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この物語はキャラクターの死や心の揺れを含む描写があります。読む際はご自身の心の状態にご配慮ください。
あの時の、傷の匂いがまだ鼻の奥に残る。掌には、刃が肉を切ったときの生々しい感触が残っている。
フユリは、確かに「斬って」と言った。私は、その願いに従った。
その事実は腐りながら、私の内側を蝕む。
今はただ、あの子のことを知りたい。知れば、私も――少しは赦されるだろうか。
ゆっくりと、本を開く。あの子の全てを、受け止めるために。
その瞬間。
文字が視界を覆い尽くし、やがて意味を失って黒く溶けていく。
闇の奥で、幼い声が響いた。
――わたしは、フユリ。
私の意識は、今、完全に彼女のものとなった。
わたしの名前は、凪津(なぎつ)フユリ。
月見の森で毎日、イロハと遊んで笑って、平和な日々を過ごしていた。
でも、少しずつ、事の歯車は、歪み始めていたらしい。
女王様、イロハのお母さんは命を犠牲にしてどこかへ行った。そしてイロハも、どこか遠くへ旅するらしい。
でも、イロハがどこかへ行っても、わたしたちはずっと一緒だと、思っていた。
思っていたのに。
それはある日の夜。
イロハが女王様から剣を託され、旅に出る日。
月見の森が爆ぜ、黒い影が溢れ出した。虚霊――名も知らぬ怪物。
森の人々は混乱して、叫び、泣き、怒り狂った。
どうしてこんなことになったのか、その時のわたしには分からなかった。
選べる道なんて、なかった。
焼かれるか、虚霊に呑まれるか――それだけだ。
わたしも必死に逃げた。抵抗もした。
でも、無駄だった。虚霊は暴れて、わたしを呑み込んでいく。
藁にすがるような想いで、声を振り絞った。
助けて。助けて――そう叫んだ。
……その時、イロハが現れた。
身体が蝕まれて、感覚がどんどん薄れてく。自分の足がどこにあるのかさえ、分からなかった。
「たすけ……っ!」
精一杯、 叫んで手を伸ばした。イロハは剣を持っていた。確か、あの剣には女王様の魂が込められているんだっけ。
イロハは見たことないくらいに、震えていた。いつもなら無表情で、笑わせることに苦労するのに。
足も手も、隅から隅まで震えていた。
でも、そんな手でも、助けようと手を伸ばしてくれていた。
わたしは、頑張って手を伸ばした。どんどん感覚がおかしくなって、視界までぼやけ始める。まるで水中にいる時のよう。
それでも頑張った。
でも、この世界はそれを赦してくれなかった。
重く、冷たい虚霊の力が、わたしを押し潰す。
足も手も、声も、すべてを奪われて――ただ、沈んでいくしかなかった。
最後に、言った。
「また……会おうね……イロハ、絶対、だよ……?」
ぼやけて、 もう何も見えない。
わたしは今どうなっている?イロハはどんな顔をしているのか。
最期くらいは……イロハの顔を、笑っている顔を見たい――そう願った。
徐々に、視界がぼやけていく。白い光が広がり、わたしはそれを終わりだと確信した。
次の瞬間に映ったのは、焼け焦げた森と、土に伏したイロハの姿だった。
――どうして。
虚霊に呑まれて、もう駄目だと覚悟したはずなのに。なのに、わたしはまだここにいる。
横向きに倒れたまま、身体は痛みと痺れに支配され、息をするのもおぼつかない。
鼻を刺すのは、焦げる匂い。胸の奥がひゅっと縮む。空は暗く、時間感覚さえ揺らいでいる。
「どうして……わたし、まだ……」
喉の奥から絞り出した声が震える。恐怖が渦になって胸を締めつける。
それより――イロハは、どうしてあんなふうに倒れているの?
必死で土を掻くように手を伸ばす。冷たい土が爪に入り、指先は泥で重い。
けれど腕は言うことをきかない。ほんの一指分だけが届かない。
「イロハ、起きてよ……」
嗚咽が混じる声。指先が、あと一歩で――届きそうで届かない。
世界がわたしを押し戻すみたいに、床に押し倒される感覚。
「いやだ」
涙が溢れ、視界が滲む。土をかきむしる指は、もうほとんど動かない。
「……いやだ……イロハ……」
そのとき、視界の端に影が落ちた。月のない夜よりも濃い、境界のない影。
森の焦げ跡とは別に、そこに“生まれた”ように広がる。
冷たい気配がゆっくり覆いかぶさる。声はない。ただ、伸ばされた“何か”が、わたしの手に触れた。ぞわりと皮膚が逆立つ。
抗おうとする間もなく、その手はわたしをすくい上げた。
「……だれ……?」
掠れた声が闇に溶ける。焼けた森も、倒れたイロハも、音も匂いも、みるみる遠ざかっていった。
謎の人物に抱えられ、わたしはどこかへ運ばれていく。視界が白と黒で引き裂かれるように揺れた。
「ねぇ、待って。どこに連れてくの。イロハは生きてるの!」
手足をばたつかせて抵抗を試みるが、身体はもう言うことを聞かない。声だけが、夜に向かって空しくこだました。
白と黒が混じり合った視界が、やがてひとつの色に収束していく。
冷たい石の匂い。鼻を刺す薬品の匂い。焼けた森とは違う、人工的な、どこか吐き気を誘う空気。
目を開けたとき、わたしは見知らぬ部屋にいた。
石壁。鉄格子。窓はなく、ただ白い光が頭上から降り注いでいる。
ベッドに横たえられている事に気づく。手足は痺れたまま、ほとんど動かない。
「……ここ、どこ……」
声は掠れて、ほとんど音にならない。
そのとき、重い扉が開く音が響いた。
ギィィ……と、錆びた金属が擦れるような音。
黒い外套を纏った人物たちが数人、部屋に入ってきた。顔は覆面で隠され、誰も表情を見せない。
先頭に立つのは、白髪交じりの男。鋭い目だけがこちらを見下ろしていた。
「目を覚ましたか。」
どうして、わたしを?
