”移し身の術”は他人にしか使えない。
だからティアは、いつでも移し身の術が使えるように、誰よりも体調に気を使うし、慎重に行動する。
でも幼い頃のティアは身体が丈夫ではなく、季節の変わり目には決まって風邪をひき、熱を出していた。
そんな時は母親が一晩中、看病をしてくれていた。
ティアの母親は娼婦ではなく娼館の下働きをしていたので、ティアはいつも寂しい夜を過ごしていた。
けれど病気になれば、ずっとそばにいてくれた。
熱で節々が痛んで辛かったが、ティアはちょっとだけ体調を崩すのが嬉しかった。
「辛そうだな。……変わってやれたらいいのに……」
朦朧とする意識の中で、そんな言葉がティアの耳朶に響いた。とても懐かしいと思った。
大きな手がティアの頬に張り付いた髪を払う。おでこに乗っていた布が除けられ、額に再び大きな手が乗せられる。
「かなり……熱いな」
辛さを滲ませた溜息が、聞こえてきた。
額に乗った手が頬を撫でてくれるが、その手が離れていく気配を感じ、ティアは嫌々と首を横に振った。
「こら……駄目だ。冷やさないといつまで経っても熱が下がらないぞ」
嫌なの。手で冷やして欲しいの。
夢の中、すっかりこの手を母親のものだと思い込んでいるティアは、幼少の頃に戻ったかのように、全身で甘える。
そうすれば声の主は一瞬だけ、たじろいだがティアの手を振り払うことはなかった。
「まったく、仕方のない奴だな」
まんざらでもなさそうな苦笑を含んだその声に、ティアはとても満足して──その手に頬を摺り寄せながら再び眠りに落ちた。
ただ母親の手にしたら、やけにごつごつしていたなぁとか、声もやけに低かったなぁと思ったけれど、ティアは深く考えることはしなかった。
*
ティアが、目を覚ましたのは気を失ってから2日後だった。
まずベッドに寝かされていることに驚き、さまよわせた視線の先に大きなクマの縫いぐるみがあった。
一人で寝るのが寂しいとでも思われたのだろうか。
複雑な気持ちになったティアは、もう一つ縫いぐるみがあることに気づいた。この膝に乗る程の縫いぐるみには見覚えがある。
これをどこで見たのか……ティアは瞬きを4回してから思い出した。
グレンシスの屋敷──ティアにと用意された客間のベッドの上に鎮座していた。
(え?いや、ちょっと待った!どうして自分がここに!?)
たちまちパニックになったティアは、あわあわと反対側に目を向けた途端、更にぎょっとした。
ベットのすぐ横に椅子があり、そこにグレンシスが腰掛けていたのだ。
ただ彼は眠っていた。腕を組み、長い脚も軽く組んで。
部屋は薄暗いけれど窓は開けてあるから、風が吹くたびにカーテンが揺れて、夏の日差しが部屋に差し込んでくる。まだ昼間のようだ。
ゆらゆらと揺れるカーテンに合わせて、陽の光が目を閉じているグレンシスの顔に当たり、美しい陰影を作る。まつ毛と鼻梁の影は、もはや芸術の域を超えている。
その姿はまるで彫刻のようで、その神々しさに眩暈すら覚えてしまうが、当の本人は、とても窮屈そうである。
無理もない。グレンシスはティアが座る小ぶりの可愛らしい椅子に、身体を押し込めているのだから。
起こしたほうがいいかと、ティアは葛藤した。でも、このまま見つめていることを選んだ。
なにせ、物言わぬグレンシスは、普段より10倍はカッコいい。
遠慮なく視界に入れることができるし、眠っているグレンシスはティアに突拍子もないことを言ったり、やったりしないでくれるので安心して見ていられる。
(このままずっと眠っていてほしい)
ガチでそう思ったティアだが、彫刻と化していたイケメンは、すぐに血の通った人間に戻ってしまった。
「起きたか」
「……はい」
ちょっとだけガッカリしたけれど、ティアは素直に頷いた。
そうすればグレンシスは立ち上がり、流れるようにベッドの端に腰かけた。そして身をかがめ、ティアを覗き込む。
「熱はまだ下がっていないのか。……ティア、何か食べられそうか?薬を飲む前に、何か胃に入れておいたほうがいい」
グレンシスの労りのある問いかけに、ティアは何も答えることができなかった。
意地悪で無視をしているわけではない。承諾もなしに彼の屋敷に連れてこられたことに腹を立てているわけでもない。
二人は互いの額と額が、くっついている。これでは口を開きたくても、開けない。
ぎゅんっと身体が火照ったティアは、ひとまず離れろと伝える為に、掛布から自身の手を取り出す。次いで、そっとグレンシスの腕に触れる。
けれどその手は、グレンシスの指にからめ取られてしまう。
(違う違う!そういう意味で手を出したわけじゃないっ)
これではまるで、自分が手を繋いで欲しいと、ねだっているようではないか。
混乱を極めたティアだが、口を開けばグレンシスの顔のどこかに自分の唇が当たってしまいそうだし、首を横に振ったとしても結局、同じリスクを伴う。
(ど、どうしたら……)
途方に暮れたティアが、逃げの最終手段として、再び眠りに落ちようとしたその時──ノックという救いの手が差し伸べられた。
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