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4
ふと桜那は宏章の左手の薬指に視線を向けた。
「宏章、結婚してないの?」
宏章は唐突な質問に、えっ?と驚くが、みるみる情けないと言わんばかりの顔で苦笑いした。
「してないよ。未だ独身」
「彼女は?いないの?」
桜那が畳みかける。
宏章は勘弁してと言いたげに、「いないよ。もうずっと寂しく独り身」と言ってコーヒーに口を付けた。
「そーなんだ!私てっきり宏章はもうとっくに結婚して、子どももいるのかと思ってたよ!」
桜那は驚いて目を丸くした。
宏章は遠い目をして、「そうできたら良かったんだけどねぇ」と呟いた。
「こっちに戻ってきてから、付き合った娘はいたんだけど……。俺が優柔不断だから、愛想尽かされちゃって。それからはもう、ずっと一人だよ」
宏章は苦笑いしながらしみじみと語った。
「……そうなんだ。見る目ないな、その娘」
桜那もコーヒーに口をつけて静かに笑うと、宏章は少し間を置いてから桜那へ尋ねた。
「桜那は?してないの?結婚」
「それ聞いちゃう?結婚してたら、こんな田舎にマンション買おうとするわけないじゃない!」
桜那は痛いところを突かれて、左手で額を抑えながら苦笑いした。そんな桜那の表情を見て、「そりゃそうだ!」と言って宏章は大きく笑った。
笑い終えると、宏章は桜那へ尋ねた。
「でも付き合ってる奴はいるんだろ?」
「私もいないよ!寂しく独り身」
桜那はきっぱりと言い切った。
「そうなの?戦隊モノで共演した俳優と熱愛発覚って、昔週刊誌で見たけど?」
宏章は驚いたように言った。
「それ何年前の話よ!しかもガセネタだし!言い寄られはしたけどさ。あの頃はずっと仕事一筋で、それどころじゃなかったもん!」
桜那はやれやれと言わんばかりに、ため息をついた。
「芸能界引退した後にね、彼氏でも作ってみようかと思って、かわいーい年下の子と試しに付き合ってみたの。ちょっと宏章に似てたな。でも中身は全然違くて、頼りないからすぐに振っちゃった」
宏章が「えぇ⁉︎」と少し呆れ気味に言うと、
「だってさ、桜那は俺なんかいなくても、どうせ一人で生きて行けるだろとか言うのよ!呆れるでしょ!……まあ、本当の事だけど」
桜那は笑って、コーヒーカップを静かに置いた。
「ひとりが好きな奴はいても、ひとりで生きていける奴なんていないだろ。見る目ないな、そいつも」
宏章は静かにそう言って、またコーヒーに口を付けた。
桜那は心にじわりと温かいものが広がっていく感じがした。宏章は見た目こそ変わっても、そういう優しさは全然変わっていなくて、桜那は懐かしさから泣きそうになった。
宏章に気付かれない様に、窓の外にそっと視線を移す。
……ああ、そうだった。私は宏章のこういう所に惹かれたんだっけ。
桜那は思い出して、少し切なく胸が苦しくなった。
宏章はふと時間が気になって、ちらりと腕時計を見た。
時刻は18時半を少し過ぎていた。
「桜那、この後飯でも行かないか?せっかく会えたんだし、今日は俺がご馳走するよ」
桜那は嬉しそうに目を輝かせた。
「ほんと?じゃあお言葉に甘えちゃおうかな♡ 実は今日、お昼食べ損ねてお腹ぺこぺこだったの」
「じゃ遠慮なく食べろよ。俺車で来たから、帰りも送ってやるから」
宏章は笑顔で立ち上がると、スマホで二人分の会計を済ませて店を後にした。
駐車場までの短い道のりを、二人並んで歩く。
「宏章、車買ったんだね!」
「ああ、うん。そういえば桜那免許持ってたんだっけ?この辺車ないと不便だぞ」
宏章は心配して尋ねた。
「免許は引退した時に取ったの。事務所退所する時、社長に餞別だって車譲ってもらったんだけど、免許なきゃ乗れないからさ」
「へぇ〜、何乗ってんの?」
「カイエン!」
「へ⁈」
宏章はまたしてもスケールの違いに驚かされて、頭を抱えた。
「そりゃまたスゲーの乗ってんな。俺の稼ぎじゃ、到底買えそうもないよ」
「でも左ハンドルなの。も〜不便でしょうがないし、そのうち国産車に乗り換えるよ」
