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#連載小説
観察者
310
椿
27
母はもういない
「お前、母さんの顔……最後にいつ見た?」
兄の言葉に、私は答えられなかった。
思い返してみる。
母から電話が来た。
姉から電話が来た。
母は私に逃げろと言った。
でも、顔は見ていない。
最後に母と直接会ったのは、いつだった?
離婚の話をされた日?
いや、その後も何度か家にいたはずだ。
なのに、どうして思い出せない?
「お兄ちゃん……母さんは生きてるよね?」
兄は答えなかった。
「ねえ、何か言ってよ」
「……俺も分からない」
兄はノートを開いた。
最後のページの裏側に、何か書かれていることに気づいたらしい。
そこには、薄い鉛筆で文字が残っていた。
『あの女は、亡くなった人間の声を借りる』
私は息を止めた。
『声だけではない。姿も、記憶も、時には本人になりすます』
「じゃあ……」
兄が静かに言った。
「今まで電話していた母さんは……」
私は首を横に振った。
「違う。そんなはずない」
母の声だった。
確かに母の声だった。
私を心配してくれた。
逃げてと言ってくれた。
全部、偽物だったなんて信じたくなかった。
そのとき、ノートのページが風もないのにめくれた。
最後のページに、見覚えのない文字が浮かび上がる。
『本物は、最初の夜に死んでいる』
私はその場に座り込んだ。
⸻
私たちは母と姉がいる場所を探すことにした。
Googleマップに表示された赤いピン。
そこは、海外の山奥にある古い集落だった。
しかし、兄が調べてみると、その集落は数十年前に土砂災害で消滅していた。
住民も全員亡くなっている。
「何でそんな場所に母さんたちがいるんだよ……」
兄が呟いた。
私は地図を拡大した。
すると、画面の端に小さな建物が表示された。
古い施設。
見覚えがある。
私が働いている介護施設と、建物の形がそっくりだった。
その瞬間、画面が揺れた。
3D表示の建物が傾き、地面に沈んでいく。
そして、画面いっぱいに文字が現れた。
『思い出して』
私はスマートフォンを握りしめた。
『あなたが最初に見たものを』
⸻
私は突然、あの夜のことを思い出した。
深夜二時過ぎ。
悲鳴を聞いて走った。
部屋を開けた。
利用者さんが襲われていた。
そして女が私を指差した。
でも。
本当にそうだった?
私は目を閉じた。
あのとき、女の指は私を指していた。
間違いない。
でも、その直後。
女は何かを口にしていた。
私は必死で利用者さんを助けようとしていたから、聞き取れなかった。
「お兄ちゃん……」
「何?」
「私、あの夜のことをもう一度確かめたい」
兄は首を横に振った。
「危険だ」
「でも、知らないままじゃ終われない」
私は施設へ戻ることを決めた。
⸻
夜。
施設の正面玄関は閉まっていた。
私は元同僚に連絡し、事情を説明して中に入れてもらった。
廊下は静かだった。
あの日と同じ。
消毒液の匂い。
空調の音。
遠くから聞こえる時計の針。
私は最初に襲われた部屋の前で立ち止まった。
ドアを開ける。
空っぽのベッド。
誰もいない。
でも、ベッドの上に一冊のアルバムが置かれていた。
私は近づいた。
表紙を開く。
そこには、昔の施設の写真が並んでいた。
職員たちの集合写真。
そして、一枚の写真で手が止まった。
若い頃の母が写っていた。
母の隣には、あの女。
そのさらに隣に、見覚えのある女性がいた。
最初に襲われた利用者さんだった。
まだ若く、職員の制服を着ている。
写真の裏には日付が書かれていた。
私が生まれる何年も前。
その下には、短い文章。
『三人で約束した。次に生まれる子どもを守ると』
私は写真を握りしめた。
そのとき、背後から声がした。
「やっと思い出した?」
振り返る。
あの女だった。
長い髪。
白い服。
黒い目。
私は後ずさった。
「あなたは誰なの?」
女は答えなかった。
代わりに、私の胸元を指差した。
「あなたのお母さんはね、約束を破ったの」
「何の約束?」
「あなたを守る約束」
私は首を横に振った。
「母さんは私を守ってくれた」
女は笑った。
「本当に?」
その瞬間、廊下の奥から足音が聞こえた。
ゆっくり。
一歩ずつ。
そして、姿を現したのは母だった。
「お母さん……?」
母は昔と同じ顔で立っていた。
私は泣きそうになった。
「お母さん! 生きてたの?」
母は私に近づいてきた。
「ごめんね」
その声を聞いた瞬間、私は母に駆け寄ろうとした。
しかし、女が叫んだ。
「触らないで!!」
私は止まった。
母の顔が歪んだ。
笑っている。
でも、目から涙が流れていた。
「もう、いいのよ」
母が言った。
「この子を連れていかないで」
女はゆっくり首を傾けた。
「あなたが代わりになるの?」
母は頷いた。
「そうよ」
私は叫んだ。
「やめて!!」
母は私を見た。
そして、初めて本当の笑顔を見せた。
「幸せになってね」
その瞬間、施設の電気がすべて消えた。
暗闇の中で、母の悲鳴が響いた。
私は走った。
手を伸ばした。
でも、何も掴めなかった。
床に倒れ込んだとき、耳元で女の声がした。
『次は、あなたの番』
そして、私のスマートフォンが光った。
画面には、見覚えのない通知。
『残り時間 00:10:00』
カウントダウンが始まっていた。
コメント
1件
ああ、もう……この話、やばかったわ……。 母の声、全部偽物だったって展開、心臓止まるかと思った。しかもあの女が「次はあなたの番」って……カウントダウンまで始まってるし、続きが気になりすぎる。 最後の「幸せになってね」が本物の母の言葉だと思いたいけど、それすらも罠な気がしてくるのが怖いな……次話マジで待ってます🔥