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あの日、帝都の雑踏の中で繋がれた
あの熱い掌の感触が、いまだに指先にこびりついて離れない。
「つい、無意識に」───
その言葉の真意を量りかねて、私の心は凪ぐことのない海のように千々に乱れていた。
しかし
そんな私の葛藤など露知らず、煌様は今日も漆黒の軍服を隙なく着こなし
凛々しい姿で鳳凰館へと足を運んでくださっていた。
「……あ」
お食事を終えられたお膳を下げようと、そっと歩み寄ったその時。
私の目は、彼の胸元で危うく揺れる一点に、釘付けになった。
威厳に満ちた第二ボタン。
その糸が緩み、今にも零れ落ちそうに解れている。
国家を背負う陸軍少佐の軍服に、このような綻びがあってはならない。
何より、大切な煌様が恥をかくようなことがあっては──
「煌様、ボタンが……。よろしければ、今すぐお直しいたしましょうか?」
私の控えめな申し出に、煌様は少し意外そうに、自分の胸元へ視線を落とした。
指先で軽くボタンに触れ、「ああ」と短く呟く。
「……気づかなかったな。すまない、頼めるか?次の予定までは、まだ少し時間がある」
他のお客様の目に触れぬよう、私は彼を奥の控え室へとご案内した。
襖を閉め、二人きりになった狭い室内。
煌様は、私にとっては神聖な儀式のようにも見える手際で、軍服の合わせを一つひとつ解いていった。
重厚な上着が脱ぎ捨てられた途端
私の視界は真っ白なシャツに包まれた彼の姿でいっぱいになった。
軍服の下──
そこには、糊のきいたシャツに黒いサスペンダー。
肩幅の圧倒的な広さ、軍務で鍛えられた背中の厚みが、薄い布越しでも生々しいほどに伝わってくる。
「座っていいか」
「は、はい!どうぞ……っ、こちらへ」
私は慌てて裁縫箱を抱え、椅子に腰かける彼の膝元に跪いた。
畳の上に膝をつくと、自ずと彼との距離はさらに縮まる。
至近距離。
針を通す手元に集中しようとするけれど、すぐ目の前には煌様の逞しい胸板があった。
一定のリズムで静かに上下する、その豊かな厚み。
男の人の肌着姿……
ましてや、これほどまでに近くで異性の体温を意識することなどなかった私にとって
それはもはや、直視することさえ憚られる刺激だった。
「……雪?手が止まっているぞ。どこか難しいか?」
「い、いえ! 大丈夫です、すぐ終わりますから!」
私は必死に暴れ回る動悸を抑え込み、解けた糸を切り取って、新しい針を通した。
一針、また一針。
硬い布を突き抜けるたび、指先が彼の胸の温もりに触れてしまいそうで
指先が微かに、けれど止めることができないほど震える。
……よし、できた。
最後の一刺しを終え、裏側で玉止めをして
ようやく安堵の息を漏らしながら顔を上げた、その時だった。
「……っ」
目の前には、呼吸によってはち切れんばかりにシャツを押し上げる、彼の鍛え上げられた胸が迫っていた。
上裸どころか、こんなにも無防備な姿の男性を間近で見たことのない私。
男性に慣れていない自覚はあったけれど、これほどまでに心臓が跳ね、頭が真っ白になるとは思わなかった。
私は一気に耳の付け根まで赤面し、弾かれたように視線を斜め下へと逸らした。
その、あまりに露骨で隠しようのない反応に、煌様が微かに喉を鳴らして笑った。
「……そんなに、見れないものか?」
楽しげな、けれどどこかこちらを試すような、低い響きを含んだ声。
煌様は逃がさないとでも言うように、わざとらしく、ほんの少しだけ距離を詰めてきた。
彼の発する熱気が、直接肌を焼くような錯覚に陥るほど、近い。
「み、見れます……っ、これくらい!」
私は膝の上で着物の袂をぎゅっと握りしめ、精一杯の虚勢を張った。
けれど、意志に反して視線は泳ぎっぱなしで、彼の顎のあたりと畳を激しく往復するばかり。
「嘘をつけ。目が泳いでいるぞ」
不意に、節くれだった大きな指先が、私の顎に優しく触れた。
強引すぎない、けれど抗うことを許さない絶妙な力加減。
そのままゆっくりと、私の顔を上へと向かせる。
逃げ場を完全に失った視線が、真っ直ぐに煌様の鋭い瞳とぶつかった。
数センチの距離で見つめ合う、深く、夜の底のような黒い瞳。
その瞬間
私の顔はさっきまでとは比べものにならないほど、火がついたように熱くなった。
「す、すみません……っ。本当は…男の人の、こういう……お姿、見慣れていなくて……っ。恥ずかしくて……どうしていいか…」
針仕事をしていた時は、ただ「お直し」という職務に集中できていた。
けれど、今は違う。
目の前にいるのは、圧倒的な熱と重さを持った
絶賛片思い中の「男性」なのだ。
その事実を突きつけられ
私は金縛りに遭ったように、その指先に顎を預けたまま固まってしまった。
「…………」
私の消え入りそうな告白を聞いた瞬間
煌様の指の動きもまた、ぴたりと止まった。
茶化そうとしていたはずの彼の瞳が、不意に揺れ、射抜くような濃い熱を帯びる。
想定を遥かに超えた私の反応に、そして赤く染まりきった顔に
彼自身もまた、顎を支える手を離すタイミングを完全に見失ってしまったようだった。
狭い控え室。
外界の物音一つ届かない静寂の中に、時計の音さえ聞こえなくなるほどの緊張が流れる。
心臓の音がうるさすぎて、自分の呼吸さえも忘れてしまいそう。
私の顎を支える指が、微かに震えているのが伝わってきた。
「秘密の距離」が、私たちの間に甘く、そして息が詰まるほど苦しく停滞していた。
───ガタッ!
廊下の遠くで、誰かが盆でも落としたような物音が響いた。
「っ……!」
弾かれたように、二人の身体が離れる。
煌様は慌てて視線を明後日の方向へと逸らし
脱ぎ捨てていた軍服をひったくるようにして乱暴に袖を通した。
私はといえば、震える手で裁縫道具をめちゃくちゃに箱の中に押し込み、逃げる準備を整える。
「お、お直し終わりましたので! し、失礼いたしました……っ!」
振り返って彼の顔を見る勇気なんて、一欠片も残っていなかった。
私は火照った顔を両手で覆い隠しながら、転ぶような足取りでその部屋を飛び出した。
背後で、ようやく完璧に留められた軍服のボタンの、微かな音が聞こえた気がした。
さっきまで触れていた指先の感触が、いつまでも
いつまでも顎に残っていて消えてくれない。
私は、自分が踏み込んでしまった「秘密」のあまりの重さに、ただただ翻弄されるばかりだった。
#シリアス
3,184
紫香楽