「坊――― 離れていろ」
言葉尻に吐いた溜息が突風を生む。踏み出す一歩は霹靂《へきれき》を引き連れ、稲妻が両角にドガンと神鳴《かみな》りを降ろすと、その力を受け身体が一回り大きくなった。
踏み出す程に神鳴りに打たれ、地表が割れる。三歩進む頃には見上げていた化け物の巨体ですらも、見下ろしてしまう獰悪《どうあく》な存在へと変貌を遂げた。
巨大な雄牛の頭からは、強靭な角が両側に突き出し、角の間を帯電した電流が繋ぐ。赤く燃える様な瞳には、怒りや苦しみが絶え間なく駆り返し浮かびあがり、溢れ出た碧い炎が口元を汚す。
身体全体には隆起した黒い鋼の様な筋肉が波をうち、力強く大きな掌《てのひら》には、全てを握り潰す握力と、敵を一瞬で引き裂く爪を有していた。
下半身は牛の後ろ脚その物であり、蹄《ひづめ》で地面を踏みしめるその一歩一歩が大地を揺るがす。
人界に於いて、永遠と語り継がれ名にし負う―――
―――獣人ミウノタウロス
その真名はマルティネス・アステリオス。人と獣が融合したその姿は、まさに恐怖と力の象徴だった。
恐れをなした化け物は、思わず躪《にじ》りと二の足を踏む―――
ギアラは幼き頃より、馴染み親しんだその妖気と姿を前に、思わず大きな声をあげた。
「あれれ? マルおぢちゃん? 」
礑《はた》と我に返り、振り返ると鬼の形相が一瞬でだらしなく下がる。気持ちの悪いくらい身体を拗《くね》らせると、ギアラに向け感情を顕《あらわ》に、口を尖らせつむじを曲げる。
「坊ぉ~ そうだよぉ~ マルおじちゃんだよぉ、やっと気付いてくれたんだねぇ、酷いよぉ。坊の襁褓《おしめ》は、おじちゃんが、ずうっと変えてあげてたんだよ~ 忘れられてたなんて、おじちゃん悲しいよぉ坊ぉ~ やっと思い出してくれたんだねぇ」
屈強な獣人が胸の前で両手を合わせ、天を仰ぎ大粒の涕をドバドバ溢す。
「気持ち悪い程に屈折した愛ネ。何泣いてるのよッ」
小さな光は穢《きたな》い者を憐《あわ》れ蔑《さげす》む様にボソリと言葉を投げた。
「だってアスなんとかなんてナマエしらないのれすっ からだもウシだったし。やっとマルおぢちゃんだったって、イマわかったなのれすっ」
「坊ぉ~ おじちゃんは嬉しいよぉ~ 」
そんなやり取りの箍《たが》が緩《ゆる》んだ隙を突き、化け物は脚にグググと力を込めると、勝ち目の無い勝負から信じられない程の跳躍力で、その身を遥か上空へと逃がした。
「ぬっ⁉――― 」
アステリオスが咄嗟に目で追い反応を示すと、
「 ―――ほえぇ」
ギアラはポカンを口を開けたまま見送った。
「すごくとんでったのれすっ」
「坊‼ 俺の背中に摑まれ――― 追うぞ‼ 彼奴が向かった先は街中だ」
同時に闇夜を渡る人の声が、彼方《かなた》から谺《こだま》する。
「ミルドルド様ぁ――― 」
「 ―――ヴェイン様ぁぁぁ」
遠くからガチャガチャと数多くの鎧の打ちだす音と、馬蹄《ばてい》が土を激しく抉《えぐ》る地鳴りがアステリオス達に迫り、猶予の無い判断を迫られる。
此処は人界域。多くの人族達にこの姿を曝す訳にはいかない。異形の者など、この世界に於《お》いて有ってはならない存在だと言う事を、アステリオスは良く理解していた。
―――だが併《しか》し……
「アレは放っておいてはいけないモノだ」
強靭な太腿が力を示し、蹄《ひづめ》が捉えた大地が歪む。屈めた両足にバチリと電流が赱ると、筋肉が更に膨張した。
ギアラはドオンと何かに身体を打ち出されると、風圧により目と口を閉じる事を強制され、一瞬呼吸までもが奪われた。しがみ付く事に精一杯耐えていると、漸く速度が落ちた時点で「ぷはぁ」と口を大きく開き、涙目のまま瞳を見開くと、今正に追い付いた怪物にアステリオスが追撃を仕掛ける瞬間であった。
「フハハ、空では逃げれまい。食らえ――― 」
グギャァァァァァ―――
―――振り被った拳に稲妻が祝福する。