桜那の潔さも相変わらずだった。
二人は車に乗り込む。
「宏章のはオデッセイだね。中も広々としてていーね!」
桜那は上機嫌にはしゃいでいた。
はしゃぐ姿が昔と変わらず可愛らしくて、宏章は愛おしさが込み上げてきた。そんな自分に気付いて、感情を抑え冷静さを保とうとした。
「桜那、何食べたい?」
宏章がエンジンを掛けながら尋ねると、桜那はしばし考えてから答えた。
「ん〜っと、あ!馬刺し食べたい!私大好きなの。あと美味しいお酒♡」
「へ?イタリアンとかじゃなくて?」
「だって熊本と言えば馬刺しでしょ!居酒屋がいい!」
「分かったよ、じゃあ俺のおすすめの所連れてってやるよ」
宏章はふっと笑って車を走らせた。
「あー楽しみだな!お酒も久しぶりに飲んじゃお」
桜那は嬉しそうに声を弾ませる。
「はいはい、遠慮なくどうぞ」
「私を酔わせてどうする気?」
桜那は悪戯っぽく笑い、宏章を揶揄ってみせた。
「しませんよ、そんな事」
宏章は穏やかに笑って、桜那の冗談をかわした。
「しないよ、そんな事」
桜那はふと、宏章と初めて会った日の事を思い出した。
桜那が宏章を試そうとした時だ。
……あの時の宏章は怒気を含ませた声で、静かにそう言い放ったんだった。
でも今の宏章は違う。桜那が揶揄っても、笑って上手く返すだけだ。
桜那は改めて12年の時の流れを感じていた。
5
「着いたよ」
ファミレスから車で十分程走らせ大通りから逸れると、閑静な住宅街の中に古民家風のこぢんまりとした店がひっそりと佇んでいた。外には「馬肉料理さくら」と描かれた看板の明かりが灯っている。
「ここ俺の店で卸してるんだ。馬刺し以外も美味いよ」
宏章はそう言ってドアを引いた。
「いらっしゃい!」
のれんをくぐると、元気に挨拶する店主の声が響いた。
「店長、奥空いてる?」
宏章は慣れた様子で、店主に尋ねる。
「おう!宏章!空いてるよ」
店主が笑顔で答えると、宏章の後ろにいた桜那に気付いて驚きの声を上げた。
「もしかしてお前の彼女か⁈」
あの女っ気のない宏章がと言わんばかりだ。
「こんばんは」
桜那は否定も肯定もせずにっこりと微笑み、ここでも営業スマイルを炸裂してみせた。
「違うよ、東京に居た時の知り合い。今日久しぶりに会ったんだ」
宏章は苦笑いを浮かべて、やんわりと否定した。
だが店主は「お前にこんな美人な知り合いがねぇ」とにやにやして、どうやらただの知り合いではないと踏んだようで、気を利かせて奥の個室に通した。
「別に否定しなくてもよかったのに……」
桜那が呟いた。
「だって本当の事じゃない?元だけど」
桜那はにっこりと笑顔を向ける。
「え?あぁ……、まあ色々詮索されたらあれだろ」
宏章はまたも桜那を上手くかわした。
桜那は冗談めかして言ったつもりだったが、内心ではそれが本音だったので、少しもどかしい気持ちになった。
「何飲む?好きなの頼んでいいよ」
そんな桜那をよそに、宏章はメニューを差し出した。
「わぁ!これ美味しそう!」
桜那は気を取り直してメニューに目を通すと、子どものように目を輝かせてはしゃいだ。それぞれビールとウーロン茶を頼み、お通しと宏章おすすめの馬刺しの盛り合わせが早速運ばれて来た。
二人は乾杯して、「いただきまーす」と桜那が馬刺しに箸を付けた。
「んん〜美味しー♡」
幸せそうな桜那を、宏章は優しい眼差しで眺める。桜那の嬉しそうな表情を見るたびに、宏章は幸せな気持ちで満ち溢れた。
桜那は上機嫌でビールを飲み干し、あっという間に二杯目に突入した。
「そういえば、二人で外でご飯食べるの初めてだね」
桜那が昔を思い出して、しみじみと言った。
「あの頃は忙しくて、会うのはいつも家だったよね」
「そうだな……」
宏章もまた、昔を思い返していた。
二人でこうして気兼ねなく外を歩ける様になったのは、皮肉にも別れて12年も経ってからだった。
「……よく私だって気付いたね。私も、まさかあそこが宏章の実家だとは思わなかったけど……」
桜那が気まずそうに呟いた。
