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#契約結婚
草原草原

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#王道
涙乃
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#ざまぁ
草原草原

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売店のおばさんに小銭を渡して、一冊買った。
ホームのベンチで、ページをめくった。指が、うまく動かなかった。
見開きで、四ページあった。
私の名前が、二つ並んでいた。瀬名灯。そして、括弧の中に、旧姓・真野。
十五年前の、鷹宮不動産の横領事件。三億円。経理課長・真野誠一。調べが始まって三か月後、車の事故で死亡。
その娘が、名字を変えて鷹宮グループに派遣社員として入り込み、昨年の春、冷酷で知られる若きCEOの専属秘書に抜擢された。
記事は、私の大学の名前まで書いていた。匿名の奨学金で、学費を全額まかなっていたこと。「あかり奨学基金」。出資者は、不明。
そして、私が今、社長の自宅で暮らしていること。
愛人。
同居。
横領犯の娘。
記事の言葉は、どれも、少しずつ本当だった。少しずつ本当のことを並べて、全体を嘘にする書き方だった。
誰かの話し方に、よく似ていた。
ページの最後に、写真が一枚、載っていた。
小さな、白黒の写真だった。
六畳の部屋。散らかった床。棚の上の、母の湯飲みと、ラジオ。
そして、顔を下にして伏せられた、小さな写真立て。
キャプションには、こうあった。
「横領犯とされた父の写真を、伏せて暮らす娘」
ホームに、電車が入ってきた。
私は、立てなかった。
あの写真立ては、私が伏せたものではない。
去年の五月、アパートが荒らされた夜。帰ったら、伏せてあった。ほかの物は全部倒れたままなのに、それだけが、丁寧に。
私は、すぐに起こした。警察が来る前に。
巡査が写真を撮ったのは、私が起こしたあとだ。
伏せてある写真立てを撮れたのは、私より先に、あの部屋にいた人間だけだった。
*
鷹宮タワーのエレベーターを、二本、見送った。
一本目には、経理部の顔見知りが三人乗っていた。私の顔を見て、全員が口を閉じた。
二本目では、知らない女性社員が二人、スマホの画面を寄せ合っていた。私に気づいて、片方が画面を伏せた。
三本目に、一人で乗った。
社内のSNSは、昼までに、記事の写真で埋まった。
給湯室の前を通ると、話し声が止まる。通り過ぎると、また始まる。
「やっぱりね。最初から、変だと思ってた」
「横領犯の娘が経理にいたって、ありえなくない?」
「社長も、知っててそばに置いてたのかな」
話している人の顔は、見なかった。見なくても、わかった。みんな、本当にそう思っている。
社長は、朝から一度も、四十三階に戻ってこなかった。
役員会議室、広報部、法務部。柏木室長のタブレットに表示された社長の予定は、夜まで、隙間なく埋まっていた。
*
母の病院に、電話をかけた。
ナースステーションの、顔なじみの看護師さんが出た。
「瀬名さんのお母さま? ええ、今朝もお元気ですよ。リハビリも頑張ってらして」
「あの。お願いがあるんです。病室に、週刊誌を持ち込まないでいただけますか。母に頼まれても、売店で買ってこないように」
電話の向こうで、少しの間があった。
『……わかりました。テレビも、ワイドショーの時間は、消しておきますね』
看護師さんの声は、優しかった。
もう、知っているのだ。
画面越しの声は読めないのに、その優しさだけは、はっきりと届いた。
受話器を置いて、カーディガンの胸から名札を外した。
社長室、瀬名灯。
秘書になって間もないころ、社長が万年筆で書いてくれた字だった。濃い青のインク。灯の字の、火偏の点だけが、左下へ長く流れている。印刷の名札が届いてからも、私は、こちらを付け続けていた。
この名前のどこまでが本当で、どこからが嘘なのか。今日、この会社の全員が、それを決めようとしていた。
私は、名札を、机の上にそっと伏せた。
伏せられた写真立てと同じ形になったことに気づいて、すぐに表に返した。
*
昼すぎ、エレベーターホールで、白いパンツスーツの背中に追いついてしまった。
麗華さんは振り返って、私を上から下まで見た。
「ひどい顔ね、秘書さん」
