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この物語はキャラクターの死や心の揺れを含む描写があります。読む際はご自身の心の状態にご配慮ください。
 
電車の窓に映る自分の顔は、外の夕日の温かさとは無関係の、 死んだ猫のようだった。
目の奥に光はなく、疲れ切った線だけが残っている。
 スマホの画面は、さっきから同じページのまま。
指先はスクロールもタップもせず、ただ黒い画面に沈む文字が浮かんでいる。
 ――フユリさん。アクト。リアス。実験。
過去は知った。でも、それで何をすればいいのかは、まだ分からない。
しかも、俺が見たのはきっと組織のほんの一部の情報にすぎない。
まだ分からないことだらけだ。
 たとえば――リアスはなぜ、幼い姿のままなのか。
フユリさんに任務を与え、彼女は三百年近くあの森にいた。それは分かった。
でも三百年経っているというのに、リアスは子供のまま。
何かの能力か、それとも別の理由か。
 それに、アクトという男が“刑罰”を与えられた理由も気になる。
人を助けただけ――誰を助けた?
なぜ“生き続ける”なんて、他の人間なら喜びそうな罰を課されている?
 しかも、本名は不明。
いや、正確には本名はフユリさんの見た記憶の中で語られたはずだ。
なのに、俺たちにはその時の声だけ伏せられていた。
 確かなヒントがあるとすれば、“女の子みたいな名前”――それだけ。
 アクトは一体何年生きていて、今も存在しているのか。
今もいるのなら、会ってみたい。
 ……いや、それより。
 これはただ俺個人の問題だが、俺の友達――露草タヨリはI.C.O.の一員だ。
つまり、実験や、俺の父さんとミヨが死んだ理由も知っているわけだ。
 彼は人の命を踏みにじることができる奴なのか、それともアクトのように優しい人間なのか。
できれば後者であって欲しい。
 知りたいなら、本人に聞くのが一番。
 そう思って、イロハの心配も押し切って、”聞く”と言ったのに。
 なのに、この俺という人間は、いざと言う時ほど、なにもできないまま。
 もし、本当に最低な考えを持つ人だったら?
その時はどうすればいいのか?
 「……はぁ。」
 食道の奥が締め付けられているよう。それくらい頭の中はおかしくて、矛盾している。
 聞くと言ったのは俺なくせに。
どうして聞けないのか。
 手に持った液晶一つで、連絡できるというのに、
指先は動かず、ただ震えるだけだった。
 視線を窓から外したその瞬間、車内の反対側に見覚えのある横顔があった。
 真っ白な半袖の制服に、蜂蜜色の髪色に、前髪を二つに分けている。センター分けと言われる髪型。
肩に掛けてぶら下げたカバン。普通の学生の装いをした奴が、今、目の前にいる。
 露草タヨリ――。
 息が一瞬止まった。
会いたいと思っていた本人が、まるで俺の心を見透かすように、同じ車両に立っていた。
 「……は?」
 いやいやいや、都合よすぎるだろ!
こんなのアニメでしかない!本当に有り得るのか?こんなことが!
 タヨリはこちらに気づいていないのか、窓の外をぼんやり眺めていた。
車輪の音と吊革の揺れる音だけが車内に響く。
心臓が嫌な音を立てる。
 ――今、声をかけるならここしかない。
 そう思いながら、俺は唾を飲み込んだ。
 あぁ、今ここで声をかけるのは嫌すぎる。
 なぜなら。
 「ずっとレンがいること気づいてたけど、レンいつ気づくか見てたんだ!気づいてくれてうれしー俺のこと好きかよ」
 ――絶対こう言うに決まってる。俺の勘が告げている。
 「あぁ、どうする……」
 一人そう呟いていると、俺の斜め前に居る女性は、俺を冷たい視線で見ていた。俺を変なやつ、扱いする目で。
 「……」
 悩んでる場合じゃないことは分かっている。なら、さっさと声をかければいい。
 俺は喉のつっかえを誤魔化すように唾を飲み込み、揺れる車内に耐えながら、足を一歩踏み出した。
 伸ばした手は、震えていた。
 すると。
 「ん?」
 首を傾げて、俺を眺める男――タヨは、数秒間、じっと俺を見つめていた。
 目を見開き、口をもごもごと動かす。
その反応は、俺の予想をはるかに超えていた。
 「え、あ……レン?」
 ――心臓が止まるかと思った。
手の震えも、息の詰まりも、全部こいつの視線のせいだ。
 「タヨ……」
思わず声に出してしまった。でも、この声にもまだ、ぎこちなさが残る。
 タヨは、いつもと違う雰囲気を漂わせていた。
普段ならお調子者で、めんどくさい一言を放つタイプ。
でも今は……瞳に光るものがあった。
 すぅ……と、頬に透明な水が流れる。
それが、涙だと気づいたのは、声をかけてから少し経ってからだった。
 「え?なんで……?」
 「ま、まって……なんで……」
 電車が駅に滑り込む音で、俺の心臓の鼓動はさらに早まった。
タヨリは少し俯き、涙を拭こうとしている。
 「……なんで、泣いてるんだよ?」
言葉を選びながら、俺は声をかけた。
 タヨリは一瞬固まったが、やがてゆっくり顔を上げた。
その目は、いたずらっ子の輝きではなく、どこか痛みを帯びている。
 「だって、もう知ってるんでしょ?レンは」
 「……なにを?」
 「俺のいる組織が、レンの家族を壊したこと……」
 言葉が少し震えていた。
 そして、ぎこちなく口角をあげると――一瞬だけ、いつものイラつきを覚える顔に戻った。
 「ああ、ごめん。予想するに、レンは知りたくて声をかけたんでしょ?俺が善か、悪かを。」
 でも、その瞳の奥には、まだ消えない痛みと迷いがあった。
普段のタヨなら、ここで冗談を言うはずなのに。
 「お前、……なんで分かるんだ。」
 「んー、レンは単純すぎて、何考えてるかすぐわかるんだよね。」
 頭を掻きむしりながらそう言うタヨリの顔は、わざとらしい笑みを作っているけれど、瞳の奥には消えない痛みが見え隠れしていた。
 「それよりなんで、こんな時間に電車乗ってるの?イロハさんと出歩かないの?」
 「……あのなぁ。」
 頭がチクチクと針で刺されるような熱さを感じたが、あえてそれを吐き出さず、俺は目を細めた。