「一目見た瞬間、すぐに桜那だって分かったよ」
宏章はまっすぐ桜那を見て答えた。
「それに海音が桜那のあまりの綺麗さに驚いて、興奮して言ってくるもんだから……、芸能人が来た!って言ってね。戦隊モノに出てた人って言われてすぐにピンときたよ」
「ああ!あの子!可愛いね、大学生?」
「うん、21になったのかな?海音の父親が、俺の地元の先輩なんだ。それでうちでバイトしてるんだけど」
「えー!若ーい!21なら、確かに私が戦隊モノに出てた時のリアタイ世代だね!覚えててくれて嬉しいな!」
桜那は心底嬉しそうに声を弾ませた。
「俺も桜那が出てた作品は全部観たけど……。『桜の宴』の役も良かったけど、やっぱり一番は光神ルキアが好きかな」
光神ルキアは、桜那が戦隊モノで演じたヒロインの役だ。
気高く、尊い。
宏章が桜那に抱いていたイメージそのもの役どころだった。そして光神ルキアもまた、桜那にとって、思い入れのある役のうちのひとつだった。
「あの役、当て書きなんだろ?めちゃくちゃハマってたよ。それに主題歌も良かったし、脚本も面白かった。俺個人的には、歴代の戦隊モノの中でナンバーワンだよ」
桜那は驚いて、「よく知ってんね!」と目を丸くした。
「言ったろ、俺はずっと桜那のファンだって。桜那が出てた女性誌も買ってたよ。さすがにちょっと買う時恥ずかしかったけど」
桜那はあははと声を出して笑った。
「そう言ってもらえて嬉しいよ。あの作品はみんなで作り上げた、私にとって思い入れのあるドラマだから。ありがとう」
別れてからもこうして作品を通して見守ってくれていた事に、桜那は感動して胸が熱くなった。
「それにしても、あのドラマ見てた子がもう21かぁ……。私も歳取るわけだね」
桜那は頭を抱えて苦笑いした。
「桜那は全然変わんないよ。相変わらず綺麗だよ」
宏章がウーロン茶を口にしながら恥ずかし気もなくさらりと言うので、桜那は照れ隠しで自虐してみせた。
「そんな事ないよ。引退してからちょっと太っちゃったし。やっぱ人に見られなくなるとダメだね」
「えぇっ?どこが?」
宏章が驚いて、心底不思議そうに尋ねた。
「だって2キロも太っちゃったんだもん!」
「2キロって……、そんなの見た目じゃ全然分かんないよ」
宏章はおいおいと苦笑いした。
そして改めて、向かいに座る桜那をまじまじと眺めた。
昔より髪が伸びて肩下まである髪をゆるくくびれ巻きにし、ふわりと目にかかるくらいのシースルーバングが、桜那の大きな目をより強調していた。
桜那はデコルテがちらりと覗く、ボディラインに沿った白いリブニットに、タイトなツイードの膝丈スカートを履いていた。本人は太ったと言うが、言われてみればふっくらした程度で、それがより女性らしさを際立たせた。
桜那は胸の下で腕を組んで、一瞬窓の外を眺めた。
その横顔さえ美しく、白く長い首から鎖骨にかけて流れるラインが、なんとも艶っぽく大人の色気が増していた。正直な所、宏章はなんとか理性を保つので精一杯だった。
桜那がふと宏章に視線を向けた。
不意打ちを喰らって、宏章は心臓がドキッとした。
「宏章は昔と変わったよね。髪黒くしたんだね!」
桜那はそんな宏章をよそに、屈託のない笑顔を向ける。
「昔は金髪がトレードマークだったのにね。びっくりしたよ」
「ああ、こっち戻ってからすぐ黒くしたよ。俺ももう40だからね……。昔みたいにそんなに髪いじれないよ」
桜那に見惚れていたのはどうやら気付かれてないらしく、宏章はホッとした。
「口髭なんかも生やしちゃってね。でも似合ってる、昔より格好良くなったよ」
桜那はクスッと笑って、酔いなのか照れなのか、頬が少し紅潮していた。
「……揶揄うなよ」
宏章は照れて目を伏せた。
「本当だってば!」
けらけらと笑う桜那を前にして、宏章はもうタジタジだった。
6
「宏章はこっちに戻ってからどうしてたの?」
桜那はずっと気になっていた事を宏章へ尋ねた。
結婚していない事は分かったが、実家を継いでからの事や両親の事など、聞きたいことは山程あった。