「……すみません」
「謝る相手が違うわ」
麗華さんは、エレベーターのボタンを押した。
「言っておくけど。私はね、父親で人を値踏みされるのが、世界で一番嫌いなの」
一本の線。
扉が開いた。麗華さんは先に乗り込んで、振り返った。
「背筋くらい、伸ばしなさい。前にも言ったでしょう」
扉が閉まった。
ヒールの音が遠ざかったあとも、赤いリップの色だけが、目の奥に残っていた。
*
夕方。
柏木室長が、私の机の前に立った。
クリップで留めた、厚い書類の束を持っていた。
室長は、それを、私の机の真ん中に置いた。
表紙に、聞いたことのない会社の名前が印刷されていた。何とかリサーチ。その下に、調査報告書、と。
対象者、瀬名灯(旧姓・真野)。
めくると、私の二十六年が、そこに並んでいた。
派遣会社の登録票。希望の派遣先の欄に、私の字で、鷹宮グループ。大学の在籍記録。母の旧姓と、家庭裁判所の改姓の記録。葛飾のアパートの外観。
そして、一枚の写真。
六畳の部屋の、伏せられた写真立て。
週刊誌に載っていたのと、同じ写真だった。週刊誌のものより大きくて、色がついていて、鮮明だった。
右下の撮影日の欄に、去年の五月の、あの夜の日付が入っていた。時刻は、私がアパートの階段を上がる、一時間前。
あの夜、私の部屋に入ったのは、この会社の人間だった。
写真を撮り、箱の中身を順番に確かめて、写真立てを丁寧に伏せた人間。
「これを、どこで」
室長は、答えなかった。
代わりに、私をまっすぐに見下ろして、言った。
「あなたは、復讐のために社長に近づいた。違いますか」
三秒。四秒。五秒。
シルバーフレームの奥の目は、少しも揺れなかった。
一本の線。
この人は、本気で、そう信じている。
誰かが渡した紙を、紙に書かれたとおりに。
違います、と言おうとした。
口が、開かなかった。
違わないからだ。半分は。
私は、父の帳簿を見るために、鷹宮に来た。名前を伏せて。三年間、黙って。社長の隣に座ってからも、ずっと。
復讐のためではない。けれど、目的を隠して近づいたことは、本当だった。
半分本当のことを、私は、否定できない。
「明日の十時に、臨時の取締役会が開かれます。副社長と、社外取締役のお二人の招集です」
室長は、書類の束を、私の机から取り上げた。
「この報告書は、私が提出します。議題は、瀬名灯の処分です」
一本の線。
室長は、一礼して、自分の席に戻っていった。
*
その夜、社長は、十一時を過ぎて帰ってきた。
私は、客間のベッドの端に座っていた。ポーチを、膝の上で握っていた。中に入っている古いハンカチの感触を、布越しに確かめていた。
玄関の扉が閉まる音。
足音が、廊下を近づいてきた。
客間の扉の前で、止まった。
六月の、待機の朝と同じだった。
あのときは、ノックがなかった。五分間、扉の向こうで、誰かが息をしている気配だけがあった。
今夜は、ノックの音がした。
低い、遠慮がちな音。
「灯」
扉越しの声だった。
「明日の取締役会には、出なくていい」
扉は、開かなかった。私も、開けなかった。
「私が、全部片付ける」
扉越しなら、砂嵐も見えない。
声だけが、木の板を通って、まっすぐに届いた。
片付ける。何を。どうやって。
聞けば、答えてくれるのかもしれない。けれど、答える顔は、どうせ読めない。
この人に守られて、何も言わずに、名前も隠したまま、明日をやり過ごす。そうすれば、今夜のこの声だけは、失わずに済むのかもしれなかった。
私は、立ち上がった。
扉の前まで歩いて、木の板に、手のひらを当てた。
向こう側にも、同じ高さに、手がある気がした。
「出ます」
声は、思ったよりも、震えなかった。
「私の名前のことは、私が自分で言います」
コメント
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うわ……重たい、でもすごく好きな回だった。 「伏せられた写真立て」っていうタイトルが、最後の灯ちゃんの「机の上にそっと伏せた名札をすぐ表に返す」シーンまで繋がってて、構成が美しい。あの写真立てを伏せたのは灯ちゃんじゃなくて、調査の人間だったっていう真実が明かされる瞬間、背中が冷えた。 麗華さんの「背筋伸ばしなさい」、あれだけで彼女の立場と優しさが全部伝わってきて泣きそうになった。そして最後の「私の名前のことは私が自分で言います」——灯ちゃんが自分で選んだ覚悟が、痛くて、眩しかった。次が本当に気になる。