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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
「前の奥さんの物、全部捨てといて」
土曜の朝、麗奈はクロワッサンをちぎりながら、そう言った。
天気の話でもするような声だった。
「二階の納戸に、段ボールが積んであるでしょ。あれ全部。もう半年も経つんだし、いいかげん邪魔なの」
蒼真はコーヒーカップを置いた。
眉が少しだけ動いたが、何も言わなかった。
お義母さまは、黙って味噌汁をすすっていた。
陽翔の箸が、止まった。
「かしこまりました、奥様」
私の口は、いつものように答えた。
*
二階の納戸の扉を開けると、防虫剤の匂いがした。
段ボールが六つ。
側面に、マジックで「澪」と書いてある。蒼真の字だった。
ガムテープを剥がす。
一つ目の箱には、服が入っていた。
生成りのエプロンが四枚。洗いざらしのシャツ。結婚した年の冬に、駅前の店で迷った末に買った紺のカーディガン。
二つ目は、写真立てとアルバム。
三つ目は、化粧品と小さな裁縫箱。
私は大きなゴミ袋を広げ、一つずつ入れていった。
エプロンを畳む手が、勝手に動いた。
紐を内側に折りこみ、三つ折りにする。毎朝、私はこうして畳んだエプロンを、厨房の引き出しから出していた。
きれいに畳んでから、ゴミ袋に落とした。
アルバムは、開かないようにした。
開けば、手が止まる。止まった手を、誰かに見られる。
それでも、写真立ての一つが、箱の底で上を向いていた。
陽翔の三歳の誕生日。ケーキの前で、くせっ毛の子が笑っている。その子を後ろから抱いている、丸い顔の、髪の長い女。
私だった。
もう、この世のどこにもいない顔。
写真立てを伏せて、ゴミ袋に入れた。
ガラスが、袋の中で小さく鳴った。
その音に、背中で何かが動いた。
振り向くと、納戸の扉の隙間に、陽翔が立っていた。
ぴょんたを胸に抱えて、私の手元のゴミ袋を見ている。袋の口から、生成りのエプロンの紐が一本、垂れていた。
「坊ちゃん」
陽翔は、袋を見て、それから私を見た。
大きな黒目が、何かを言いたそうに揺れた。
けれど、何も言わなかった。
くるりと背を向けて、廊下を走っていった。子ども部屋の扉が、小さな音を立てて閉まった。
私は、垂れていた紐を袋の中に押しこんだ。
あの子の前で、ママの物を捨てている。その手を、止めることもできなかった。
*
四つ目の箱の底に、それはあった。
大学ノートが三冊。
表紙が手の脂で黒ずみ、角がすっかり丸くなっている。
私の、家事ノートだった。
十九で母を亡くして、家事代行の仕事に就いた。
お客様の家で覚えた染み抜きの手順、掃除の段取り、作り置きの献立。全部、左手で書きとめた。図も描いた。
五年前、ミカゲ・ライフで働いていたころ、このノートを会社に貸したことがある。蒼真が「研修で使わせてほしい」と言ったから。
ノートは返ってきた。会社の研修マニュアルは、「ミカゲ・メソッド」という名前になった。表紙のどこにも、私の名前はなかった。
ページをめくる。
右に上がらない、左利きの癖のある字。「ワインの染みには、まず塩。こすらない」。
この字を誰かに見られたら、終わる。
今の私は、右手で、まるで違う字を書いている。
ゴミ袋の口を縛る前に、私はノートを三冊、エプロンの下に入れた。
*
ゴミ袋は、全部で八つになった。
勝手口から裏のゴミ置き場まで、一つずつ運ぶ。
最後の袋を置いたとき、犬小屋のムギが鼻を鳴らした。首を伸ばして、袋の匂いを嗅いでいる。
私の匂いだと、わかるのだろう。
「……ごめんね」
小さく言って、私は袋から目をそらした。
庭の向こうで、ぱちん、ぱちんと鳴っていた剪定鋏の音が、一度だけ止まった。
ノートは、自分の部屋の床下に隠した。
アイロンの焦げ跡のある床板は、端を強く押すと少しだけ浮く。嫁いだ最初の冬、焦げ跡を雑巾でこすっていて気づいたことだ。この家の誰も、この板が外れることを知らない。
暗い隙間に、ノートを三冊寝かせた。
板を戻し、焦げ跡の上に、そっと手のひらを置いた。
燃えるゴミの日は、火曜日だ。
私の服も、写真も、三日後には灰になる。
部屋を出ると、勝手口に麗奈がいた。