 「俺だって一応学生だ。普段は通信制高校だから、月に二回だけ学校に行く。それで今日は学校に行く日だったってだけ。」
 「つうしん、かぁ……楽しそうだね。」
 「ぜーんぜん。」
 そこまで会話を続けたあと、車内のアナウンスが、静かに止まることを告知した。
 「お出口は、右側です。」
 「あ、降りないと。」
 「そうだねぇ、せっかくだし、近くのカフェ行こ。話したいことあるんでしょ?」
 「最初からそのつもり。」
 そう言ってみせると、タヨは肩を竦めて、諦念のような笑みを浮かべた。そして、ため息をついて俺の手を引っ張った。
 同時に電車の扉は開き、タヨは力強く俺の腕を引き続ける。
外の空気が少し湿っていて、駅のざわめきが遠くに感じられた。
小さな心臓の高鳴りを押さえながら、俺はタヨの後ろをついていく。
 「じゃあ行こう。」
 その声に、俺は少しだけ安心した。
俺たちは足早に改札を抜け、無言のままカフェへの道のりを歩いている。歩道には数人の女子高生のグループらしき子たちが、前も見ずに歩いている。
 それに比べりゃ、俺たちは。
 なぜ今こんなに、静寂なのだろう。
いつもならくっついてきてうるさかった。
でも、中学までの話だ。さすがの高校生になれば、タヨも落ち着いたか。
でも前を歩くタヨは、心做しか、いつもより歩くのが速い気がする。
 「ねぇ」
 突然、タヨは振り向いて、歩くスピードも落とさないまま、俺に声をかけてきた。
 「なに?」
 「その腕に付けてるの、なに?」
 タヨは軽く眉を寄せ、でも歩くペースは落とさない。
ちょっと不思議そうに、でも興味深そうに俺を見ている。
 俺の左手首には、この間四月一日(わたぬき)さんに貰った鈴がついている腕輪がある。
四月一日さん曰く、”お守りのようなもの”らしいが、今まで、このお守りに守られたことはなかった。
 「ああ、貰った。」
 「イロハさんに?」
 「違う人。」
 俺は少しだけ俯き、答えを濁す。
 「ふーん」とだけ言って、また前を向く。
さっきから様子がおかしい。なんで泣いてたのかもイマイチよく分からない。
 「さっきからお前、おかしいぞ。」
 「なにが?別にいつも通りだけど?」
 「じゃあなんでさっき泣いて……」
 するとタヨは、足を止めて俺の方をゆっくりと振り向いた。
不意に風が吹き、カラカラカラ……と、葉っぱが飛んでいく音がする。
 「すぐわかるよ。」
 ふわふわとした雲のように、実体のない笑みを滲ませた後、俺の手をまた引っ張った。
その瞬間、胸の奥がキュッと締め付けられるような感覚が走る。
 言葉は出なかったが、自然と体が引き寄せられた。
 「それよりさ、ついたよ。行こ。」
 俺の問いにもまともに答えぬまま、タヨはカフェの扉に飛びついて行く。
 「あ!待てよ!……ちっ、もう。」
 俺の頭はジンジンと痛み、胸の奥の鼓動が早鐘のように響いた。
息を整えようとしても、なぜか呼吸すら重く感じる。
まるで小さな子供を相手にしているような気分になった。
俺たちはカフェの扉を押し開け、静かな店内に入った。外の喧騒とは裏腹に、ここは落ち着いた空気が漂っている。
 「いらっしゃいませ。」
 店員さんに席へと案内され、窓際の席に腰を下ろすと、タヨはゆっくりと椅子に座り、俺の方をちらりと見た。
 「よっし!レン!ここは俺の奢りだぞ!甘えな!」
 タヨは自分の胸を拳でぽんっと自慢げに叩いたあと、どこからか財布を取りだした。
 「最近給料入ったから、なんでもできる!」
 「……なんだ急なそのテンション。」
 タヨリは財布をテーブルの上に置き、メニューをぱらぱらとめくる。
 「よし、何にしようかな……レンは甘いの苦手だったっけ?」
 「別に苦手じゃないけど……あ、俺アイスコーヒーにしよ。」
俺はメニューを眺めながら答えた。
 「ふーん、じゃあ俺もそれにするか」
 「え、飲めんの?」
 「飲めるわ」
 タヨは小さく肩をすくめ、にやりと笑う。
 「ま、あんま得意じゃないけどね。でも 今日はレンと同じでいいや」
 その言葉に、少し安心したような、でもどこか照れくさい空気が混じる。
 「他、なんか欲しいのある?」
 メニュー表を指で撫でながら、俺を見つめる。
 「いいや、てか自分で払うから。」
 タヨは小さく笑いながら、店員さんに声をかけると同時に、そっと俺の手を自分の方に引っ張る。
 「だーめ、甘えなさい!」
 俺は思わず小さく息を呑む。手のひらが触れただけで、心臓がざわつく。
 「んだよ、気持ち悪い」
 さっきの涙は、一体なんだったんだろう。
 
 そして、店員さんに注文を済ませた後、短くため息をついたタヨは、机に顔をうずくませた。
 「はあぁぁ……! 」
 「え、なに急に。」
 うずくませて、声を抑えながら叫ぶタヨが、なんだか様子がおかしかった。
 顔を上げたと思えば、タヨは手首のミサンガをくるくると弄びながら、時折小さくため息をついた。
 「はぁ……で、話さないとだよね。全部。」
 小さな声だけれど、その呟きに含まれる微かな戸惑いが、俺の胸にじんわり伝わる。
 「何が知りたい?俺がなんで組織に入ったか?それとも長のこと?」
 面倒くさそうに呟くタヨ。
 「……まぁ、話す前に言っとくと、俺、レンが思ってる以上に最低な人間だよ?それでも聞く?」
 「……うん。」
 タヨは一瞬、机に突っ伏したまま呼吸を整えた。
小さな肩の震えが見える。
 「……じゃあ、話すか。全部。」
 タヨは深く息を吸い込み、机から顔を上げた。
その瞳は少し曇っていて、普段の軽い笑みはどこにもなかった。
タヨは唇を噛み、わざと笑みを作る。
 「笑えよ、レン。……俺、人殺しなんだ」
 声が落ちる。俺の視界がフワリと薄くなる。タヨの手元でミサンガがぎゅっと締まる音だけが、やたらと大きく聞こえた。
 「は……?」
 それしか出ない。冗談だと思いたくて、声が裏返る。だがタヨは笑わない。笑う代わりに、ただ目を伏せた。
 「冗談ならどれだけ楽か。けど、本当にやったんだ。手を汚した。血が、消えないんだよ」
 言葉が胸に刺さった。白くなった頭の中で、父さんとミヨの顔が一瞬だけ揺らいだ。信じたくなかった。けど、信じる方がもっと怖かった──それが、今の俺の正直な気持ちだった。
 タヨが、人殺し?