「……イロハは……? イロハはどこ……っ!」
必死に声を振り絞る。喉が焼けるみたいに痛む。
だが、男は冷笑を浮かべて答えた。
「森が燃えたのは……君の友人のせいだ」
耳を疑った。頭が真っ白になる。
さらに男は続ける。
「そして残念ながら、彼女はもう君のことなど覚えていない」
心臓を握りつぶされるような痛み。
言葉を返そうとするのに、喉が詰まって声にならない。
イロハが、わたしを……? 忘れた? そんなはず――。
「君は、特別な存在だ。我々が必要としている」
男の声は氷のように冷たく、乾いていた。
その瞬間、背筋に走るのは――恐怖と、どうしようもない絶望。
「どういうこと……?イロハのせいで森が燃えた……って。」
「悪いのは平和ボケしたあの女王と娘だ。我々の邪魔をしようなんて。」
平和ボケ……?そんなはずない。この人達は知らないだけ。
イロハや女王様が、どれだけ頑張っていたのか。
イロハは無愛想だけど、本当は物凄くやさしくて、誰よりも頑張っている。毎日毎日修行して、精神を統一する。それがどれだけ大変なのか。
わたしはそれを、ずっと見ていたからわかる。
「そんな……イロハは悪くないよ」
わたしの声は、掠れて震えていた。
だが、男の目は氷のように動かない。
まるでわたしの言葉なんて、最初から存在していないかのように。
「君はまだ理解していないようだな」
低く抑えられた声が響く。
その合図のように、後ろにいた黒衣の者たちが一斉に動いた。
足音が石床に響く。無表情の仮面が、わたしを取り囲む。
「な、にを……?」
恐怖で息が詰まる。
次の瞬間、冷たい金具が手首に噛みついた。鉄の拘束具。
足首にも重い鎖がはめられる。ベッドに縫いつけられたみたいに、動けない。
「我々が必要なのは“君自身”ではない。君の中に眠る可能性だ。」
耳にこびりつくその言葉。
何を言っているのか分からない。だけど――悪い予感しかしなかった。
「やめて……やめて! イロハに会わせて!」
「もう、会えないよ。」
必死に叫ぶ声は、鉄壁のような無関心に跳ね返されるだけだった。
冷たい拘束具に縛られたまま、わたしは部屋の外に連れ出された。
廊下は無機質で、天井の光は鋭く地面を照らす。窓はない。息が詰まった。
鎖が引っ張られるたび、腕の肉が締め上げられる。石の床は冷たく、歩くたびに痛みが走る。
「……どこ……」掠れた声が出るだけで、返事はない。黒衣の者たちは無表情で、先導役だけが淡々と歩を進める。
やがて大きな広間に出た。石壁に囲まれ、中央には誰の知るものでもない装置が鎮座している。
金属でも石でもない、表面に線が光るそれは、まるで脈を打っているようだった。拘束具の鎖は氷のように冷たい――ただの金属の冷たさではなく、意識を凍らせるような寒さだ。
「ここは……?」恐る恐る言うと、白髪の男がゆっくり歩み寄った。目だけが冷たく光る。
「君はこれから、我々の研究対象だ」
「研究って、わたしに何を?」声は震え、喉が焼ける。男は微笑んだ。
「君を観測者に仕立てるための実験だ。君は今、ただの道具に過ぎない」
胸が裂けるように痛んだ。意味が分からない。どうして私が。
そんなとき、部屋の片隅に背の高い影が立っているのに気づいた。顔は朧げで判別できない。ただ、その視線だけは、冷たく――でも、確かにわたしを見ていた。
それから、地獄の日々が始まった。
毎日終わることのない「実験」に耐え続ける。頭に直接流れ込む何か。ビリビリと痺れ、脳が焼かれるような痛みが走る。思考が鋭く刺されるたび、世界がぐらりと揺れた。
身体は自由を奪われ、痺れと鈍痛が全身を巡り、白光が目を刺し、薬品の匂いが肺を満たす。呼吸をするだけで胸が締めつけられる。
「痛い、痛い、痛い」──何度も叫んだが、声は届かない。届くのは無機質な音と、白髪の男の冷たい指示だけだった。
日が経つごとに、肉体だけでなく心も削られていく。目を開ければ白い光、閉じても森の記憶が頭の奥で揺らぎ、イロハが生きているのか、忘れてしまったのか、わからなくなる。
「もう……会えないの?」その問いだけが、胸の中でひびき続けた。
金属の実験道具に繋がれ、脳へ刺激が注ぎ込まれる。痛みが波のように押し寄せ、息が詰まる。身体は反応せず、思考だけが空回りした。
白髪の男は平然と言った。「君は特別な存在だ」──特別。私は道具だ。命を削る材料として、生かされているだけだ。
黒衣の者たちの視線には温もりがなく、計算という刃だけが光っている。視線を受けるたび、心の芯がさらに冷たくなった。
それでも、小さな祈りを口にする。
「イロハ……どうか、無事でいて……」
返ってくるのは痛みと絶望だけだった。
唯一の救いは、桜の髪飾り。イロハがくれたそれを撫でると、胸の奥にかすかな温もりが戻る。
月日が流れても、身体は痺れ、心は石のように重くなっていく。感覚は薄れ、声すら遠くなる。
それでもわたしは生きていた。生きている──それだけが、残された事実だった。
ある夜、またひとり、白い光に照らされた部屋で視界はぼんやりと霞み、泣き疲れた目に光が刺さる。
寂しさを紛らわそうと、髪飾りに手を伸ばすと、
ふと、髪に添えられた髪飾りがないことに気づく。
「……あれ?」
震える手で布や床を探すが、どこにもない。
涙と痛みで頭はぼうっとし、ただ失くしたものが胸をぎゅっと締めつける。
本当ならもう寝ている時間だけれど、今は関係ない。あれは世界にひとつの、わたしだけのもの。
「見つけ、なきゃ……!」
記憶がゆっくり蘇る。雪の降る森。みんなは雪で遊んでいた。
その日、私はいつもの場所にいないイロハを探していた。宙を浮くわたしに、初めてイロハが声をかけてくれた。そして髪飾りをくれた。
あのときの嬉しさ、胸の高鳴り……言葉にできない感情。
必死で、わたしは目を盗んで部屋を出た。
きっと見つかれば、ぶたれる。もしかすると、それ以上のことをされるかもしれない。
でも、あれはわたしにとって、大事で、命よりも大切なものだった。
ゆっくり扉を開き、音を立てないように閉める。
廊下の床を見下ろす。夜で明かりはない。目が暗闇に慣れるのを待ち、髪飾りを探す。
けれど、そんなに簡単には見つからない。
「ない……? どこいったの?」
何分も、何十分も、探し続ける。痛みと恐怖が胸に張り付くけれど、それでも手を止められない。
そして、不意に。
手の甲に、ひとしずく、涙が落ちた。
どうしよう。無くしちゃった。イロハから貰った大事なものなのに。
泣く場合じゃないのに、ボロボロと、視界を埋め尽くすように、涙が溢れ出る。
手で目を擦って、涙を拭く。
嗚咽が漏れ出す。喉の奥が痛く、つっかえる。
「……っ、どこなの?」
暗闇に響く声に、廊下の静寂が重くのしかかる。
胸の奥で、焦りと恐怖がぐるぐると絡み合い、髪飾りを探す手は止まらない。
そんな時。
背後から、なにかの足音が聞こえた。カツン、カツン、と、軽い音。
人だ。
誰かにバレた……?