2016年には震災もあった。
あの時も心配で居ても立っても居られず、桜那はボランティアにも参加した。
それでも今日までK町に行く事は出来ずにいた。
「こっち戻ってから一年くらいはずっと忙しくしてたよ。覚える事も多くて……。東京にいた時も似たような仕事してたし、戻ってもすぐにやれるだろって思ってたけど、全然甘かった。親父には毎回どやされるし」
宏章は戻ってからの出来事を思い出して、桜那へ語りかけた。
「そっか……、頑張ったんだね。でもお父さん、宏章が帰ってきて喜んでたんじゃない?」
桜那は穏やかに微笑んだ。
「だといいけどね。親父、俺が戻ってから二年後の暮れに亡くなったんだ。だから、あんまり教わる事は出来なかったんだけど……。色々と俺なりにはしてやれたのかなって」
「そうだったんだ……」
桜那は悲しげに俯いた。
「親父が亡くなってすぐに震災もあって……、俺もお袋も無事だったけど、店が半壊しちゃって。古い建物だったからね。そっから店建て直して自宅もリフォームして……。やっと落ち着いたのは、ここ数年になってからかな。さすがにその頃は俺も参ったけど……。今はまあ、なんとかやれてるよ」
宏章は悲しげな桜那の表情に気付いて、心配かけまいと笑顔を向けた。
「まあ店やってれば色々あるしな。コロナも今は落ち着いてきたし、俺はこの通り元気だよ」
桜那は静かに目を閉じて、宏章が過ごしてきた日々に想いを馳せた。そして宏章が大変な日々を過ごしていた時期に、自分が側で支える事が出来なかった事を心底悔やんだ。側にいたかったと思うのは、自分自身のエゴなのかもしれないが……。
だがその頃の自分を思い返してみると、自分の事で精一杯できっと宏章を支える事は出来なかったかもしれないとも思った。宏章を支えるにはあまりに未熟で、宏章の重荷になってしまっていただろうと。
宏章がせめて最後に親孝行が出来た事に安堵したのと同時に、お互いにあの時下した決断は間違っていなかったのだと悟った。
……でも今の自分達なら、また違った未来が築けるのかな?
桜那は目を開いて、語り出した。
「震災、本当に酷かったもんね。私、心配で居ても立っても居られなくて……。私にも何か出来ることないかなって、気が付いたらボランティアに参加してた。炊き出ししたり、片付け手伝ったり……。それくらいしか役に立てる事がないから……。でもね、片付けしてたらあるおばあちゃんが、手を握ってありがとうって涙流しながら言ってくれたの。その手があったかくて私の方が涙出ちゃって……。こんな私でも、少しは誰かの役に立てたのかなって嬉しかった。それからは、ここが第二の故郷みたいに思えてきて……。ここにくるきっかけをくれたのは宏章なんだよ。宏章がいなければ、ここに来ようと思わなかったから。居場所をくれて、ありがとう」
桜那は少し涙目になりながら、優しい笑みを浮かべた。
宏章は驚いて目を見開いた。
桜那からそんな風に言ってもらえるとは思っていなかったから。
宏章はずっと、桜那に何もしてやれなかった事を悔やんでいた。それが今も心に重くのしかかっていたのだ。心のどこかでずっとそれを引きずっていたから、桜那の言葉で自分がいる意味が少しでもあったのだとやっと思う事が出来た。
そして桜那はあの頃と変わらず、生命力に満ち溢れていて、神々しささえ感じた。宏章は桜那のそんな人間性に惹かれ、尊敬していた事を思い出した。
「俺は何も……、でも桜那にそう言ってもらえて嬉しいよ。俺の方こそ、ありがとな」
宏章は桜那をまっすぐ見つめて、はっきりとそう言った。
7
桜那は手元のビールが空になったので、大好きな日本酒の桜花を頼んだ。
「桜那、今日はなんでも好きなの頼んでいいけど……。その、飲みすぎるなよ……」
宏章は桜那のペースが早いので、心配そうに言った。
「大丈夫だよ。もう昔みたいに、バカみたいに飲んだりしないよ。心配しないで」
桜那は穏やかに答えた。
そう言って静かに飲む桜那からは、昔の不安定さは微塵も感じられなかったので宏章は少し安堵した。
