テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
雫石しま
最高な田舎暮らし――けれど、夜の静けさは半端なく、ネオンの看板のない国道は街灯がポツポツと点るだけ……。午後8時を過ぎると車の通りもなく、すすきの穂の揺れる音だけ。時々、裏庭でガサガサ音がして、私は布団の中でカタツムリのように縮こまった。
「なに……このホラー展開」
しかも、庭には「貞子」が這い上がって来そうな井戸がある。隣の家だという山下さんは田んぼと畑を挟んだ雑木林の向こう側だ。東京ならば、窓を開ければ隣のマンションの窓があった。なんとも言えない閉塞感があったけれど、それはそれで安心した。
ここでは違う。夜になると、世界が急に小さくなって、私一人だけが取り残されたみたいになる。布団に潜り込んで目を閉じても、耳が勝手に周りの音を拾う。風が木の葉を擦る音、遠くの山で鳴くフクロウの声、時々パチンと枝が折れるような音。全部が「何かいる」って囁いてる気がして、心臓がドクドク鳴る。
スマホのライトを点けて、部屋の隅々を照らしてみる。埃っぽい天井、剥がれかけた壁紙、古い柱の木目。どれも昼間は懐かしくて優しいのに、夜になると全部が怪しく見える。井戸の蓋は木の板で塞いであるけど、隙間から冷たい空気が這い上がってきそうで怖い。
「……おばあちゃん、怖いよ」
布団の中で小さく呟いたら、涙がにじんだ。東京のワンルームは狭くて息苦しかったけど、少なくとも「一人じゃない」って錯覚できた。隣の部屋からテレビの音が漏れてきたり、廊下で誰かの足音がしたり。孤独を忘れさせてくれた。でもここは違う。静かすぎて、孤独がダイレクトに胸に突き刺さる。
ガサガサ。
また裏庭で音がした。私は布団を頭までかぶって、息を殺す。
「狸か? 狐? それとも……イノシシ?」
頭の中で最悪のシナリオがぐるぐる回る。でも、じっと待ってたら音は止んだ。ゆっくり布団から顔を出して、窓の外を見る。月明かりが庭を薄く照らして、井戸の蓋が黒く浮かんでる。
「……大丈夫、大丈夫だよ」
自分に言い聞かせて、深呼吸する。明日の朝になったら、きっとまた違う。山下じいさんが来てくれたみたいに、誰かが顔を見せてくれるかも。家に挨拶に行ってみよう。野菜のお裾分けをもらったり、逆に何かおすそ分けしたり。村の人たちと繋がれば、この静けさも怖くなくなるはず。
スマホの充電を確かめて、懐中電灯アプリをオンにする。明るい光で部屋を照らしたら、少しだけ心が落ち着いた。
「今日はこれで寝よう。明日は絶対、井戸の周りに柵作るか何かする」
メモ帳に「井戸対策」と走り書きして、枕元に置く。布団に潜り込んで、目を閉じる。すすきの音が、子守唄みたいに聞こえてきた。まだ怖いけど、少しだけ、優しい静けさにも感じる。私は、田舎暮らしの第一歩を、こんな夜に踏み出した。ホラー展開も、きっと笑い話になる日が来る。
翌朝、顔を洗って歯を磨き、東京から持ってきたパンをオレンジジュースで胃に流し込んだ。冷蔵庫は冷えているが、中身は空っぽだ。コンビニがない、スーパーもない……隣町にはあるらしいが、私は車を持っていない。しかもその隣町まで車で10分もかかる――早速、壁にぶち当たる。
縁側に座って、メモ帳を広げる。昨日書いたリストに、新しい項目を追加する。「食料調達手段」。パン一袋とジュースの残りで、今日の昼と夜はなんとかなるけど、明日はもう無理。野菜も肉も、調味料も、何もない。
「……自転車でも買うか」
でも、自転車で坂道を下って隣町まで往復するのは、正直きつい。しかも坂道が急だから、帰りは汗だくで息切れ確実。
スマホで地図アプリを開く。白山市河内村の周辺を拡大してみる。コンビニは最寄りで車で15分、スーパーはさらに先。バス停はあるけど、本数が1日数本しかなくて、タイミングが合わないと待つ羽目になる。
「田舎暮らし、こんなところで詰むなんて……」
ため息が出る。社畜時代は、24時間営業のコンビニがすぐ下にあって、深夜にカップラーメン買って帰るのが普通だった。今は、朝の静かな空気の中で、空っぽの冷蔵庫が妙に重くのしかかる。ガタン、と玄関の戸が鳴る。
「伊藤さん、いるかい?」
山下じいさんの声だ。慌てて立ち上がって、玄関を開ける。じいさんが、麦わら帽をかぶったまま、両手にビニール袋を提げて立ってる。
「朝から悪いな。昨日話してた野菜の余り、持ってきたよ」
袋の中を覗くと、里芋、ネギ、大根、ピーマン、茄子。土がついたままの新鮮な野菜が詰まってる。
「え……こんなにたくさん……!」
「うちの畑で採れたやつだ。まだ夏野菜が残ってるからな。食べきれない分は、漬物にでもしてくれ」
じいさんが笑って、縁側に腰を下ろす。
「冷蔵庫、空っぽだったろ? だから先に持ってきたんだわ」
私は目を丸くして、袋を受け取る。
「ありがとうございます……本当に助かります。実は今朝、食料どうしようかって悩んでて」
「ははは、最初はみんなそうさ。車がないと大変だよな。俺の軽トラ、使っていいぞ。鍵はいつも玄関の植木鉢の下に置いとくから」
「え、そんな……!」
「遠慮すんな。俺はもう運転しなくなったし、トラックも埃かぶってるだけだ。お前さんが使ってくれりゃ、俺も嬉しいよ」
じいさんが立ち上がって、庭の柿の木を見上げる。
「それと、近所の田上のおばちゃんが『新入りさん来たって聞いたら、挨拶に行かなきゃ』って言ってた。昼過ぎに来るかもな。彼女、漬物作りが上手いから、里芋の煮っころがしとか作って持ってきてくれるはずだ」
胸の奥が、じんわり温かくなる。
東京の会社では、誰かが困ってても「自分の仕事が先」って空気が普通だった。ここでは、昨日会ったばかりのじいさんが、朝から野菜を持ってきてくれる。
「……ありがとうございます。山下さん」
「礼なんていらんよ。代わりに、いつかお前さんの手料理でもごちそうしてくれりゃいい」
じいさんが手を振って、坂を下りていく。私はビニール袋を抱えて、キッチンに戻る。冷蔵庫を開けて、野菜を一つずつ丁寧にしまう。里芋の土を軽く洗って、ネギを束ねて、大根を立てて。冷蔵庫が、少しだけ賑やかになった。メモ帳の「食料調達手段」の横に、丸を付ける。
「山下じいさんのトラック、使わせてもらう」
そして、新しく書く。「山下さんへのお礼」今度山下さんが来たら、まずはお茶を淹れて、野菜のお礼を言う。少しずつ、この村に根を張っていける気がする。壁にぶち当たったと思ったけど、実は誰かが手を差し伸べてくれていた。空っぽの冷蔵庫は、もう空っぽじゃない。