わたしは立ち上がろうと、床に手を置いた。でも、視界が歪んで、力が入ってくれない。諦めきれない。どうしても。
迷ってしまう。今すぐ、部屋に戻らなければ怒られてしまう。それは嫌。なのに、心と身体が別のように、言うことを聞かない。
そして、肩に感じる、冷たい感触。
幽霊のようにゆらりと揺れるその感覚に、思わず声が出る。
「ふぁ……っ!」
バカみたいな声だ。猛獣に脅える、小さくて弱い、小動物のよう。
恐る恐る振り返ると、黒いフードを被り、長い髪を垂らした女性――いや、人間なのかもはや判断がつかない――が、静かにわたしを見つめていた。
その視線は、捕食者でも、救済者でも、まだわからない。
「ごめんなさーーっ!」
謝ろうとした瞬間、黒い手袋と共に、何かが差し出された。
手が震えて、胸がざわつく。何だろう……? 触れたら、逃げられないかもしれない。
いや、少し考えて、すぐに分かった。
それは、私の探し物の、髪飾りだった。
桃色の布に、桜の柄。少しボロボロだけど、想いの籠った、この世で一つだけのもの。
胸の奥がぎゅっと痛む。手が震えて、思わず握りしめそうになる。
「探し物は、これかな。」
予想よりも低く、落ち着いた声がわたしに届く。
返事もできず、ただその場で硬直した。助けられることが、こんなにも恐ろしく、同時に救いだなんて思わなかった。
その様子を見てか、女性(女性かは分からない)は首を傾げ、困り気味に話しかける。
「これじゃなかったかな……? 実験室に落ちてたんだ。」
「……あなた、誰?」
受け取る前に聞いた。第一印象では女性だと思ったのに、声は案外中性的で、誰なのかまだ分からない。
目の前の人は肩を竦め、困ったように笑う。
「僕はアクト……まぁ、これはコードネームだから、本名じゃないんだ。……言っとくけど、女じゃなくて男だからね。」
手を伸ばす。指先が触れた瞬間、胸の奥がぎゅっと鳴った。恐怖と安堵が入り混じり、身体が小さく震える。目の前の存在が、怖くもあり、救いでもあることを、まだ整理できない。
「……ありがとう……」
小さな声が漏れる。胸の奥のぎゅっとした痛みが、少しだけ柔らぐ気がした。
アクトは、わずかに微笑む。
「いいんだよ。落ち着けるまで、ゆっくりでいいから。」
胸の奥がまだグリグリと痛む。手に髪飾りを握りしめながら、呼吸を整えようとするけれど、身体はまだ小さく震えている。
「とはいえ……」と、アクトの声が耳に届く。現実に引き戻されるようで、胸のざわつきが少し落ち着く。
「ずっとここにいたら、いずれ見回りのやつにバレる。君の部屋に行こう。バレたらこっちも刑罰さ。これ以上は受けたくないね。」
「刑、罰?」
「うん、君たちで言う、お説教みたいなもの。」
少し軽い雰囲気で刑罰という言葉を呟いて、今もただ怯えることなく、そこにいる。どこか強さと安心感があって、久しぶりに心が安らぐ。
この人は、他と違う。
他の人は、わたしを道具として扱って、冷たい視線を向けて、わたしが叫んでも何も無い。
きっと、わたしが今みたいに困ってても、怒って助けてはくれないだろう。
なのに、この人は人並みの笑顔も、強さも安心感も、優しさまで、全て兼ね備えている。
目の前の人を見つめながら、わたしは思わず指をぎゅっと握りしめる。
この人は、何者?