 覚悟はしていたことだった。タヨの入っている組織は、俺の父さんとミヨを殺すくらいの連中だ。
だからタヨも同類なのではないか、と。ずっと疑っていたのだ。でも、そうは言っても友達。
 だから願っていたんだ。タヨは優しい、そんなやつじゃないって。
 それも今、覆された。
 こいつは。
 あの組織と同類か?
 「なんで……殺した? 何人?」
 俺の声は、自分でも驚くほど低く、震えていた。
 タヨは苦笑いを浮かべるでもなく、目を伏せたままミサンガをきつく握りしめる。
 「……数なんて、もう覚えてない。正確には、覚えたくない。」
 「覚えたくない……? そんな!」
 思わず声を荒げる俺。胸の奥に積もっていた何かが、ひび割れる音を立てている気がした。
 タヨは視線をゆっくり俺に向けた。今まで見たことのない、深く沈んだ目だった。
 「俺がやったのは、任務だった。あの組織に入った時点で、拒めることじゃなかった。……いや、言い訳だな。結局、俺が選んだんだ。生き残るために。」
 「生き残る……ために?」
 「そうだよ。俺は、レンが思ってるような“いいやつ”じゃない。あの場所にいた俺は、弱くて、汚くて、選ばなきゃいけなかった。殺すか、殺されるか。」
 タヨは自嘲するように笑って、肘をつき頭を抑える。
 「あー、ハハッ、笑えるよね。最低すぎて笑えちゃう。自分勝手で本当に醜い。こんなの知られたくなかったのにさ。」
 タヨの言葉が、店内の空気をひゅっと吸い込むように静めた。彼の笑い声はもう皮肉でしかなく、目の奥には底知れない疲労だけが残っている。
 俺は――言葉を出そうとした。出すべき言葉が山ほどあった。でも、喉が、頭が、全部固まってしまったみたいに動かない。
 「……」
 タヨの顔を見下ろして、何かを言おうとする。口を開いた。だが、出たのは小さな息だけだった。声にするには、あまりにも重すぎる言葉ばかりだったからだ。
 「なんで……ッ」
 それだけが、やっと出た。俺の声は紙っぽく薄れて、カフェの雑音にかき消されそうになる。しかし、タヨは顔を上げて、俺をまっすぐ見た。その瞳には、震えが混じっている。
 「……レン」
 彼の呼びかけは、友達のそれだった。だけど俺の中の何かが、ぷつりと切れた。
 心臓を何度も刺すこの感情が、凍っていた身体を溶かして、血となって燃え上がる。裏返るようにして熱を持つ。何よりも、裏切られた気持ちが一気に溢れた。
 「なんで!そんなにひとりで抱え込んでるんだよ!そもそも、そんな組織入らなければいい話じゃねぇか!」
 声が、思いの外大きく出てしまう。周りの客たちが俺たちをちらりと見る。俺は気にしなかった。聞きたくなかった。今まで抱えていた静かな怒りが、爆発しただけだ。
 「入らなかったらいい……って、入らなきゃいけなかったら?」
 「入らなきゃいけなかったら…って!」
 つい声が大きくなってしまう。周りの客がこっちを見ているのも気づかない。タヨの言葉は、胸の中にくすぶっていた何かをぐっとかき回した。
 「レンはいいよ。簡単にそんなことばっか言えるんだ」
 タヨは震える声で返す。目は逸らさず、でもどこか遠くを見るよう。俺はその瞳を見て、言葉にならない何かがさらに膨らむのを感じた。
 拳を握りしめて、頭を搔く。
声が震える。言葉を続けようとしたところで、喉に詰まる。胸の奥が焼けるように痛い。
 「分かってる。分かってるよ、レン。お前がどう思うかなんて、どう思われてもいい」
 「お前が、どう思われてもいい、だと? じゃあなんで今まで隠してたんだよ。俺の前で、ずっと――平気な顔してたのはなんでだ。友達の顔して、よくそんなことができたな」
 言葉が棘になってタヨに刺さる。店内の空気が重くなる。タヨは一瞬固まり、そして俯く。手のミサンガがさらにきつく締まって見えた。
 「隠してたんじゃない。言えなかったんだ。お前の目に、自分の汚さを映したくなかったんだ」
 「だったらなおさら、言えよ! 友達ってそういうもんだろ。全部話して、ぶつかって、それで……それで!」
 感情が溢れて、声が割れる。タヨは小さく笑おうとして、笑えない顔をした。
 「レンは正義ぶってるくせに、実際は弱いんだ。自分の手で何かを殺めたことはあるか?ないよな?だからそんなことばっか言えるんだ。」
 その言葉に、血の気が引く。胸がぎゅっと締め付けられ、視界が一瞬暗くなる。タヨは本当に言ってるのか、と疑いたくなるほど冷たい。
 「ふざけんな。人の命を奪っておいて”任務だった”で片付けるのか!」
 タヨの声が震える。彼の言葉はもう昔のふざけた調子ではなく、鋭く、どこか壊れかけていた。
 「じゃあ……ッ!じゃあ、あの子はどうなわけ?あの記憶喪失のイロハさんは!救済と言って人を殺してたじゃないか!あれはどうなるの!」
 俺の声は、もう取り繕う余地のない、ただの怒号だった。店の空気が凍る。タヨはミサンガを握りしめたまま、そこには、言い訳でも弁解でもない、ただ疲れきった静けさがあった。
 「レン……」
 「お前は!人の命をなんとも思ってないんだな。」
 タヨの声が震える。俺はもう聞きたくなかった。これ以上ここに居たら壊れてしまう気がして、立ち上がった。
 「もう、大嫌いだ……ッ」
 叫んで、椅子から飛び上がって、机の上に千円札だけを叩き置く。
