ちょっとした(?)からかい心で、ティアを泣かしてしまったグレンシスだけれども、もちろん悪意など微塵もなかった。
あまり表情が動かないティアが赤くなったり青くなったりと、くるくる表情が変わるのを見ていたかっただけ。
ティアの表情を動かすことができるのは、自分だけだというだという独占欲が働いてしまったのだ。
やり方は間違っていたけれど、3年前の出来事を共有したかった気持ちもあった。
無論、反省している。惚れた女性の泣き顔は、ことのほか堪える。二度とあんな意地の悪いことはしないと強く心に誓った。
それ以降、ティアを困らせる言動は意識して控えるようになった。まぁ……それなりに。
*
時間はあっという間に過ぎていく。
王都まで残り1日。何事もなければ本日の夜には、無事帰還できる。
ティアは、早起きをして身支度を整え、騎士達は朝食を取りながら、帰還後の報告書を作成するのが面倒くさいとぼやいている。
グレンシスといえば、とても緊張していた。
「ティア、行くぞ」
ノックをした後、いつもより少し硬い声でそう声を掛けると、扉の奥から小さな返事が返ってきた。
扉を開ければ、きちんと身なりを整えたティアが窓辺に立っている。今日の服は、初日に着ていた焦げ茶色のワンピースだ。
とても良く似合っている。だがもっと華やかな服装も、この少女には似合うだろう。
そんなことを考えながら、グレンシスはまだ捻挫が完治していないティアを当然のように抱き上げる。
小さな身体が、ビクリと強張らせたのが伝わってくるが、以前のように露骨に降ろせと口にすることはなくなった。大変、良い兆候である。
「ティア、よく眠れたか?」
「……はい」
ほんのり頬が赤いのは、抱かれていることに恥じらいを覚えているからだろうか。
くすりと、口から笑みが零れたグレンシスは、片腕でティアを抱き、反対の手でティアの荷物を持つ。
「では、行くぞ」
こくりとティアが頷くのを確認して、グレンシスは廊下へと足を向けた。
最後に泊まったここは、民間の宿だが上流階級を主に相手にしているため、貴族の別宅のような趣がある。
散策ができるよう整えられた庭には、こぢんまりとした噴水があり、日差しを浴びて小さな虹を作っている。
花壇に植えられたマリーゴールドも強い日差しにも負けず、赤と黄色の花を咲かせている。
目に映るそれらを楽しみながら歩いていたグレンシスは、厩まで来ると、ピタリと足を止めた。
そこには既に部下の騎士たちがいた。皆、馬に荷物を積み終え、談笑している。
「先に向かっていろ。昼には追い付く」
「はっ」
短く部下の騎士達に指示を出せば、何かを察した彼らは、不満を出すことも訝しむこともなく、素直に頷いた。
けれど、何も知らないティアは、ここで目を丸くする。
「どこに行くんですか?」
「黙っていろ」
ティアの問いかけに、にべもない返事をしたグレンシスであった。が、顔つきは穏やかで口元は弧を描いていた。
ティアを膝に乗せて、グレンシスは馬を走らせる。
田舎の風景が続く郊外は、とても静かで、清々しい空気が広がっている。
馬も、やはり賑やかな王都に比べ居心地が良いのだろうか、走る蹄の音が軽やかだ。
二人を乗せた馬は疲れを訴えることもなく、ふっくらしたパンのような柔らかい丘を駆け上がる。
頂上に到着すると、グレンシスは手綱を引き、馬を止めた。
「ティア、見てみろ」
グレンシスが顎でしゃくて促せば、ティアは、ほぅと感嘆の息を漏らした。
丘から見下ろすそこには、湖があった。
湖の水が朝日をはね返して、まるで銀を溶かして輝きを放つ鱗のようだ。
「……綺麗」
「だろう」
ティアの翡翠色の瞳が湖と同じようにキラキラしているのをしっかり確認したグレンシスは、満足そうに笑みを浮かべた。
「俺が育った街にも似たような湖畔があった。お前に見せてやりたいが、さすがに遠すぎるから、これで我慢することにした」
随分と偉そうな口調であるが、グレンシスの口調は妙に緊張していた。
ここからが本題だ。グレンシスはコホンと小さく咳ばらいをする。
「だが、近いうちにお前と一緒に見に行きたいと思っている。両親にも会って欲しい。西の外れの領地だが、とても穏やかで美しいところだ。きっとティアも気に入ると思う」
グレンシスは一足飛びで、ティアに遠回しなプロポーズをした。
けれど世の中、そんなに甘くはない。
「……は?」
思っていた言葉とは違うものがティアの口から紡がれ、グレンシスはしばし固まった。
しばらくして、ティアの身体がぐらりと傾く。
慌ててグレンシスはティアを抱き寄せるが、ほっとした表情を浮かべることはない。みるみるうちに表情が険しくなっていく。
ティアは熱を出していた。初めての長旅。人見知りの激しいティアにとっては、それは絶え間なく緊張を強いられていたということ。
騎士達の体力は底なしだ。日々鍛錬を続けていたアジェーリアも、基礎体力はかなりある。
けれども、ティアは人並み以下の体力しかなく、立て続けに移し身の術を使い、怪我も負った。身体が悲鳴を上げるのも無理はない。
「ティア、お前、熱がっ」
「あ、いえ……ごめんなさい、もう食べられません」
噛み合わない会話で、ティアの意識が混濁していることを知る。
良く見れば額には玉のような汗が浮かんでいるのに、カタカタと震えている。翡翠色の瞳は欲情するように潤んでいるけれど、それは発熱のせいだ。
きっとものすごく寒いのだろう。グレンシスは慌てて自分のマントを脱ぐと、ティアを包んだ。
「調子が悪いならそう言わないかっ。この馬鹿!」
熱で朦朧とするティアを怒鳴りつけるグレンシスだが、その表情はまるで自分が病になってしまったかのようだった。
「……くそっ」
グレンシスは、知らず知らずのうちに悪態をつく。
プロポーズを台無しにしたティアにではなく、自分自身にグレンシスは、心から恥じていた。
きっとティアは朝から体調が優れなかったのだろう。けれど、言えなかったのだ。自分を始めとする騎士たちに迷惑がかかると思って。
そのことを責めるつもりはない。もうグレンシスは、ティアがそういう性格だというのを知っているから。
それなのに自分は、この先ティアと過ごす未来に気を取られ、目の前の少女の不調に気付くことができなかったのだ。
(何が、自分が癒せばいいだ!何が、とことん甘やかせばいいだ!)
グレンシスは、ぎゅっとティアを掻き抱いた。
小さな身体は恐ろしく脆くて、このまま消えてしまいそうな予感すらしてくる。
「少し飛ばすぞ。辛いかもしれないが、耐えてくれ」
むずがることもなく、ぐったりとしているティアに向かってグレンシスはそっと囁くと、強く馬の脇腹を蹴った。
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