「さぁ、おいで。」
アクトの手を借りて、廊下をゆっくり進む。
足音は静かで、カツン、カツンとわずかに響く。夜の冷たい空気が肌を撫で、心臓の鼓動が耳の奥で鳴る。
視線を落とすと、床にうっすら月光が差し込み、影が揺れている。
少し先にある自分の部屋の扉が、遠くにぼんやり見える。
手を握るアクトの力はほんのり温かく、でもまだ少しだけ緊張で身体が震えていた。
「大丈夫。」とアクトが小さく囁く。
その声に、心の奥がぎゅっと緩む。
怖くて、でも安心できる、複雑な感覚が胸を満たす。
廊下の曲がり角を曲がり、壁に沿って歩く。月明かりに照らされた影が伸びては縮み、まるで迷子の私を導く灯のようだった。
ついに、自分の部屋の扉まで辿り着く。
アクトがそっと扉の前で立ち止まり、振り返って小さく微笑む。
「ここまで来れば大丈夫。今日はもう眠りなさい。」
そして、すぅ……と、私の隣を通り過ぎて、そのままどこかへ行こうとするアクト。
でも、わたしはその手を、強引に掴んだ。
「まって。」
黒い袖を、ちぎれるかと思うほど引っ張る。アクトは「わっ。」と驚き、足をふらつかせた。
わたしは見上げる。フードの隙間から覗く、夜空のように暗い瞳――その中に、優しさと星のような光が揺れるのを見た。
「……おねがい、ひとりはさみしいの。眠れるまでそばにいて。」
わたしの言葉に、アクトは小さく肩を竦め、苦笑を浮かべる。
「しょーがないなぁ……」
わたしはぎゅっとアクトの手を握ったまま、部屋の中に入る。
扉を閉める音が、夜の静寂を少しだけ濁す。
月明かりが差し込む部屋は、薄暗くも、どこか安心できる空気に満ちていた。
アクトは、そっとフードを脱いだ。
その瞬間、シュバ……と、時が遅れたように、長い髪は揺れる。
その長さは腰まであって、邪魔になるのか、低めにひとつに結んでいる。
明るい灰黄色の髪は、見たことないくらいに綺麗で、イロハの次に入ると思う。
その動きは自然で、まるでここが日常であるかのように、穏やかだった。
「さぁ、座って」
アクトは布団の端に腰を下ろす。わたしもそっと隣に座る。
いつもの心の喪失が、少しずつ解けていくのを感じる。
「……なんだか、あなたは変だね。」
小さな声で呟くと、アクトはそっとわたしの肩に手を置いた。
「どこが?これが普通じゃないかい?むしろ、君の周りにいる人達がおかしいんだよ。」
その言葉に、わたしは小さく頷く。
手に握る髪飾りが、温かさと安心感をさらに増幅させる。
アクトの隣にいるだけで、世界のざわめきが遠くに感じられた。
少しして、アクトは微かに笑いながら言う。
「さぁ、目を閉じて。今日はもう、何も考えなくていい」
わたしは、布団に頭を沈め、目を閉じる。
隣で静かに呼吸するアクトの存在が、まるで鎮めるように、心の奥の緊張を溶かしていく。
「……おやすみ、フユリ」
その声に、わたしも小さく答える。
「おやすみ、アクト……」
夜の静寂の中、ふたりの呼吸だけがかすかに響く。
布団に沈むわたしの耳に、アクトの落ち着いた呼吸が、心の奥にゆっくり浸透していく。
恐怖も不安も、ここではまだ遠くにある。
そして、わたしは、初めて誰かに守られて眠れることを、静かに噛み締めた。
手の中の髪飾りは、月明かりに淡く照らされ、少しだけ温かく感じる。
その夜から、わたしの毎日は少しずつ変わった。
毎晩、秘密でアクトは、人の目を盗んでは、わたしの部屋に来るようになった。
毎回、同じ静かな足音、同じ温かい微笑み。
最初はただ怖さを紛らわせるための存在だったはずなのに、いつの間にか、わたしの心の拠り所になっていた。
特に特別な話はしない。
「今日はどうだった?」
「好きな物は?」
「将来はどうしたい?」
そんな、他愛もない会話を繰り返すだけなのに、何故か昔のようで、毎晩この時間が楽しみでならなかった。
胸の奥に小さな安心と、淡い期待が広がっていく。
「今日一日はどうだった?」
「実験が苦しかった。まるで脳を思いっきり掴まれたみたいな感覚で、みんなの視線が怖かった……どうしてみんな冷たいの?」
アクトは、尋ねれば大体のことは答えてくれる。
私が今いる場所のこと、観測者という者の存在。色々だ。
「それはね、君の優しさをまだ理解してないからだよ。君がどれだけ苦しんでいるのか、あいつらはわかってない。 」
アクトは、話していてわかったけど、わたしが今いる場所、つまり観測機関の一員らしい。でもこの組織のことは嫌いらしい。
「……フユリは自由になったら何をしてみたい?」
その時、アクトは突然そう尋ねてきた。
何をしてみたい……思考を巡らせる。したいことなら沢山ある。イロハにもう一回会って、遊んで笑い合いたい。
でも、それもいいけど。
「わたしは、イロハと、アクトと、三人で一緒に会いたいな。沢山話して、何があったかとか、夜が明けるまで話したい。」
その瞬間、アクトはわずかに目を見開いた。
驚きと、それを隠しきれないほどの温かさが瞳に揺れて、すぐに優しい笑みへと変わる。
「……きっとできるよ。僕も会いたいなぁ、そのイロハって子に。」
「面白いんだよ?でもちょっと無理したりすることもあって、余裕そうに見えてギリギリだったりするの。」
アクトはくすりと笑い、まるでその姿を思い浮かべるように視線を遠くへ向けた。
「君がそこまで言うなら、きっと本当に大切な子なんだろうね。」
その後も、毎日欠かさず会った。春も夏も秋も冬も、ずっとだ。
アクトだけだった。この狭いひとつの空間で、ただ一人希望を与える存在。
でも、ある時、わたしは違和感に気づいた。
アクトと出会って何十年も経った頃だった。
わたしは、種族が妖精なのもあって、人間に比べ長寿。見た目は幼いけど、人間の大人より年上なんてこともよくある。
何十年経っても、わたしはこの狭い檻から、出ることは赦されていなかった。
時々、この組織の長が変わったり、時の流れを感じることも増えていった。
ただ過ぎて行く毎日の中で、いつかアクトは消えるのではないか、という不安も、一時期持っていた。
でも、おかしい。
アクトが、何年経っても見た目が変わらないのだ。
あの夜に初めて出会ったときと、髪の色も、声の響きも、何ひとつ違わない。
普通ならもうお年寄りになっているはずなのに。
わたしだけが、檻の中で時間に取り残されていると思っていた。
けれど――もしかすると、アクトもまた、時間から外れてしまっているのではないか。
「……ねぇ、アクト」
「ん?なに?」
問いかける声は小さく震えていた。怖さというより、確かめたい気持ちの方が強かった。
「アクトは、変わらないね。何年も経ってるのに。ずっとその若い姿のままだよね。あなたが妖精なら分かるけど、あなた人間でしょ?」