その動作の後、流れるように振り向いて、足早に
店の扉を押し開ける。冷たい外気が顔に刺さる。
 後ろから「レン、待って!」とタヨが叫ぶ声が届いたが、振り向かなかった。消えない矛盾や、戻らない信頼が目に入るのを、俺は恐れていた。
 ドアが閉まるチリンという音が、背中に当たる。外の歩道を走る足音、窓の向こうの雑踏でタヨの声は聞こえなかった。窓越しに見た彼の顔は、小さく、俯いていた。ただ変わらなかったのは、腕に付けたミサンガを握りしめることだけだった。
窓越しに見たレンの背中は、小さく震えていた。俺はミサンガをぎゅっと握りしめ、かすれた声で自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
 「ごめん……本当に、ごめん」
 その一言が喉に引っかかると同時に、胸の奥で閉じていた扉が音を立てて開いた。雨に濡れたあの朝、灰色の路地、冷たい血の匂い――記憶が破片となって押し寄せ、息を詰めた。過去はもう、逃げられない。
 雨が降っていた。灰色の路地に、冷たい匂いが降り注ぐ。
俺の手には、お父さんから渡された拳銃が握られている。重くて、冷たい。周りの大人たちは何事もないように言った――「男なら当たり前だ」と。逃げ道なんて、最初から用意されていなかった。
 「タヨリ、お前はいい子だ。家の誇りだよ」
 笑顔で言う声が背中を押す。拒めば失望を背負い、従わなければ裏切り者にされる。だから、俺は従うしかなかった。
 目の前の人間も震えていた。小さく声を漏らしていたかもしれない。俺は耳をふさぐように視線を外し、心を閉じた。頭の中にはただ、繰り返される言葉だけがこだまする――「いい子でいろ。誇りでいろ」。
 指先が引き金に触れる。時間が、そこだけゆっくりになるようだった。心臓が耳の中で鳴り、雨の音が小さくなる。俺は息を吐いて――押し返されるように、指を曲げた。
 ――パンッ。
 銃声が裂けると、世界は一瞬で色を失った。倒れる音、湿った土に染みる熱い匂い。幼い身体が衝撃で後ろに転げ、膝と掌が泥まみれになる感覚だけがリアルだった。心臓は破裂しそうに早く打っているのに、頭の中は異様なほど静かだった。
 俺は、人を殺した。
「いい子」であるために、俺が選んだ行為――それは、始まりでもあり、同時に何かを終わらせた瞬間でもあった。
 胸の内にぽっかり穴が開いたようで、そこに冷たい何かが溜まっていく。
後戻りはできない。だが、当時の俺にはそれが正しさに見えた。――それが、ずっと消えない影となって身体に貼りついていくことを、まだ俺は知らなかった。
 俺の家系は代々、特殊だった。
生まれた子供が男の場合は、十二歳からI.C.O.に入らなければならない。たとえ、観測者としての力がなくとも、望んでいなくとも――逃げる道なんて、最初から用意されていなかったのだ。
 そんな俺には、観測者としての能力がある。
重力操作ーー、俺の周りにあるもの全ての重力を自由自在に操れる能力。
 その能力を、俺は人殺しのために使ってしまった。
 相手の重力を操り行動不能状態に陥ったところを、撃つ。慈悲も何も無く、ただ、自分が生き残るためだ。
 月日は流れ、中学生になった俺は、制服に袖を通し、何事もなかったかのように教室に座っていた。
周りは日常の話で笑い、くだらないことで盛り上がる。俺も笑わなきゃいけなかった。共感しなきゃいけなかった。
――まるで、何も背負っていない人間のふりをするために。
 だが、その笑顔も、うわべだけの声も、胸の奥には重くのしかかる。
さらに。
 「タヨリ君ってすごいよね!勉強もできて運動もできる。普段何してるの? 」
 この手の質問は嫌いだった。
その笑顔は、まるで俺の中の闇を知らずに楽しそうに触れてくる手みたいだった。
俺の心臓に毒を注入して、演技を壊そうとしてくる――そんな感覚が、胸をざわつかせる。
 そういう質問ばかりしてくる人は、自分を見透かしている気がして、居心地が悪い。
 「……え〜?そうかな?」
 喉から押し出すように声を作る。笑ってみせる。
それだけで周りは納得したように頷き、再び何でもない話題に戻っていく。
 笑う。相槌を打つ。「ありがとう」と、感謝するするふりをする。
これだけで相手は喜ぶなんて、なんて人は単純なんだろうと、思ってしまう。
けれど、笑い声の輪の中にいても、心臓の鼓動だけが孤独に響いていた。
 みんなが楽しそうに声をあげればあげるほど、俺の耳にはどんどん遠ざかっていくようで――机に座る自分だけが、別の世界に取り残されている気がした。
 その世界で、俺だけが笑うふりをしていた。
 頭の中はいつも任務のことで満ちている。今日、誰を殺すのか。明日、誰が俺に命を絶たれるのか。表では笑っているが、裏では毎日、人を終わらせる仕事をしている。
俺はもう、道化師でいるしかなかった。
 しかし、そんな時に、転機は訪れた。
 ある日、いつものようにクラスの話題に共感して、笑っていると、こんな会話が耳に入った。
 「ねぇ、”あいつ”ってめっちゃ暗いよね」
「わかる、クラスから距離置いてるみたいな」
「あいつって、誰のこと?」
 これは演技でも何でもなく、素直な疑問だった。暗い子……そんな子、クラスにいたっけ?
