テラーノベル
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「待っとうせ…… 待っとうせ……」
「いや……、来ないでださい……」
先方の口振りが伝染ったか。 譫言のような語気が、図らずも私の口を衝いた。
そもそも、車外の声が、なぜここまで鮮明に聴こえるのか。
考えようにも、頭がそれを拒んでいるらしく、支離滅裂な思考しか浮かんでこない。
髪を振り乱し、血走った眼を大きく見開いて、激走する逆立ち女。
「待っとうせ…… 待っとうせ……」
その模様は、甚だ現実味を欠いており、まるで夢を見ているような心地がした。
難儀なことである。
夢の中では、思うように体を動かせない。
「………………」
前に向き直ることも、目を逸らすことも出来ず、私は一心にそれの注視を続けた。
見たままに逆立ち女であるが、年頃は判らない。
妖怪なのか、はたまたお化けなのか、私の眼では判然としない。
細い身体には、質素な和服を着けている。
運動にはまったく適さない格好であるが、当人は一向に構わず、激走を続けている。
オリンピックの種目に逆立ち走があったら、このヒト絶対に金メダルとるだろうなと、取り留めのない考えがぼんやりと浮かんだ。
「やべぇだろ!? あれはアカン!」
「速い! こわ……っ!?怖い!!」
助手席の幸介が取り乱し、前列シートのタマちゃんが悲鳴を上げた。
それにしても、とんでもない速さだ。
四輪駆動の底力を遺憾なく発揮した車は、まるで羽根が生えたように、ぐんぐんとスピードを吊り上げている。
これに、ただの腕力で追い次おうと言うのだから、尋常じゃない。
ちょうど、ヘアピンカーブに差し掛かった。
慶子さんがガツンとブレーキを踏み込み、タイヤが憤るように悲鳴を上げた。
制動の皺寄せを食った車体が、小刻みに震えた。
「待った……」
「うわ!?」
逆立ち女の身柄が、ふわりと浮き上がったかと思うと、たちまちリアウインドウに張り付き、ベタンと餅をつくような音を立てた。
彼女にとっても、それは予期せぬ出来事だったのだろう。
急な制動と、当面のダウンヒルが災いしたらしい。
「ブタさんだ………」
「うん……」
その模様を見て、タマちゃんがポツリと言った。
なにを呑気なと思ったが、私もまったく同じ感想を抱いたので、始末が悪い。
ガラスに押し付けられた先方の逆さ顔は、ちょうど豚っ鼻のようになっていた。
しかし、愛らしいかと問われれば、全力で首を振らずには居られない。
「待っとうせ…… 待っとうせ……」
世間を恨めしがるような声と、鬼の形相は相変わらず。 ピンポン玉を思わせる眼球が、ギョロギョロと動いている。
そこにコミカルな豚っ鼻が加味されても、ただただ怖いだけだった。
「此方が仕ります」
悪夢のようなカーブを抜け、長い直線に入ったところで、結桜ちゃんが勇ましい口振りで宣言した。
思うように外れないシートベルトと格闘しつつ、「窓を開けてください!」と訴える。
車のお尻を離れた逆立ち女は、ふたたび全力疾走の態勢に入っており、こちらを激しく捲っている。
「ダメ! ダメよ!?」
慶子さんが声を大にして、この申し出を却下した。
弟の大切な友人を、修羅場に擲つ真似などできる筈がない。
もちろん、思いはみんな一緒だ。
「ゆらちゃん、ここに居よ? 走ってる車から飛び降りると、すごい危ないよ……?」
「そうだよ! マジでやめとけって!」
それぞれ、どうにか彼女を引き止めようとあたふたする最中、ほのっちの発したセリフが決め手となった。
「もう少し様子を見ましょう………」
「え?」
「あれ、見た目ほどヤバい奴じゃないですよ」
このヒトがそう言うのなら、そうなのかも知れない。
渋々ながらそのように納得したのか、結桜ちゃんは「ふぬぅ……」と唸ったきり、おとなしくリアウインドウの注視に専念した。
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