アクトはしばし黙し、両眼を閉じて、ゆっくり開けた。
「気づいたか……」
するとふらっと立ち上がり、自虐的に語り始める。
「いやぁ、おかしいよねぇ」
口元には笑みを浮かべていたけれど、その声音には乾いたひびが混じっていた。
「僕は、人を助けただけなんだ。……それだけだったはずなんだよ」
肩をすくめる仕草は軽いのに、目だけがどこか遠くを見つめている。
「でも組織からしたら“裏切り”なんだってさ。……正しいと思ったことをしたのに、気づけば罰を受ける側になっててね」
「……罰って?」
絞り出すように問うと、アクトはうーん、と唸ったあと、明るい声で答えた。
「あー、あれだ。不老不死ってやつさ」
笑ってみせたが、その目には影が宿っていた。
「死ねないんだ。どんなに願っても、終わりが来ない。ずっと組織の狛犬として、縛られ続けて、大きな致命傷でも負わない限り死なない。」
言葉は軽いのに、吐き出す息はどこまでも重かった。
「……名前も奪われたよ。今は“アクト”っていう、都合のいいコードネームしか名乗れないんだ」
声は笑っていたのに、その奥には確かな痛みが滲んでいた。
「永遠に死ねず、名前すら赦されない。
……僕はもう、“僕”じゃない。 ――ただの“演者”だ。」
わたしは喉の奥がカラカラに乾いているの感じながら、問いかけた。
「……アクトは、誰を助けたの?」
そう尋ねると、珍しくアクトは、首を振った。
「言えない。言ったら最後、フユリが悲しむからね。」
「じゃあ……本当の名前は?」
アクトはしばらく沈黙したまま、目を細めて天井を見上げた。
「……フユリには、まだ早いんだよ。本当に知ったら、君まで重くなる」
わたしは小さく頷き、アクトの手をぎゅっと握った。
それでも胸の奥はざわつき、少しだけ痛む。
「でもこれだけは言っておこうかな。」
すると、アクトの瞳に、優しさが宿る。瞳の中の星の輝きが、私をも照らす
「君の友達、イロハは、君の事を忘れてないよ。君が地獄を見たあの日の記憶を、一部覚えてないだけ。」
その言葉に、電撃が走った。
イロハは、わたしを、忘れてない?
ずっとここにいる時から、イロハは生きているのか、わたしを忘れてしまったのか。気になって仕方なかった。でも、アクトにもそれは聞けなかった。もし本当に忘れてるとわかった時、耐えれそうになかったから。
でも、イロハは。
わたしを覚えてる……。
「ほんとに?」
「うん。ほんと。」
その時、わたしの目から熱い涙が出てくる。それは頬を伝って、やがてぽつりと落ちていく。
「……よかった。もし、わたしを忘れてたら、どうしようって。思って……」
アクトは、隣で頷きながら、ただ笑ってくれていた。
「……いつか教えてほしいなぁ、アクトのことも。」
アクトはかすかに笑った。
「その時まで、僕はここにいる。それだけは約束しよう」
わたしも微かに笑い、そっと手を握り返す。
「……うん、絶対だよ?」
「もちろん。」
ずっと、その後もわたしたちの時間は変わらず流れていった。
春の花が咲き、夏の蝉が鳴き、秋の風が葉を揺らし、冬の雪が静かに舞い落ちる。
そのすべての季節を、アクトは同じ姿で、わたしの隣にいてくれた。
月日が立って、実験にも慣れていくわたし。
でも、観測者の力は得られなかった。
夜になると、いつもの足音が廊下を静かに響き、ドアの前に立つ影。
そして、わたしの手を握り、布団の端に腰を下ろす。
毎晩のやり取りは、どれも当たり前のようで、でも一日の終わりに欠かせない儀式のようだった。
「今日はどうだった?」
「眠れるかな?」
「小さい頃はどんな子だったか。」
わたしの小さな声に、アクトは必ず答えてくれた。
時には冗談めかして笑い、時には真剣な顔で、過去や未来のことを少しずつ教えてくれた。
それからも何十年、いや、何百年にも思えるくらいの時間が経った。
わたしの年齢はゆっくりと積み重なっていったが、アクトは変わらず、あの夜と同じ姿のまま。
不思議なことに、年月の感覚さえも、二人で過ごす夜の中では薄れていく。
ある夜、わたしはそっとアクトの手を握りながら言った。
「ねぇ……いつまで、こうやって一緒にいられるのかな」
アクトは微笑み、わたしの髪に手を添えながら答えた。
「君が望む限り、ずっとだよ。僕は君を守る。それが僕の役目だからね」
その言葉に、わたしは胸がじんわり温かくなるのを感じた。
長く続く夜の中で、未来のことも、過去のことも忘れて、ただ今この瞬間を大切にする。
二人だけの静かな日常は、時間の制約を超えて、ゆっくりと紡がれていった。
でも、幸せは、ついに壊れる時が来た。
ある日、わたしたちの平穏を揺るがす事件が起きた。
観測機関の長が、なぜか制御を失った他の試作体――実験体の子によって、惨殺されてしまったのだ。
その知らせは、静かに広まった。恐怖と悲しみが、部屋の空気を凍らせる。
わたしたちは、目の前の現実が信じられず、ただ立ち尽くすしかなかった。
「……そんなことが、できるの?」
震える声に、アクトも言葉を失う。
「いや、こんなの何年も生きてきたけど、今回が初めてだよ……。」
そして、その試作体の子は、もっと不思議なことに、この組織の長になってしまった。
アクトの肩は少し震え、わたしの胸も締め付けられる。これから何が起きるのか、まだ誰も知らなかった。
そして事は、その子が長になった直後から、歪み始めた。
ある日、急にその長から、呼び出された。
大きな扉をノックして、カチャリと開けると、
大きな机に座る、ちょっと行儀の悪い女の子が、そこにいた。
「……失礼します。」
「あ、きた?」
その子は黒いスカートをゆらゆらと揺らしながら、ステップを踏むように歩く。長い黒い三つ編み、長いまつ毛と二重、そして、全てを怯えさせるような真っ赤な瞳を兼ね備えていた。
「えっと……?」
どうすればいいのか分からず、オドオドしていると。
「私はリアス。この組織の新たな長。さっそくだけど、ちょっと仕事、お願いできない?」
「……仕事?」
そう問い返すと、リアスと名乗る女の子は、くすくす笑った。
「そう、あなた達は道具。逆に今まで、なんで任務に行かせたりしなかったのか気になるわ。」
彼女は三つ編みをもしゃもしゃと触りながら、さらに続けた。
「それで……あなたには封印の監視をしてもらおうかな……って思ってね。」
「封印の監視?」
「そう、あなたが昔住んでた森に、昔、虚霊が現れたでしょ?その虚霊達は、今、森で封印してるの。いざとなった時に戦力になるから。……でも、最近監視係も死んじゃったから、代わりに君にお願いしたくて。大丈夫、見るだけでいいの。何かあったらこっちに報告して。」
わたしは思わず声を震わせた。
胸の奥がざわつく。封印……あの森にまだ虚霊が?