 すると男子が、手で囁くような仕草をして、俺にもこそこそと伝えてきた。
 「ほら、あの窓側の席の……」
 ――”レン”。
 「……うーん。」
 こればかりは、話したことがないので、明るいのか暗いのか、判断できない。ただ、窓の空を見上げるその姿には、このクラスに染まっていない匂いがした。
 「レンで思い出した、あいつ父親いないらしいぞ」
「え?」
「確か事故でしょ?レンは事故の瞬間を目の前で見た……って、かわいそー」
 「そうなんだ……。」
 他人の父親の死を、こんなに軽率に話すのは、本人のいる空間だ、よしておいた方がいい。なのに平気で笑うこいつらは、俺よりおかしいのかもしれない。
 人の痛みを理解できていないんだ、この人たちは。
 すると、ずっと窓の向こうを眺めていたレンは、ゆっくり俺たちの方に向いた。そして目を細めて、軽蔑するように見つめる。
 最後にちぇっ、と舌を鳴らしたあと、また窓の方に視線を戻す。
 あぁ、怒っている。
でも文句は言えない。自分の嫌な記憶をこんな奴らに軽く言われて、どれだけ辛いかも理解されていないのが、きっと非常に不愉快なんだろう。
 その様子を見て、俺はなぜか胸の奥がざわつくのを感じた。――この子、ただのクラスメイトじゃない。
 きぃ……と、気づいた時には席を立っていた。
クラスメイトは「どこ行くの」と首を傾げて俺を見上げている。
口角をぎこちなく上げ、仮面を被る。
――何を話すか、全く決めていない。けれど、今ここで知らないフリをしているのは嫌だ。
 心臓が早鐘のように打ち、手のひらがじんわり湿っている。
けれど、今ここで逃げるわけにはいかない。
 「ちょっと話したいと思って。」
 他の子は「あいつと会話なんて続いた覚えもない。」と、俺が行くのを止めようとするが、別にこの位の自由はいいだろう。話す人まではさすがに決められていないのだから。
 さらりとした教室の床を踏んで、レンの席まで歩いていった。すり……すり……と足を擦るような音が聞こえる。
 「ねぇ。」
 若干強ばり気味の声に、レンはゆっくりとこっちを見てくる。
その瞳――透き通る青が、窓の外の空みたいに鮮やかで、目が離せなくなる。
 「空ばっかり見てて、飽きない?」
 俺はレンの机の前に移動し、彼の目線に合うようにしゃがんだ。腕は彼の机の上に置く。
 睨むように目を細めたあと、レンは小さく訪ねてきた。
 「何……?馬鹿にしに来ました?さっきの話聞いて。」
 「違うよ。ただ……なんか、似てるなって思って。」
少しだけ声を落として、でも真剣な眼差しを向ける。
 「似てる……?露草さんは明るくて人気者、俺とは別世界です。」
 「うーん、それはそうだよ?でも……なんか、このクラスの雰囲気に染まってないっていうか」
 レンは眉間に皺を寄せ、意味がわからないとでもいいだけな顔をうかべた。
 「……染まってるでしょう。あなたは。」
 「そう見えてんなら、良かった良かった」
 小さく笑みを浮かべ、肩の力を少し抜いた。
 「というか!”露草さん”なんて、まるで距離があるみたいじゃない?タヨって呼んでよ。タヨリって呼ばれるのは嫌いだからさ。」
 「……タ、ヨ」
 レンは小さく声を漏らす。眉間の皺が少しゆるみ、瞳の奥にわずかな驚きが光る。
 「”篠原”くんのこと、なんて呼べばいい?」
 レンの事を名字呼び君付けにして尋ねた。
すると、ぽかん、と目を丸くして、その後じとっと目を伏せた。
 「……違う」
 「え?」
 「名字、違ぇよ……。」
 口を半開きにして、思わず首をかしげる。レンの反応に、ちょっとくすぐったい気分になる。
 「あああ!ごめんね”篠崎”くん!」
 わざと大袈裟に声を出して、焦っているふりをする。まぁでも、名字を忘れているのは嘘じゃない。
 「違う、篠までは合ってる。」
 「篠川!」
 「遠くなった。」
 「嘘!?」
 思わず俺は笑みをこぼす。レンの眉がぴくりと動いたのが見える。
 「俺は篠塚レンだ。惜しかったね。」
 レンの瞳がちらりと笑った気がして、 くすっと笑みを返す。
 「俺ほぼ正解してたじゃん。」
 俺の胸が、ちょっとだけ高鳴ったのを感じた。
すると。
 「……ふっ……ははっ。」
 「?」
 レンは笑い声を小さく漏らし始めた。口を手で抑え、目は閉じられ、その形は数学で出てきた弧に似ている。
俺は思わず視線をそっと向け、微笑む。こんな柔らかい表情を、今まであまり見たことがなかった。
その様子がおかしくって、喉の奥から引っ張られるように、俺も続けて笑った。
今のこの笑いが、久しぶりの笑いだった気がする。
 「クラスメイトの名前くらい、覚えててくれ」
 笑い声を抑え、笑みだけは崩さないまま、俺の方を見て尋ねてくる。その瞳に、雫のように小さな光が反射して見える。
 俺は手を合わせ、片目を閉じ「ごめん」と、謝った。
 「でも……似てると思っただけじゃないだろ?どうせ、可哀想な人だと思って話しかけてきたんだ。会話を聞いてりゃわかる」
 レンの言葉は棘を含んでいた。
胸の奥にちくりと刺さるけれど、俺は笑みを崩さない。
 「ううん。俺は“可哀想”なんて思ってない。むしろ、かっこいいと思ったよ」