ゴミ置き場に並んだ袋を、長い爪の先で一つずつ指して数えている。
「八つ。ちゃんと全部ね」
満足そうに笑って、麗奈は母屋へ戻っていった。
数えられたのは、袋の数だけだった。中に何が足りないかまでは、誰も数えない。
一つだけ、気になっていた。
箱のどこにも、私のヘアブラシがなかった。鏡台に置いていた、木の柄のブラシ。化粧品と一緒に入っているはずのものが、なかった。
*
午後、空になった段ボールを潰して、二階から下ろすことになった。
踊り場から、大階段を下りる。
六つ重ねた段ボールの束は、思ったより重かった。束の陰で、足元がよく見えない。
十六段、十五段、十四段。
手すりに肘を添わせて、私は下りていった。
足が、ひとつ飛んだ。
十三段目を跨いで、十二段目に下りていた。
この家の者が、みんな無意識にそうするように。
「へえ」
下から、声がした。
玄関ホールに、蒼真が立っていた。
休日の白いシャツに、ジーンズ。階段の親柱にもたれて、私の足元を見上げている。
「凛さん、今、そこの段、跨いだね」
心臓が、一度だけ大きく打った。
「その段、鳴るんだよ。家の人間はみんな避ける。僕も子どものころ、そこを踏んで父に叱られた」
蒼真は笑った。
右の頬に、えくぼが浮かんだ。
「まるで、この家の人間みたいだね」
段ボールを握る手に、汗がにじんだ。
「……鳴る段は、旅館で一番に覚えます」
私は一段戻り、十三段目にわざと足をのせた。
ぎい、と木が鳴った。
「夜更けにお客様のお部屋の前を通るとき、どの板が鳴るか、仲居はまず足で覚えるんです。お眠りの邪魔になりますから。ここも、昨日気がつきました」
「昨日?」
「はい。坊ちゃんが、ここを跨いで下りていかれたので」
嘘を、嘘で支えた。
陽翔の小さな足を、勝手に借りた。
「へえ。旅館には、何年いたんだっけ」
「十年でございます」
「十年か。長いな」
蒼真は親柱に肘をついた。
目だけが、笑っていなかった。
「十年も同じところにいると、体が覚えちゃうんだろうね。……前の妻もそうだった。この家に三年いて、目をつぶっても階段を下りられるって、自慢してたよ」
蒼真は、しばらく私を見上げていた。
それから、肩をすくめた。
「プロだな。……母さんが気に入るわけだ」
彼は階段を上ってきて、私の横を通り過ぎた。
十三段目を、跨いで。
背中が見えなくなってから、私は手すりにもたれた。
旦那様のおっしゃるとおりでございます。
家政婦の凛なら、笑ってそう返すべきだったのかもしれない。
この家の人間みたい、ではない。
私は、この家の人間だった。この階段を、三年間、毎日上り下りした。
その日から、私は十三段目をわざと踏むことにした。
家の誰もが避ける段を、家政婦だけが鳴らして歩く。それが、外から来た人間の足音だ。
*
夕方四時、門のチャイムが鳴った。
厨房のインターホンの画面に、門の外の男が映っていた。
背が高い。濃紺のスーツ。銀縁の眼鏡。手に、黒い長傘。
息が、止まった。
「はい、御影でございます」
「榊です。株主として、書類を拝見しに伺いました。貴和子さんに、お取り次ぎを」
低く、平らな声だった。
私は和館へ急いだ。
お義母さまは居間で、茶道の雑誌をめくっていた。
「大奥様。お客様がお見えです」
「どなた」
お義母さまは、顔を上げずに言った。
私は、その名前を口にした。
この家では、出すことさえ嫌がられる名前を。
「……榊玲司様が、お見えです」
雑誌をめくる指が、止まった。
お義母さまの顔が、音もなくこわばっていった。
コメント
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うわ……第12話、読み終えてしばらく動けませんでした。 「十三段目を跨ぐ」という無意識の仕草一つで、蒼真が気づきかける緊張感、鳥肌立ちました。凛がわざとその段を踏むことで「外の人間」を演じ続ける決意を示すあの選択、すごく切ない。 それにしても、麗奈が数えたのは袋の数だけで「足りないもの」には気づかない。床下に隠された家事ノート、そして無くなっていたヘアブラシ——この小さな伏線が、今後の鍵になりそうで震えています。榊玲司の登場も不穏すぎる…… 設定の積み重ねと細部へのこだわり、今回も存分に味わいました。続きが気になって仕方ないです。