それに、わたし一人で……?
その瞳は、どこまでも血の匂いに満ちていて、あまりに不気味で、断ることなどできるはず無かった。
いや、ことわれる状況だとしても、わたしはこの任務を受け入れる。
なぜなら、会いたい人がいるから。
「はい、わかりました。」
しかし。
当然、それを赦してくれない人はいた。
「そんな! 危険すぎる! 君を一度殺しかけた虚霊を見張れだって? 頭イカれてるのかあいつは!」
夜の静寂に、アクトの怒声が響く。いつもの口調より砕けて、荒く、声も大きい。
「ちょっと……そんなに大きい声出したらバレちゃうよ」
わたしは慌てて制止する。けれど、アクトの目には、それでも怒りが収まらない様子が見えた。
「まさか、その仕事しようとは言わないよね?」
いつもより震えて、何かをこらえるように尋ねる声に、わたしは答えられなかった。
「……ねぇ、そんな、そんな仕事受けたら、今度こそフユリは!」
「うん、そうだね」
わたしは一度、アクトの言葉を遮って笑ってみせた。
「……死ぬね。封印維持に耐えられなくて死ぬ。そんなの分かりきってる。でも、会いたい人がいるの。そこに行ったら、また会えるかもしれないの。」
わたしは手を、アクトの頬に近づけて撫でた。
意外と柔らかくて、触り心地がいい。
「これはね、わたしの意思だよ。だから止められる筋合いもない」
その言葉が気に障ったのか、アクトは目を見開き、私の手首をぎゅっと掴んだ。力が強くて、痛みが走る。
「う……っ!」
「なんで?」
アクトはいつもより低い声と暗い表情で、そう尋ねる。優しい手の温もりはどこへやら、今の手は力強く、締め付ける圧力の中に不安と怒りが混じっていた。微かに震える呼吸が、焦りを隠せない。
「どうして、いこうとするんだ」
声は低く、少し震えていた。瞳は怒りと不安で揺れ、言葉の裏に、もしものことを恐れる気持ちが滲んでいる。
「どうして、って……ん、うわ!」
アクトはずんずんと顔を近づけてくる。あまりにも近くなりすぎて、わたしは布団に押し倒された。胸に伝わる鼓動が、急に速くなる。
その瞬間、はっと何かに気づいたのか、アクトは息を止め、すぐに離れた。瞳の奥には、怒りや悲しみ、そして――自分でも制御できない恐怖が影のように揺れていた。握った手首の力は残り、呼吸はまだ少し乱れている。
「……アクト?」
「ごめん、おれちょっと、今日は帰る。」
「……え?待って!」
その声も届かず、アクトは逃げるように、そそくさと部屋の扉を開け、勢いよく閉めた。
「……おれって、いつもアクトは、僕って言ってるのに。」
今日は、久しぶりに、寂しい夜になってしまった。
その日以降、アクトは顔を見せなくなった。
きっとあの夜、必死にわたしを止めようとしていたのだろう。
けれど、その想いを、わたしは受け取れなかった。
あの時のわたしには、「任務に行く」以外の選択肢が見えていなかったから。
わたしには、任務に行かなくてはならない、どうしても譲れない理由がある。
でも——。
“どうして、いこうとするんだ”
あの時の手首を締め付ける力と、布団の擦れる音、震える瞳を思い出すと、胸が痛む。
あの言葉の重みを知ってしまうと、どうしても後ろめたい。
——あんなアクトは、見たくなかった。
「なら、どうすればいいって言うの。」
わたしは布団の上で体育座りをして、顔をうずくませた。
頭の奥が、ほわんと、ぼやけるような。それでいて、今にも張り裂けそうな感覚。
この感覚に、どのような名前をつけようか。
後悔か、恐怖か、それとも——。
そしてあっという間に、任務前夜になってしまった。アクトは姿をまだ現さない。ここ数日は、実験の部屋にも行っていないようで、仕事放棄をしている。
窓の向こうにある星は輝き、まるでアクトの瞳の中そのもの。
部屋には少しだけ、アクトの残り香が漂う。
ずっと毎日、来てくれている影響か、部屋に染み付いている。
でも、肝心の本人がいない。
その夜更け、眠れずに天井を見つめていると――。
扉から、コンコンコン、と三回ノックする音が聞こえた。
「……入っていい?」
かすかな声が、扉の向こうから聞こえた。
心臓が跳ねる。聞き慣れた声。忘れられるわけがない。
「……アクト」
扉が静かに開き、暗い影を持ってアクトが姿を現す。
しばらく顔を見せなかったせいか、その影は少しだけ痩せて見えた。
「……来てくれたんだ」
わたしが言うと、アクトは視線を逸らし、小さく頷いた。
沈黙が落ちる。長い沈黙だった。
やがて、アクトは深く息を吐き、決意を宿した目でわたしを見る。
「……フユリ。明日、君が行く前に、ひとつだけ伝えておきたいことがある」
「え……?」
アクトはほんの少しだけ笑ってから、口を開いた。
「でも、今から言うことは、僕とフユリ以外には秘密だ。わかった?」
何を言い出すのかと思えば、予想の斜め上の言葉で驚いた。てっきり、任務に行くのを止めようとしていたのかと。
わたしは、小さく二回、うんうんと頷いた。手を握って、何を言うのかと心待ちにする。
「僕の本当の名前は――」
そこで言葉は途切れる。
声は確かに聞こえたのに、不思議とその響きは、わたしの胸にだけ残り、世界には届かなかった。
わたしの目が大きく見開かれる。
その名を、誰よりも早く知ったのは、この世界でわたしだけだった。
「……なんで今、それを?」
震える声で問い返すと、アクトは少しだけ寂しげに微笑んだ。
「約束したのは覚えてないのか?言ったろう、いつか教える、って。」
その笑みはあまりに優しく、けれど儚く、今にも消えてしまいそうで。
部屋の空気が止まったように静まり、わたしの心臓だけが大きく打ち鳴った。
わたしは思わず、黙り込んでしまった。
「なに?……そんな変な名前だった?」
小さくゆっくり近づいてくるアクト。床に響く足音も、息づかいも、全てがわたしの胸に直接届く。
違う、変とかじゃなくて。
なんだろう、この感覚。ぽっかり穴が空いたような、虚無感。
これは一体?
