テラーノベル
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目を覚ますと、病院だった。
「脱水と栄養不足がかなり進んでいます。この状態で仕事を続けるのは危険です」
「……入院、ですか?」
「はい。赤ちゃんを守れるのは、あなたしかいません」
その言葉に、亮は息を止めた。
休職届を手にしていた彩の姿が蘇る。
――正直、ちょっと甘えてる気もするよ。
(俺……最低だ)
*
入院しても、つわりは続いた。
食事は一口食べるだけで精一杯だったが、看護師は責めるどころか、「一口でも食べられたら十分ですよ」と言ってくれた。
同じ病棟には、亮と同じようにつわりに苦しむ妊夫たちもいた。
「昨日なんて、水飲んでも吐いてました」
「俺は匂いがダメ」
「仕事休むの、本当に申し訳なくてさ」
どれも、自分と同じ苦しみだった。
「大丈夫。みんな最初はそうだから。一人じゃないよ」
そう言われた瞬間、張り詰めていたものが緩んだ。
(“分かってもらえる”って……こんなに救われるんだ)
そして同時に、気づく。
彩はずっと、自分にそれを求めていたのだ。
*
数日後の健診で、亮は初めて赤ちゃんを見た。
「ここですよ」
医師がモニターを指差す。
トクン、トクン――。
小さな心音が響く。
(……生きてる)
ほんの小さな命が、自分の中で確かに動いている。
亮は画面から目を離せなかった。
「順調ですよ。元気です」
診察後、渡されたエコー写真を見つめる。
(彩も、こうやって毎日この命を守ってたんだ)
苦しくても、食べられなくても、不安でも。
それなのに自分は、その苦しみを「甘え」の一言で片づけた。
(守りたい)
エコー写真を握りしめる。
(帰りたい)
(彩に会って、ちゃんと謝りたい)
その夜、亮は病室のベッドでエコー写真を見つめていた。
もし元の世界へ戻れるなら、この痛みを忘れたくない。吐き続けた苦しさも、誰にも頼れない心細さも、命を背負う重さも。
そのとき、ベッドサイドの端末がひとりでに光った。
《Reプログラム体験中の方へ》
《理解は、十分に育まれました》
《まもなく、プログラムを終了します》
「……終わる?」
続けて、文字が切り替わる。
《Reプログラム体験はここで終了です》
《元の世界へ戻ります》
「待っ……!」
眩い光が病室を包む。
亮は咄嗟に目を閉じた。
「彩――!」
*
目を開けると、見慣れた天井があった。
「……え?」
亮は勢いよく身体を起こし、自分のお腹へ触れた。
膨らんでいない。吐き気も、あの重苦しさも消えている。
隣を見る。
彩が眠っていた。
「……彩」
その顔を見た途端、反転した世界で味わったすべてが蘇った。
吐き気に耐えながら仕事へ向かった朝。食べたいのに食べられなかった昼。誰もいない部屋で過ごした夜。そして、自分の中で鳴っていた小さな心音。
亮は震える手で、彩の手を握った。
「……ごめん」
声が掠れた。
「ごめん、彩……」
「……亮?」
彩がゆっくりと目を開ける。
「どうしたの……?」
「俺、何にも分かってなかった」
涙が止まらなかった。
「つわりがどれだけ苦しいかも、仕事に行くのがどれだけつらいかも、休みたくても休めない気持ちも……全部」
彩が驚いたように亮を見つめる。
「俺、“妊娠は病気じゃない”って言った。“気の持ちよう”だとか、“妊婦様”とか……」
言葉にするたび、自分がどれほど残酷だったのか思い知らされる。
亮は深く頭を下げた。
「本当に、ごめん」
「亮……何があったの?」
亮は顔を上げた。
「信じてもらえないかもしれないけど」
一度、息を吸う。
「俺……妊娠してたんだ」
「……え?」
「男が妊娠する世界に行ってた。つわりになって、それでも仕事に行って、倒れて入院して……赤ちゃんのエコーも見た」
彩は呆然としている。
当然だ。それでも亮は続けた。
「夢だったのかもしれない。でも、俺にとっては本当にあったことなんだ」
彩の手を握る。
「やっと分かった。彩がどんな思いで毎日過ごしてたのか」
彩の目から、涙がこぼれた。
「……ありがとう」
その言葉に、亮も泣いた。
二人はしばらく何も言わず、ただ抱きしめ合った。
――理解は、謝ることから始まるんじゃない。
寄り添い続けることで、初めて形になる。
*
数日後の朝。
キッチンには、薄く切ったりんごとヨーグルト、ロールパン、冷たい麦茶が並んでいた。
「食べられそうなのだけでいいから」
エプロン姿の亮に言われ、彩はりんごを一切れ口へ運んだ。
ゆっくり噛んで、飲み込む。
「……ごめん。今日はこれくらいしか無理かも」
「謝らなくていいよ」
亮はすぐに首を振った。
「昨日より食べられたじゃん。十分だよ」
彩は一瞬驚いたあと、ふっと笑った。
*
その日の仕事帰り。
電車に座っていた亮の前に、大きなお腹を抱えた女性が乗ってきた。
亮は考えるより先に立ち上がっていた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
女性がほっとしたように腰を下ろす。
「お前、変わったな」
隣にいた裕人が笑った。
「前のお前なら、気づいても動かなかったんじゃない?」
「……かもな」
「今のお前、いい顔してるよ」
「ありがと」
亮は小さく笑った。
――痛みを知ることは、誰かを思いやることだった。
その優しさは、きっと今日からの毎日で返していけばいい。
*
夜の街。
人通りの途絶えた交差点で、一人の人物が街灯の下に立っていた。
長いコートをまとった、中性的な容姿の店主。
その手元で、スマートフォンの画面が淡く光る。
《Reプログラム》
《Case1:終了》
《理解度:100%》
《価値観の更新:完了》
店主は静かに画面を見つめた。
『痛みは、人を壊すこともある』
『けれど、誰かを理解する力にもなれる』
やがて、新しい通知が浮かび上がる。
《次の対象者を選定中――》
店主はスマートフォンから顔を上げ、夜空を見上げた。
「さて……次は、誰が“痛み”を知る番でしょうか」
街灯が一度、ちらりと瞬く。
次の瞬間、そこに店主の姿はなかった。
――Case2『じゃあ、あなたがワンオペしてみて』
コメント
1件
亮くんがようやく彩さんの痛みにたどり着けたのが本当に胸に響きました……「エコー写真を握りしめる」シーンと「ごめん」の一言で涙が止まらなかったです。朝食のりんごとヨーグルト、何気ないのに「食べられたね」で済ませる亮くんの変化がもう尊くて。ラストの店主、続きも絶対読みたいです。素敵な作品をありがとうございました🕊️
Tubling
1,180
都築七美
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