「そういえばね、芸能界引退した時に、お兄ちゃんから連絡が来たの」
「え?」
宏章は驚いて顔を上げた。
「10年ぶりくらいかな?まさか連絡くるとは思わなくて、びっくりしちゃった」
桜那は思い出してふふっと笑うと、兄とのやりとりを回想して、宏章へと語った。
五年前、関係各所への挨拶や事務手続きを終え、自宅で自身の引退の記事をネットニュースで眺めていた時の事だった。
スマホが鳴り、画面に目を遣ると「岡田雅高」とディスプレイに表示された。
桜那は驚いて目を見開いた。
両親に勘当されて以来、一度も連絡をする事もなければ、連絡が来る事もなかった兄からの電話。自分の連絡先なんて、もうとっくに消されているとすら思っていた。
桜那は戸惑いから電話に出るのを躊躇ったが、堪らず通話を押した。
「はい……」
桜那は恐る恐る電話を取る。
「……さくら、俺……」
十年ぶりに聞く雅高の声は、緊張感が漂っていた。
「……久しぶりだね。どうしたの?」
桜那は努めて平静を装った。
「お前が芸能界引退するってニュースで見て、連絡したんだ。どうしてるかと思って……」
雅高は声を絞り出す様に話し始めた。
「お前の事はずっと心配してたんだ。だけどお前が最後に家へ来た時、俺はお前の顔を見ようとすらしなかった……」
桜那が両親に勘当を言い渡された日の事。
AVに出演する事を決め、もう決めた事だからと半ば意地になって突っぱねた。
母は泣き崩れ、父には二度と敷居を跨ぐなと言い渡された。雅高は部屋に閉じ籠り、一度も桜那の顔を見る事はなかった。結局そのまま実家を後にし、それっきりだった。
「俺はあの時、お前に家族も人生もめちゃくちゃにされたって思ってた。だけどその後お前が頑張ってるのをテレビで見て、どうしてそう決断したのか、お前がどんな思いでいたのか、話をする事も聞いてやる事もしなかった事を後悔したんだ……」
雅高は慎重に言葉を選び、所々間を置きつつ話し続けた。
「お前の事心配してたのに、ずっと連絡できなくて……。意地になってごめん」
桜那は膝に顔をうずめて泣きじゃくった。
「お兄ちゃん……。私も、意地張ってごめんね……」
なんとか声を絞り出して、震える声でそう言うだけで精一杯だった。
「俺、今度結婚するんだ」
桜那は、え?と驚いて顔を上げた。
「英里奈が……彼女が、さくらとちゃんと話せって。ちゃんと話をするまでは結婚しないって言われてさ……」
雅高は彼女の英里奈との結婚を決めた時に、妹の事を打ち明けた。
英里奈は高校生の時、弟を交通事故で亡くしていた。
その日の朝、些細なことで喧嘩したまま家を出て、弟がそのまま帰らぬ人となった時の事を雅高に話した。
英里奈は、「ありがとう」も「ごめんね」も言えなかった事をずっと悔やんでいて、雅高にはそんな後悔をさせたくないと伝えたそうだ。
「和解出来るのは、生きている今だけだよ」
英里奈の言葉で、雅高は決心した。
桜那はそれを聞いて、安堵と喜びでまた涙した。そして涙を拭って「いい人だね……」と呟き、「おめでとう、幸せになってね」と伝えた。
雅高は「ありがとう」と言うと、両親の事を伝えた。
「父さんも内心では、お前の事心配してるよ。お前が出てた戦隊モノのドラマ、毎週必ず見てたんだ。母さんも父さんの手前、口には出さないけどお前の事心配してる……。俺がこんな事言う資格ないけど……、たまには帰って、顔見せてやれよ」
雅高とのやりとりを一部始終話し終えた後、桜那の目から涙が溢れた。桜那は「ごめんね」と言い、鞄からハンカチを取り出して涙を拭った。
宏章は話を聞き終えて、「よかったな……」と静かに呟いた。
「私はずっと、お兄ちゃんに対して負い目を感じていたから……。それを聞いて、本当に嬉しかったし安心した」
桜那はひとつずつ、心に抱えていた重たい荷物を降ろし始めて前に進んでいたのだ。
「それからはね、お兄ちゃんとまた連絡取り合うようになったの。子どもも産まれてね、双子の女の子!たまにLINEで写真送ってくれるんだけど、すっごい可愛いの!」
桜那はスマホを開いて、姪っ子の写真を宏章に見せる。
