踏の中にいた。
行き交う馬車の車輪が石畳を叩き、道行く人々の活気が春の陽気と混ざり合う。
両手には、抱えきれないほど膨らんだ風呂敷包みが二つ。
「これは仕事の研究のためだから」と自分に言い聞かせているけれど
結局のところ、市場を巡る私の頭にあるのは煌様のお顔ばかりだった。
「もっと新しい味を」
「あの方が驚くような一皿を」
そんな欲張りな思考に急かされるまま、あれもこれもと食材を買い込めば
いつの間にか風呂敷ははち切れんばかりに膨れ上がり、私の腕を容赦なく圧迫していた。
「うう、少し……買い込みすぎたかも……」
重みに耐えかね、視界が荷物で遮られそうになる。
慣れない人混みの中で、ふらりと足がもつれた。
石畳のわずかな段差に足を取られ、無様に転びそうになった、その時だった。
「おっと。危ないぞ」
強い力で、ぐいと右腕を引き寄せられた。
地面に叩きつけられる衝撃に備えて固く閉じていた目を開けると
そこには見慣れぬ「紺色の着流し」があった。
鼻をくすぐったのは、凛とした墨の香りと、記憶に深く刻まれているあの清涼な匂い。
恐る恐る視線を上げれば、そこにはいつもの威圧的な軍帽を脱ぎ、前髪を自然に下ろした──
私服姿の煌様が、呆れたような、けれど優しい眼差しで私を見下ろしていた。
「あ、煌様……っ!?」
「……雪、こんなところで、一人で何をしている」
漆黒の軍服を脱ぎ捨てた彼は、軍人としての鋭さが影を潜め
どこか余裕のある大人の男性の包容力を漂わせている。
着流しから覗く首筋や、無造作な髪筋があまりに格好良くて
私は謝るのも忘れて、ただただ呆然と見惚れてしまった。
「あ、すみません!その、ぼうっとしていて……。助けていただいて、ありがとうございます」
我に返って何度も頭を下げようとする私を見て、煌様はふっと口角を上げた。
その、まるで少年のように純粋な表情に、私の胸は壊れそうなほど跳ねる。
彼は私の塞がった両手を見て、さりげなく、けれど拒絶を許さない速さで手を伸ばした。
「重そうだな。半分貸せ」
「えっ、いえ!滅相もありません。ただの給仕の荷物を、少佐殿……いえ、煌様に持たせるなんて…」
「今は少佐ではない。ただの男だ。……君は、案外頑固だな」
煌様は困ったように苦笑すると、私の性格を察してか、全部を取り上げるのではなく
一番重そうだった野菜と肉の包みだけをひょいと持ち上げた。
そして、少し軽くなった方の包みを私に手渡し
「さあ、行くぞ」と促すように歩き出した。
私も横に並び歩く。
「……買い物の帰りか?」
隣を歩く煌様との距離があまりに近くて、生きた心地がしない。
私は肩が触れ合わないよう必死に意識しながら、顔を伏せたまま声を絞り出した。
「あ、はい!煌様にもっと美味しいご飯をと思って……。料理の研究がてら、まだ使ったことのない食材を買い込んできたんです」
「……休日まで、私のために使っているのか?」
煌様が唐突に足を止め、不思議そうに私を覗き込んだ。
「? えっと…はい。……何か、おかしいでしょうか…?」
「いや……仕事熱心なのだなと思っただけだ。…感心する」
煌様はわずかに視線を逸らした。
その時、彼の耳たぶが、夕陽のせいではなく
心なしか赤くなっているように見えた。
私のために照れてくださっているのだろうか
そんな自惚れが頭をよぎり、胸の奥がくすぐったくなる。
「ふふ、そう言ってもらえると嬉しいです!リクエストなどあれば、何でも教えてくださいね。いくらでも勉強して、最高の一皿を作りますから!」
私が意気込んで顔を上げると煌様は「そうか、それは楽しみだな…考えておく」と笑ってくれた。
そのとき、ちょうど通りは大きな交差点へと差し掛かった。
休日を楽しむ家族連れや人力車が溢れ、前後左右から波のように人混みが押し寄せてくる。
「っ、きゃ……!」
背後から来た男に肩を突かれ、煌様から引き離されそうになったその瞬間。
ぐい、と。
大きな、熱い掌が私の手を包み込んだ。
「大丈夫か?」
「は、はい、助かりました…!ありがとうございます…っ…えっと、でも、どうして手を?」
「はぐれないように、手を繋いでおいた方がいいだろう」
「な、なるほど…!お気遣いありがとうございます」
それも、ただの手繋ぎではない。
指と指を深く、隙間なく絡める『恋人繋ぎ』というやり方で。
「?!あ、煌様……っ。あの、この繋ぎ方は…その……っ」
手のひらから伝わる、あまりに親密で熱い感触。指の間を埋め尽くす彼の体温。
心臓が爆発しそうなほど激しく打ち鳴らされ、私の顔は瞬く間に、沸騰したかのように赤くなった。
私のあまりの狼狽ぶりに気づいたのか、煌様はハッとしたように目を見開いた。
「……!す、すまない。つい、無意識に…」
煌様は慌てて指を解くと、まるで何事もなかったかのように、サッと普通の手繋ぎに直した。
その、あまりに滑らかで淀みのない「繋ぎなおし」。
そして、何より彼が無意識に口にした「つい」という言葉。
(つい……無意識に、あんな繋ぎ方を……?)
一瞬前までの熱狂が、急速に冷めていくのを感じた。
私の胸には、冷たい泥のような感情がじわりと広がっていく。
煌様のような、立派で、美しくて
誰からも慕われるお方なら、女性をエスコートすることなんて呼吸をするように慣れているはずだ。
鳳凰館の廊下で囁かれる、彼を慕う名家の令嬢たちの噂は絶えない。
私には知らない、彼が「つい」そんな振る舞いをしてしまうような相手が
これまでも、そして今も、私の知らない場所に何人もいるのだろうか。
「……どうした、雪。急に顔色が悪いぞ、人混みで酔ったか…?」
「いいえ、何でもありません…!お言葉に甘えて…はぐれないように握らせてもらいますね」
私は無理やり唇の端を上げて、彼の温かな掌を握り返した。
手のひらから伝わる熱はこんなにも心地よくて、私を安心させてくれるはずなのに。
私の心は、どこまでも晴れ渡った帝都の青空とは裏腹に、どんよりとした暗い雲に覆われていくようだった。
煌様にとっての「普通」が、私にとっては一生に一度の「特別」すぎて。
その残酷なまでの距離に
私はまた一つ、身分不相応な恋がもたらす、苦い毒の味を知ってしまうのだった。