わたしは、訳の分からないまま、アクトのその問いに答えた。
「うん……女の子っぽい名前だね。」
するとアクトは、あんぐり口を開け、眉を波のように、うねらせた。
「ちょっと……昔っから女に間違えられるの嫌いなのに。酷いなぁ」
「髪が長いからじゃないの?切れば? 」
「めんどくさい」
アクトはすぐに顔を背け、手をポケットに突っ込む。けれど、その背中からも、なにかしらの不安や気遣いが伝わってくる。
わたしは小さく息を吐き、布団に手をつく。胸の奥がざわざわと騒ぐ。
「……アクト」
わたしが呼びかけても、アクトはまだ振り向かない。きっと、自分の不安や迷いを隠しているのだろう。
でも、わたしにはわかる。あの人は……心配してくれているんだ。
深く息を吸い込み、わたしも覚悟を決める。
明日、この森に向かう。任務は危険だけど、逃げるわけにはいかない。
「わたし、行くよ……」
その言葉を口にした瞬間、アクトの肩が少しだけ震えた気がした。
そして、やっとわたしを見つめる。青い瞳の奥に、怒りや悲しみ、でもそれ以上に――信頼が滲んでいた。
「……うん。いくんだね、フユリ」
声は低く、少し震えている。それでも力強く、まっすぐにわたしの胸に届く。
その視線に押され、わたしは布団に深く腰を落としたまま、うなずく。
夜は深まり、星が窓の外で静かに瞬く。
外の静けさとは裏腹に、わたしの胸の中は鼓動が激しく打ち、未来への緊張と覚悟が渦巻いていた。
「……大丈夫、死なないよ。わたし。」
小さく自分に言い聞かせる。
それは、誰に聞かせるためでもない、わたし自身のための決意だった。
アクトは黙ってうなずき、やがてわたしに近づいて、わたしの手をそっと握る。
その手の温もりが、明日への勇気を少しだけ支えてくれる。
深い夜の静寂の中で、わたしは眠らずにその温もりを胸に、任務の朝を待った。
朝が来て、わたしは森へ向かった。木々の間を抜け、かつての記憶が残る場所に足を踏み入れる──だが、そこはもう昔の森ではなかった。倒れた樹、枯れた草、鳥の声さえ消えた世界。瘦せた桜木だけが、まだ立っている。花はなく、空気は重い。
虚霊たちは桜木の中に閉じ込められているらしく、私はただそれを見張るだけでいい。封印の檻で蠢く影が視界の端を横切るたび、胸がぎゅっとなる。それでも私は立ち続ける。会いたい——それだけを理由に。
年月は容赦なく過ぎ、身体に異変が現れた。手先の痺れ、息の重さ、指先に広がる黒い斑。けれど動かない。あの人が現れるその一瞬を、信じている。
そして、三百年か、それ以上が過ぎたある日。枝が擦れる不揃いな足音、二つ分の気配が近づく。姿を見た瞬間、わたしの目は開いた。遠い時から信じていた人が、確かにそこにいた。白銀の髪、白い羽織、桃色の上衣、紺のスカート。腰には剣。
——イロハ。
身体が震え、声が出ない。胸の中で何かが抜け落ちると同時に、温かさが満ちてくる。やっと会えた、ああ、やっと——でもどうしても零れてしまう言葉があった。
「遅かったよ……もっと早く来てくれれば、まだ一緒に——」
その言葉はそこで切れる。イロハの瞳が静かに私を受け止めた。
わたしは、自分の状況を隠すために、ほんの少しだけ嘘をつくことにした。最後の優しい嘘だ。嘘は相手を守るためにあるのだと、そう信じたい。
「イロハ……?」
彼女の表情が、ふっと柔らいだ。わたしはためらわず、最初で最後の再会に胸ごと飛び込んで行った。
本がゆっくりと最後のページを閉じる音がした。書架の空気が、一斉に氷のように冷たくなる。
私は、レンと一緒に、しばらく余韻に浸るように黙っていた。
レンは動かず、掌でページの端をぎゅっと握りしめている。頭の中で先ほど読んだ文字や映像が、何度も繰り返されて止まらない。燃える森、倒れた私、そして出会った“アクト”という存在。血のように赤い瞳のリアス、封印に縛られた日々、そして最後の優しい嘘。
再会した時の違和感が、ようやくはっきりした気がした。フユリは――。
私は本を抱え、ゆっくりと呼吸を整える。普段は感じない筋肉の震えが走る。ページに映った光景が、頭の中を切り裂くようだ。
「イロハ……それ、本当に……」
レンの声はかすれていた。問いは助詞だけで真実を求めている。私は目を伏せ、ゆっくりと顔を上げた。
「見ましたね。フユリのこと、全部。」
胸の奥で燃える感覚を押さえつけながら、そう答えた。手に力を込め、呟く。
「私も知っていたつもりだった。でも、ここまで……彼女の痛みを、長年の呪縛を、現実として見ると、ただ……言葉が出ない」
レンも拳を握りしめ、表情は暗く、それでいて燃えている。瞳は快晴の空ではなく、差し迫った雲のようだ。
「どうして、こんなことが……俺たちに、どうして……」
私は黙ってレンの肩に手を置く。触れられた暖かさで、まだ目の前のこの人は確かに存在してくれていると感じる。
「理由は——彼らがそうしたから、です。説明はできる。でも、赦せる理由にはならない」
短く言って、本棚に背を向ける。声が強ばる。