 レンがわずかに目を丸くする。
 「自分のこと笑われてんのに、何も言わずに空見てるんだもん。俺にはできないよ、そんなの」
 「タヨ……は、じゃあどうするんだ。自分の陰口を言われてたら。」
 レンの視線が鋭く突き刺さって、脳を抉る。試されている気がした。
 俺の陰口、か。
そう言われてみれば、考えることはなかった。でもきっと、複数人からは陰口くらい言われている自信がある。
 俺はほんの少し考えてから、口を開く。
 「俺だったら――怒るね。」
 「……」
 「“そんなこと言ってんだ”って。”俺のことを悪く言わないでくれ〜”ってね。何せ、嫌われるってのが怖くて、人に嫌われたんなら、それはもう人生ご愁傷さまってわけ。 」
 レンはぽかんとした顔をしたまま、目を逸らせずにいる。
 「んだそれ……嫌われて人生お終いは言い過ぎだし、人間好かれるより、嫌われることの方が多いよ。」
 レンは眉を寄せ、ため息をつく。
でもその声には、ほんの少しの迷いが混じっていた。
 「……でも、タヨはそうやって本音を言えるんだな。俺にはできねぇ」
 レンは頭を掻きむしりながら、呆れるように言った。
 俺は頭の片隅で、「そんなわけが無い。」と一人ツッコミをしていた。
本音を言う権利なんて、いつの日か全部消え去った。
 「いいよ、タヨは。みんなから必要とされてて。」
 レンは空に目を移して、遠いものを見つめ始めた。視線の先はただの青空。でも、レンはその空をずっと見ている。
その横顔を見て、思わず笑ってしまった。
 “みんなから必要とされてる”なんて、俺が一番信じていない言葉を、この男は真顔で言うんだから。
 「さて、それはどうだろう」
 俺はこの時、もっとレンについて気になり始めていた。
レンは見た所、そんなに感情豊かには見えない。笑ったとしても、思い切り笑うわけじゃない。
 やはり俺と似ている。俺だって笑うふりなら、おちゃのこさいさいだが、本気で笑うのはつい先程が久しぶりだ。
 少し、いや、もっと笑わせてみたい。
そう思った瞬間、胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
 それなら。
 わざと明るくするなんて、お易い御用だ。
レンがもっと笑うように、そのために使う仮面なら、少しは罪悪感も薄れるはずだ。
 ……そう思った時点で、俺はもう、レンの為に笑う道化師だった。
 その後、俺はしつこいくらいにレンへ話しかけた。
わざとうるさいほど大声を出して、強引に関わるようにした。
 「レン〜!ねぇ聞いて聞いて!ビッグニュース!」
 「お前のビッグニュースは大体、”夢にレンが出てきた”とかだろ? しょーもないんだよ。」
 「なんでわかるの?」
 最初こそレンは「……は?え?」と戸惑ってばかりだったが、気づけば口がどんどん悪くなっていった。
 放課後の帰り道、くだらないことで言い合っては、結局二人で笑った。
俺が風邪を引けば見舞いに来てくれたし、苦手な数学はいつもレンが根気よく教えてくれた。
 「お前のことなんか好きじゃない」
そう口では言っても、本当は違うと知っている。
 とても優しいレンのことが、俺は好きだった。恋愛ではなく、友達として。
 関わるうちに、レンの笑顔は増えていった。
よく笑い声を響かせて、楽しそうにしていた。
 ――そんな日々が、ずっと続くと思っていたのに。
「……あれ?一名様、でしたっけ?」
 定員の声に、一度、意識が現実に戻る。
 そこには若そうな女性が、アイスコーヒーを二つ運んできてくれている。コップの中の氷が、カラン……と音を鳴らす。
 俺は、にこりと笑って見せて、「連れは帰ったので一人です」とだけ答えた。
 テーブルにアイスコーヒーは二つも、置かれる。俺の分と、もう一人さっき出て行った奴の分と。
俺は、レンが飲む予定だったアイスコーヒーのコップのふちをなぞって、遊んだ。ふいに、レンもこれを飲めるんだな、と考えながら、優しく指で器を弾く。キャンッ、と音が立ち、どこか遠くで笑い声が響くように感じた。
 自分の分のコーヒーをすすり、顔を机に突っ伏した。ふと気付く。
 「そういや、俺が泣いてた理由、まだ言えてなかったな」
 これはまた、少し遡った、過去の話。
 俺が中学二年生になりたての頃。
この頃には、レンと出会ってしばらく経ち、登下校を一緒にするくらいには仲良くなっていた。
 そして相変わらず、I.C.O.で人を撃ってはあやめる日々。
仕事にも慣れてきた頃、知りたくないことを知ってしまった。
 それはある日の、冬のこと。
寒い中、俺は組織の施設内を歩いていたが、道に迷ってしまった。
 馬鹿だと思うだろうが、組織の建物は大きい。道に迷うなんて、よくあることだ。
 「……また、迷ったか……。」
 迷いに迷って、周りの人を探すも、誰もいない。
 そんな時、ひとつの扉が目に映った。
その扉には、「記録室」と丁寧に書かれている。
 この部屋に入れば、地図が見つかり、迷子から脱却できるだろうか。
 そう思って、軽率に俺は扉を開いた。
 ……今思えば、俺は本当に無警戒だった。もし幹部しか入れない部屋だったら、即アウトだったのに。