戯れに撃ち放たれた拳は、軽く音速を越え雲を引き裂くと、化け物をまるで小さな虫の如く吹っ飛ばす。化け物はドガンと防壁の先端を掠め傷跡を残すも、勢い衰えずに、そのまま砦の外周を越え、遥か彼方でその身を止めた。
その僅か数秒後、アステリオスは大きく砂を巻き上げ巨体をドドンと落とすと、ギアラを労るように優しく背から降ろす。
「坊はイイ子だから、此処でおじちゃんのカッコイイ姿を見ててね。今やっつけちゃうからね」
キラリと鋭い牙を魅せ、ムキムキ決めポーズのアステリオスに対し、何故かご機嫌斜めの猫は少しばかり意地悪を言った。
「ウシがしゃべってるれす…… 」
「坊ぉ~ 」
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南門で待機中であった斥候班の男達の頭上を何かが高速で通り過ぎ、防壁の上部を破壊するとそのまま砦の外へと弾んで飛んでいった。その激しい衝撃と、飛び散った瓦礫が只事でない事を物語る。
「班長殿―――‼ 」
叫んだのは北の出身の元狩人のザイード・アルラスだった。夜目が利く彼は上空を横切る存在が、自分の知り得る存在では無い事に一瞬で気付いて居た。
「いっ今のは一体なんだ…… 班長殿⁉ 」
額に汗を滲ませ切羽詰まった表情のザイードに、事の重要性を察した斥候見習いのハキム・ダッカームも緊張を隠せずに居た。
「俺が様子を見て来る。二人は変わらず南門にて待機。俺が戻る前に撤退する敵兵が現れたら迷わず後を追ってくれ、俺は後《のち》に必ず二人と合流する」
焦るザイードを他所に身支度を済ませると、細い建屋の通りから身を潜め、今一度念を押した。
「頼んだぞ、指揮は一旦ザイードに託す。深追いはするな。無理だと感じたら撤退、若《も》しくは俺を待ってくれ」
「ちょっ⁉ 待ってくれ班長殿。アンタ一人でなんて無謀過ぎる。アンタだって見ただろう? あれはっ、アレは化け――― 」
班長と呼ばれた男は、ザイードに最後まで語らせぬ様に口元に指を立てた。
「俺はムルニの生き残りだ。きっと大丈夫。信じてくれ」
男はそう言い残すと、薄暗く口を開け放った南門を飛び出して行った。
「班長殿ぉ―――‼ 」
残されたハキムは不安そうな笑みを浮かべ、ザイードに同意を求めた。
「班長さんを信じましょう。僕等は僕等の任務を…… 」
「そうだな。俺達の仕事をするしかねぇな」
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門を飛び出し立ち止まると、感覚を研ぎ澄ます。張り詰めた空気からの情報を漁ると、只ならぬ妖気を直ぐに五感が捉えた。仮面で素顔を隠すとフードを深く被り砂を弾く。
装備は皆無に等しく、得物は心許無い腰の短刀のみだった。
―――俺は一体これで何をするつもりなのか……
未だに思う……
あの時の異形の怪物との闘いは夢だったのでは無いかと。もう一度確かめたかったのかもしれない。その存在を、しっかりと認識する為に。彼等の目的とその生態を……
一体彼等は何者なのかと、心のどこかで知らなければならないと思い始めて居た。
巨大な妖気が漂う砂塵を超えると、聞きなれた声が鼓膜に響いた。そこには治癒院の中庭に居るべきギアラが喜び勇み走り寄ってくる。
「マジンサマぁ――― 」
「マジンだと⁉ 」
その一言を受け、一瞬で風向きが変わると、圧倒的な妖気が俺の心臓を貫いた。
「カタナをわたそうとおもって。さがしてたのれす」
ギアラから刀を受け取り、何故こんな場所に居るのかと問い質そうとした時だった。
妖気の主であろう巨大な影が、咄嗟に振り向き怒号を飛ばした。
「坊! ソイツから離れろ――― 」
「―――――‼ 」
一瞬にして巨大な拳が俺の瞳を掠めた―――
交わる思惑と垣間見ゆる謀《たばか》り事は、昏《くら》き闇へと移ろいぬ。姿なき悪意に踊らされ縛られし様は、世の縁の如く。運命の鎖を握る手は、善か悪か、答え知る者は無し。
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