美術館の中にはそれなりに観光客や客がおり、流石に男二人で手を繋ぎっぱなしにしているのも憚られると思ったのか、笹岡も暫くして怜の手を離すと歩き回ってあちこちに展示された美術品を見学しているように見える。海のそばにぽつんと建てられたタワーの中に居る時とは違い、何だかさっきは二人とも無駄に開放的な気分になっていたのかもしれない。
先に行く笹岡の背中を見ながら、怜も館内を歩き回る。
…思えば同じ学校であっても笹岡が普段何を見て、誰とどんな付き合い方をしているのかを、怜は殆ど知らない。
しかしいきなり学校の知り合いに電話を掛けて乗り込んで来るような事をする友人は、怜には居ない。怜は笹岡と会うたびに、そうして二人で居る間に、笹岡は怜が持っている当たり前を次々無理やり引き剥がして行く。
(あーあ…)
別に、後悔しているわけじゃなかった。
でも、さっき…
怜はあの部屋で自分がした事を思い出しては、いったい何であんなことが出来たんだろうと、それからそれを笹岡がなぜ全く忘れているみたいに振る舞っているのかも分からなかった。
胸の内側が時折ヒリヒリと痛み出す。けどそれが一体なぜなのか分からない。
目の前にいる笹岡はときどき振り向いて怜に向かってあれこれと話しかけてくる。
その度に怜は「うん」とか「ああ」とか返事を返し、頭の中では数年前に何度か父親から連れられて来た時のことをぼんやりと思い出している。
「まだ、眠いの?おまえ目の焦点合ってる?」
笹岡は怜の事を振り返りながら言う。
少しばかりムッとして、怜は
「あのさあ、お前、結構うるさいよ」
と言う。
「は。」
無言で見ろっての、笹岡がそう呟く。
怜は笹岡のその様子を見て、少し笑う。笹岡が怜の顔を見て、同じように笑い、それから展示品の前に突っ立っている怜の元へと歩いて来る。
「どう」
「なに」
「それ、好き?」
「うん」
怜は誰かが作った何かの抽象的なオブジェに再び目線を合わせる。
「どっちかというとね」
笹岡はその様子を見てくっくっと笑い出す。
「…お前は、楽しくてしょうがないって感じ」
「あー。そんな風に見える?」
「うん」
「うんまあ…それよりも、すごい楽だなって思ってる」
「ラク?」
怜が聞き返すと笹岡は「うん」と言う。
何が、と聞いても笹岡は応えない。
「笹岡も、案外こういうの好きなんだ」
「…俺も初めて知った。あまりこういうところ、来ることないから」
「ふーん」
「でもさ、修学旅行とかでも色んなもの見に行ったりもするだろ。やっぱそれとは、ちょっと違うね」
「うん」
「大人の場所だよ。ここは」
そう言った笹岡の横顔を見た後で、怜は同じように前の空間を見る。
「俺、明日には移動するよ」
「…そうなの?」
「うん。連泊はしないで、南の方へ行くから。そっちが、父親といつも行っていた場所。婆ちゃんの家が昔あって、若い頃の父親が働いていたって言う所なんだ」
「ふうん。なるほど」
「うん。でも、笹岡はもう帰るんだろ」
「うーん。」
「まさか、ずっと着いてくるつもり?」怜は笑いながら言う。
友人同士のつもりで問いかけた感覚だったが、笹岡は応えない。
なんだかミョーな気分だった。
ついさっきまでの感じが無いように振る舞っていたのは、どっちかというと笹岡の方だったのに。
「…まあ千葉は、俺のテリトリーじゃないから。」
「なんだそれ」
怜はそう言って笑う。
「確かにね。でも二泊くらいだったら、付き合うつもりだったからちょっと拍子抜けしたな。」
「千葉、周りたいの?」
怜が笹岡の顔を覗き込むと、笹岡は怜の方を睨んで「そういうこと言う?」と呟く。
だいたいの展示室を回り、また階下へ降りた後二人でショップを見てから、美術館から出た。それから暫く歩き、バスに乗り込んでさっきのホテルまで向かう。
もうすっかり夜の気配の街の中を、学校や家からも離れて同じ高校の笹岡と二人、隣同士で座っているのはなんだか現実感がなかった。
バスに揺られながら、何を話せばいいのかと怜が考えていると、笹岡が先に口を開いた。
「聞いてもいい?サワグチってさ、彼女とか居たことあるの」
「え…ないよ。」
「まじ?一回も?」
「うん。」
「じゃあ、好きな人は」
「あー、まあ。気になる人なら、何度か居たかな。」
「佐藤とか?」
「いや、違うよ。同じクラスの人」
「ふうん…どんな相手?」
「いや…、そんな事聞いてどうすんの」
怜が隣に座る笹岡の方を見る。笹岡は真面目な顔をしたままで怜から目を逸らす。
「まあ、いいけど。確かに、くだらない話だったな。」
「…いんだけどさ。そんな事、興味あるんだなって思って」
「…」
「俺はさ、女子で言うと物凄く大人しくて優しい子がすきなの。」
「ふーん。」
「本当に一人で居ないと壊れちゃうみたいな、虫も殺せないみたいな子。
そういう子のこと考えてエロいこと考える事はある」
「おえっ。何、それ…」
笹岡が眉を顰めて怜の方を見る。
怜がこう言うことを言うと、大抵のクラスメイトや部員なんかは同じリアクションをするから、それは想定内だった。
「いやこれは、譲れない部分だから。」
「うえ〜。俺なんかサワグチの事、誤解してたかもな」
「そう?」
めちゃくちゃ、普通だと思うけど。そう呟き、外の景色を見る。何個目の停留所だったのか、なんとなくでしか覚えていなかったので、バスが止まるたびに怜は周りを確認している。
「うん。俺、さあ…
いや、やっぱ、いい。お前がそんなつまんない事考えてるなんて知らなかったな」
「別につまんなく無いだろ。周りの奴らだって大体同じような事考えてるよ。雑誌とか、YouTubeとかでかわいめの子見つけてずっと見てるよ。そいつら」
「いや、だからさ。そんな杓子定規な見方で判断する様な奴だったんだなって」
「判断て?」
「…」
笹岡は何か言いたげだったが、また黙って前の方を向いている。
「でも俺みたいな考え方ってごく一般的な男の嗜好だったりするんじゃない。俺めっちゃ、自分のことフツーだなって思ってるもん」
「……」
「笹岡は?」
「ん?」
「だから、お前が先に言い出したんだろ。
だからそういう相手とか居たのっていう話題なんじゃないの」
「…ああ。
居たよ、そりゃ。でもまあ、お前の想像に任せるよ。俺みたいな奴の話したら、お前の倫理観を傷付けるかも知れないから聞かない方がいいよ。」
「なんだ、それー。お前の方がよっぽど頑なじゃんか」
「いいよ、もう。」
そう言って笹岡はそっぽを向いてしまう。バスはどんどん、見覚えのある風景の場所へと近づいて行くが、怜はなんとなく笹岡の気持ちが以前よりも分かるようになって来ていた。
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