「ほんとだ!めっちゃ可愛いな」
「でしょ?」
桜那は楽しげにきゃっきゃと声を上げた。
「両親には会ったのか?」
宏章が尋ねると、桜那は気まずそうに答えた。
「実はまだなの……、なんか勇気が出なくて……。コロナもあったし。でもこっちに移住するからには、今度こそちゃんと顔見に行くよ」
「そうか、頑張れよ……」
宏章が静かに言うと、桜那は穏やかに微笑んだ。
宏章は無性に桜那を抱きしめたくなった。
桜那が今までずっと頑張って生きてきた事が伝わって、愛しさが込み上げてきたが、ぐっと拳を強く握って堪えた。
……昔は何も迷う事なく、抱きしめられたのにな。
宏章は桜那への想いがあの頃からずっと変わっていない事に気付いていたが、自分の気持ちに蓋をして冷静さを保った。
「宏章、LINE交換しよ」
桜那がスマホを取り出し、笑顔で言った。
「あの頃ガラケーだったけど、さすがに今はLINEくらいやってるでしょ?私、こっちに知り合いもいないし、まだ勝手も分かんないから色々案内してよ」
「あ!あぁ……、俺でよければ」
宏章はハッとして、スマホを差し出した。
桜那は「これでよし!」と言って、慣れた手つきでLINEを交換する。
「一応電話番号も送っといたから、宏章も送って」
ピコンと宏章のスマホが鳴り、LINEを開くと桜那のアイコンが表示された。よく見ると、アイコンが小さな女の子の写真だった。
「これ、もしかして桜那の子どもの頃?」
「うん!可愛いでしょ?」
宏章はアイコンを拡大した。
昔から目鼻立ちがはっきりした美少女で、しっかりと今の面影を残していた。
「うん!めちゃくちゃ可愛いな!」
あまりの可愛さに、宏章はつい興奮してしまった。
「これで私が整形してない事が証明されたでしょ?」
桜那はけらけらと笑った。
二人はたわいもない会話を楽しみ、幸せな時間を過ごした。楽しい時間はあっという間で、気がつけば時刻は21時を回っていた。
宏章は腕時計に目を遣った。
「もう9時過ぎたな、そろそろ出るか」
「えぇー!まだ帰りたくない!」
桜那は不満気に、子どもの様に頬を膨らませた。
「もっと宏章といたいよ……」
桜那が寂しげに言うので、宏章も離れ難かったが「また会えるよ」と宥めて店を後にした。
帰りの車中、二人は思い出話に花を咲かせた。
「そういえば宏章、昔バイク乗ってたよね。もう乗らないの?」
「あぁ、うん。こっち戻って来る時にバイクもギターも売っちゃったよ。もう忙しくてそんな暇ないし」
「そっか……、自営業だもんね。そういえばお店の後ろって自宅だよね?今はお母さんと暮らしてるの?」
桜那は何気なく尋ねた。
宏章は一瞬表情を曇らせたが、またいつもの表情に戻った。
「いや……、俺ひとりだよ。お袋今入院してるから」
「え?どこか悪いの?」
桜那は心配そうに尋ねた。
「半年くらい前に癌が見つかって……。歳なだけに心配ではあるけど、でも最近は落ち着いてるし。それにやっぱ店が心配みたいでさ。俺が見舞いに行くと、早く帰れって言ってるぐらいだから」
宏章は心配かけまいと、明るく笑って答えた。だがその後少し黙ってから、桜那の方へと振り返った。
「桜那、俺が言う立場じゃないかもしれないけど……、両親に顔見せてやれよ」
宏章が心配そうに笑って言うと、桜那は目を閉じて「そうだね……」と静かに返事をした。
話をしているうちに、いつの間にか駅近の繁華街まで来ていた。ホテルはもうすぐだ。
……このままずっと、側にいられたらいいのに。
桜那もまた、宏章への想いがあの頃から変わっていない事を改めて感じていた。
桜那の願いも虚しく、あっという間にホテルに到着した。
桜那が車を降りると、宏章は助手席の窓を開けた。
「ありがとう。今日会えて嬉しかった」
桜那は寂しげに微笑んで、宏章を見つめた。
「俺も会えて嬉しかったよ。おやすみ」
「うん、気をつけて。また連絡するね」
宏章は桜那に微笑みかけて、車を走らせた。桜那は宏章の車が見えなくなるまで切なげな表情を浮かべ、その場に立ち尽くしていた。