 「……ん。」
 扉を開けば、そこは。言葉で表すなら、本の異世界だった。
 いく千もの本が、水槽の中を泳ぐ魚のように浮いている。へしゃ、へしゃ、と。紙をめくる音が、心地よく響く。
 浮かぶ本ばかりじゃない。足元には無数の本棚が並び、暗がりにその背表紙を沈めていた。
本棚は闇の奥へと吸い込まれるように連なり、その果ては見えなかった。
 「……なんだこれ。」
 言葉を漏らして、少しの間、本を眺めた。紙が捲られる音色も、浮遊する様子も、あまりに非現実すぎる。
 すると、一冊の本が、蝶のように舞いやってきた。
まるで、「見て」と訴えるように、他の本よりも激しくページをめくっている。
 表紙には、「篠塚レン 記録」と刻まれている。
 「レン……?なんでここに?」
 指先がページをめくろうとした瞬間、勝手に紙がぱらぱらとめくれ、やがて一枚で止まる。
 そこに刻まれていたのは、俺の知らないレン。
笑っているときの彼でも、教室で見せる横顔でもない――もっと深く、触れてはいけないものだった。
 ほんの一瞬、「開くんじゃなかった」と胸がざわつく。
けれど、もう目を逸らすことはできなかった。
 胸がざわついた時、急激な吐き気に襲われた。身体の中から、溢れ出てくるような感覚で必死に手で抑えて堪えた。
 そして脳裏に、砂嵐のように、途切れ途切れの映像が流れ始める。
 ……なにかの話し声が聞こえる。
 普通に喋っている時のような声じゃない。もっと力強く、怒っているかのような。
 その声は徐々に鮮明になっていく。今思えば、鮮明になるのを期待しない方が良かった。
 ”どうして……?あんたのせいよ!あんたのせいであの人は……!この人殺し!”
 女性の泣き崩れる姿が見える。くしゃしくゃの黒髪で、嗚咽を漏らしながら誰かに怒鳴っている。
 ”ひとごろし……?おれが、父さんを、殺したって言うの?”
 幼い子供の声、背丈は小さく、十歳前後だろう。震える声で問い、女性をただ眺めている。慰めるでもなく、怖がるのでもなく。
 その姿は、いつも見る姿とは違うが、確かにレンだった。
 女性はレンの肩を掴んで顔を近づけ、怒鳴り続けた。
 ”ええ、そうよ……ッ!だってお前なんかを庇ったせいであの人は死んだの!あんたが殺したのよ!”
 ”……っ”
 少年の口元が小さく震えた。
でも、涙は落ちない。声も出ない。
ただ、冷たい静けさだけが、幼い瞳に宿っていた
 ……なにこれ。
 ただの虐待じゃないか?
レンのお父さんが既に亡くなっていることは知っていた、学校でも有名な話だ。
でも、お父さんが亡くなったあとの家庭環境は、そこまで知らなかった。
こんな、こんなに母親に追い詰められていたとは思わないじゃないか。
 ……こんなの、知りたくなかった。
知らなければ、いつも通り笑っていられたのに。
俺は、勝手に踏み込んでしまったんだ――レンが必死に隠してきた場所へ。
 その映像はそこで完全に途切れ、頭には何も流れなくなった。
 でもそれで、俺の子のざわめきが去るかと言われれば、そんな簡単な話じゃない。
 「レン……」
 吐き気が静まる中、俺はポツリと、そうつぶやくことしか出来なかった。
 でも、この話はこれで終わりじゃない。
 レンの記録は、また勝手にページをめくり――そこで、俺は見逃せない文を目にした。
 ”父は我々により抹消済み”
”妹、ミヨも抹消予定。”
その文字が、やけに冷たく、脳裏に焼き付いた。
 俺はこの時、まだ知らなかったんだ。
レンのお父さんが、俺の所属する組織に殺されてたこと。
そして妹までが、殺される計画を立てられていたこと。
 「そんな……俺の、組織のせいで?」
 吐き出したその言葉が、自分の喉の奥で何度も反響して消えた。
胸の奥が痛くて、呼吸がうまくできない。
レンの父を、俺たちが殺した――
そして妹まで、俺たちが奪おうとしている――
 俺はその現実を、まだ“他人事”として受け止めようとしていた。
でも、もうどこにも逃げ場はなかった。
 その後の出来事はよく覚えていない。たしか、記録室に入ってきた人に場所を聞き、何とか迷子から抜け出したと思われる。
 しかし、そんなことよりも頭では抹消、抹消予定、という文字ばかりが反芻して、迷子から抜け出したという安心なんかよりも、 レンのことが心配でならなかった。
 その日の深夜、たしか、元気かどうか確認するためにわざと大きな声で「グッドモーニング!」と電話をかけた。
案の定、向こうからは思い切り怒鳴り声が返ってきた。
 「はぁ!?おまっ、 今何時だと思ってんだ!」
 通話越しのその声に、胸の奥のざわつきがほんの少し和らいだ。
怒鳴る元気があるってことは、まだ大丈夫だってことだ。
 次の日、学校でも怒られたけど、昨日の胸のざわつきが少しだけ和らいでいることを思えば、
まあ、いいかと思えた。
 大事なのは、この先。
 俺はどんな顔をして関わればいいのだろう。
レンの家族を抹消しようと企む俺の組織。
それに対して俺はどんな対応をすればいいのか。
 抹消されないように守る?
レンにこのことを話す?
それとも何も言わずにただ組織の言う通り?