「I.C.O.は、何をしたいのでしょう。何のために実験して、どうしてアクトという者に刑罰を与え、リアスは何百年経っても子どもの姿なのでしょう」
レンが低く唸る。顔に影を落とし、ただ佇む。今は沈黙が似合う時間だと分かっている。
「私がやったことも、正当化にはならない」
私は言葉を選び、続ける。
「フユリを斬ったのは、彼女の望みだった。だとしても、彼女をそこに追いやったのは私たちじゃない。けれど、私もまた……責任を免れはしない」
レンは息を吸い、力なく笑ったような顔で震える声を出す。
「責任なんか、あいつらに全部持たせればいい。けど、それでフユリさんは戻らない。みんなは帰ってこない」
私は剣に手を掛け、声に出す。
「だから、行動する。私たちが黙っているべきではない。I.C.O.のやり方を、変えるか壊すか──少なくとも、同じことを繰り返させないために動く」
レンはしばらく黙っていたが、やがて拳を開き、私の手を強く握った。
「……ああ。分かった。俺もやる。できるだけ、やる」
その眼差しは以前より鋭く、痛みを抱えたまま前を向いていた。
過去の痛みを胸に刻み、私たちは静かに動き出す。復讐でも救済でもない。失われたものへの責務と、二度と同じ傷を誰にも負わせないという誓いのために。
「それで、レン……」
私はぽつりと声を出す。レンは優しく「ん?」と小さく首を傾げる。
「あの、私。少しだけ、思い出しました。失った記憶のこと」
レンは目を大きく見開き、両手で私の肩を掴む。
「ほんとに!?」
自分のことのように声を上げるレンを見て、少し答えにくくなりながら、続ける。
「いや、本当に少しだけです。しかも途切れ途切れの」
「それでも!すごいと思う!」
あまりに真っ直ぐな言葉に、私は胸が熱くなる。
「……でも、何を思い出したの?」
私は霞がかった頭で整理しながら、言葉に変換する。
「……森で、フユリを助けようと手を伸ばしていたの。でも、届かなくて……その後は――」
そこで言葉を切る。思い出そうとするほど、記憶は遠くに逃げていくようで、もどかしかった。
「イロハ、そんな無理やり思い出そうとしなくていい。心に負担がかかる。とりあえず、そこまで思い出せただけでも大きな進歩だよ」
レンは私の肩をぽんぽんと叩き、くしゃっと笑った。
「イロハも頑張ってる。なら俺も、たまには役に立たないと。」
肩から手を離して、笑顔は崩さないままでそう言うレン。でも、彼は私の心を照らすという、大きな事で私を助けてくれている。
「……何をするつもり?」
「んー? 知らないことは、知ってる人に聞くのが一番だろ? 俺は知ってる人を知ってる。なんてったって、“あいつ”はこの組織の一員だって名乗ってたから」
その言葉ですぐ気づいた。レンの友達、“タヨ”と呼ぶ、組織の一員と名乗る男の子。いつか私にお願いしてきた、少し怪しげな子だ。
その子に、聞こうというのか。
「そんな、本人に聞いて答えるかも分かりませんし、むしろ命が――」
「大丈夫だよ」
レンは私の言葉を聞こうともせず、背を向けて歩き出す。上着のポケットに手を突っ込んで。
「それに、知りたいんだよ。あいつが善なのか、悪なのか」
それだけ言うと、レンは書架を後にして遠くへ行ってしまう。私は急いで走り、背を追った。
「まって。危険すぎる」
「ううん、多少危険でもやらないと。そうでしょ?」
「なら私も――」
「命狙われてるのに? そんな状況で?」
一瞬、言葉を返せなかった。喉に蓋が閉められたように。
でもすぐにその蓋を取り外して、強ばりながら言った。
「自分の命は自分が守ります。だから――」
「お願い」
いつもより一際息まじりの、静かな声。小さいのに、私の心に大きく届く。静謐さが漂うその声。
「これは俺個人の問題なんだ。だから一人で行かせてくれ」
「……」
私は、レンの背中を見つめたまま立ち尽くす。胸の奥がざわつき、言葉が出ない。手のひらの震えを感じながらも、彼の意思は揺るがないことを知っている。
「……分かった」
小さく呟くだけで、言葉にならない覚悟を伝える。私は剣の柄に手をかけ、深く息を吸った。
「……気をつけて」
それだけが、私にできる精一杯の言葉だった。
レンは振り返らずに歩き出す。書架の隙間を抜け、廊下を進む足音が少しずつ遠ざかっていく。私の胸にぽっかり穴が空いたような感覚。だけど、後悔はない。彼が自ら選んだ道なのだから。
一歩、また一歩。私は剣を握りしめ、静かに決意を胸に刻む。失われたものへの責任、そして二度と同じ傷を誰にも負わせない誓い。
「……行こう、私も」
心の奥で、誰かに背中を押されるように、私は動き出す。レンの足跡を追いかけるわけではない。私自身の道を、今、自分の意志で歩き始めるために。
書架の隙間を抜ける風が、私の髪をかすかに揺らす。遠くで、レンの声が小さく反響するように聞こえた気がした。
それを合図に、私は歩幅を広げ、前に進む。もう、迷わない。誰も守れなかった過去に縛られたままでは、未来は切り開けない。
「……さあ」
静かに、でも確かな足取りで、私は自分の意志を信じて、前へ。
第十一の月夜「ひび割れた時間」に続く。