 本心を言えば守りたい。これ以上レンも傷つけないためにも。
だが、守れば裏切り者扱いされるだろう。
それに、”あいつ”みたいにはなりたくない――どうすればいいんだろう。
……結局、俺は何もできなかった。
「守りたい」「裏切りたくない」――どっちも想いだけで、結局は組織の犬として日々をやり過ごしただけだ。
 その結果、レンの妹は、俺が高校二年生の頃には“抹消”された。
俺は黙って、知らないふりをした。
 あの日からずっと、胸の奥に棘が刺さったままだ。
レンの隣で笑っていても、俺だけが知っている。
レンが必死に守ろうとした家族を、俺の属する組織が奪ったことを。
 そして何より、止められなかった自分の弱さを。
 こんな俺じゃ、レンに「嫌い」なんて言われても何も言い返せない。
いつも「好きじゃないぞ」とか「黙れ」とか、辛辣な言葉を投げつけられていた。
それがただの照れ隠し――ツンデレだって俺は分かっている。だが、さっきは違った。
 俺が“敵側”だとわかった時。
レンは振り返りもせずに「もう大嫌いだ」とだけ言い残し、去っていった。
 あれはもう、いつもの嘘じゃない。
心の底から、俺を拒絶した声だった。
 「……ついに本気で嫌われたか、俺。」
 机に突っ伏し、並んだガラスのコップを眺める。
コップの底に揺れる水面は、俺の顔を映してくれない。
 嫌われる覚悟はしていた。
組織内で「篠塚レンが真実を知った」という報告が出ているのは、知っていたからだ。
 「仕方ない、俺が悪いんだ。嫌われてもいい」――はずなのに、だ。
 さっきは、どうしようもなく涙が溢れてしまった。
気づけばそれを、レンに見られていた。
恥ずかしくて、情けない失敗だった。
 「もう、俺たち、どうなるんだろうな」
 このまま会えなくなるのか。
それとも仕事で会い続けるのか。もし仕事で会うのなら、最悪レンをまた傷つけることになるかもしれない。
会わない方が、いいのかもしれない。
 “タヨ”――へにゃりと笑って呼んでくれたあの声も、もう聞けないのか。
 しかも最近、またレンの大切な人を奪う計画が動き出しているらしい。
桜月イロハ――抹消予定。
 レンとイロハが二人でいるところを見た。穏やかで、ぎこちないけれど落ち着いていた。
 長のリアス曰く、「二人が一緒にいるとレンを組織の一員にできないから」だそう。
 レンは、あの子のことを大切に思っているはずだ。俺はそれを知っているのに、また奪うのか。いったいどれだけ奪えば気が済むのか。
 「ごめん、レン」
 俺の声は小さく、空気に溶けるだけだった。
俺は今、エレベーターの中に居る。
六階のボタンを押し、閉めて、するとすいすいと六階まで上がってくれる。
 エレベーターの壁に体重を預けて、俺は深くため息をつく。
 「タヨ……」
 情けないくらいか細い声でその名前を呼ぶけど、当然ここには俺しかいない。誰も反応すらしない。
 ……どうしてだろうな。
あいつのことなんて「嫌いだ」って、そう言い放ったはずなのに。
頭のどこかじゃ、まだ声をかけてくれるのを待っている。
 くだらないことで笑い合った日々。しょうもない喧嘩もした。
そんな記憶ばかりが、胸の奥で疼いて離れない。
「おかしいな、俺が、嫌いだなんて言ったのに。」
矛盾している。
 ……それでも、やっぱり俺は――。
 そんな時に、タイミングよくエレベーターの扉が開く。
 俺は壁から離れてエレベーターからゆっくり出た。「ドアが閉まります」という声が聞こえたのを最後に、エレベーターは扉がしまって下の階に行った。
 俺は足早に自分の家の扉へと向かった。ドアノブを力強く捻って中に入った。
 中に入ると玄関には、一足も靴が置かれていなかった。
つまりまだ、母さんは帰ってきていない。そのことに一度安堵する。
 でもそんな感覚もつかの間、俺は思い出してしまった。
 タヨが電車内で泣いていたことを。
なぜ泣いていたのか、理由は聞けないまま。
 ただ口喧嘩をして、そのまま別れてしまった。
聞かなきゃならないことは沢山あったはずだ。
 ”試作体ってなんだ。”とか、”アクトという男は生きているのか”とか。
 それらを聞くためにも俺はタヨと話そうとしたのに、タヨの人殺しという言葉が怖くて、人の命を奪うというタヨが怖くて仕方なくて、それと同時に、人殺しという言葉を、自分と重ねてしまったのだ。
 もっと冷静になって話し合うべきなのに、俺はそれができなかった。だから、最後に窓越しで見たタヨの顔はあんなにも影が滲んでいた。
 俺が悪い。もっと聞いてあげないといけなかったのに。玄関の扉にもたれて、頭を抱える。
 ああ、辛いな。
 たまらなく辛い。胸の内側がどんどん蝕まれていく感覚で、もう立っているのも正直しんどい。
 そのままずり落ちるように玄関の床に座った。
床は外の気温よりも冷たく、ひんやりしている。
 「あああぁ……!」
 どうしたらいいんだ。
どうしたらいいんだ!
 タヨに嫌いだって言ってしまった。でも本当は、嫌いじゃないしむしろ好きだ。いつも明るくて、俺に元気を与えてくれた存在だった。
 そうだったのに、さっき俺は酷いことしか言えなかった。
 マジで、俺って。
 「最低じゃんか……」
 そうつぶやいた途端、目の奥から熱いものが溢れ出した。
 ぽたぽたと涙が溢れ、身につけているズボンに染み付く。
頬を伝う涙は止まらず、一度溢れると止められない。
 嗚咽を漏らしながら視界は歪み、自分の手さえもよく見えない。
 「俺たちは……もう、戻れないのか……?」
 その後も、ずっと押し殺していた何かが爆発するように、涙は止まらなかった。
ただただ嗚咽を漏らし、後悔するだけだった。
 もしも、時間を戻せたら、どれだけいいだろうかーー。
第十二の月夜「子守唄と迫る喧騒」へ続く。