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草原草原(くさはらそうげん)

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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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その朝は、冷えた。
五月の末に近いのに、朝の食堂には火鉢が入っている。お初が「今朝だけですよ」と言って炭を足す。玲司は新聞を広げ、千歳は向かいで、味噌汁の椀を両手で持っていた。
玲司が新聞を畳んで、火鉢の上に手を伸ばす。
袖が、炭に触れた。
千歳は見ていた。洋服の袖口が、火鉢の縁の上に下りて、そこに置いた火箸の先に当たる。焦げる匂いがした。玲司は気づいていない。新聞を見ている。
「旦那様」
千歳は立って、卓を回る。回る間もなく、手が出て、玲司の袖を払っていた。
袖口が、上がる。
左の前腕が、見えた。
赤く、引きつれた痕があった。手首から肘のほうへ、千歳の手の甲より、ずっと広く。
玲司の右手が、袖を下ろそうとした。
千歳は、その手より先に、自分の右手を、玲司の腕の横に置いた。
火鉢の縁に、二つ、並んだ。千歳の右手の甲の、赤い痕。玲司の左腕の、赤い痕。火鉢の熱が、両方に当たっている。
「同じですね」
千歳は言った。
玲司は、動かなかった。袖を下ろそうとした右手が、途中で止まっている。
お初が台所の戸口で、盆を持ったまま立ち止まった。立ち止まって、何も言わずに、戻っていった。
「……君は」
玲司が言った。低かった。
「火が、怖くないのか」
千歳は自分の手を見た。痕は、十年、袖の中にあった。火が怖くなかったことは、一度もない。
「怖いです」
玲司の目が、千歳に向いた。
「でも」
その先が、出なかった。でも、何だろう。でも、入った。梢があの部屋にいたから。でも、この手を、この人は、灯りの下に持ち上げた。でも、今、この人の腕が、隠されようとしていた。
「……でも」
玲司は、袖を下ろさなかった。下ろさないまま、火鉢を見た。
「三年前だ」
火箸を取って、炭を転がした。
「母屋の、いまの食堂のあたりから、火が出た。冬だった。父が、中にいた。私は、入った」
千歳は、聞いていた。お初から聞いた話と、同じだ。同じなのに、違った。この人の口から出ると、火の音がした。
「父は、助けられなかった。これは、そのときのものだ」
玲司は左腕を、一度だけ見た。
「君の手と、同じではない」
「……同じです」
千歳は言った。言ってから、驚かなかった。この頃、自分の口が、自分より先に動く。
「火の中で、人を、助けようとした手です。同じです」
玲司は、千歳を見ている。
長い。車寄せで、布の手を見たときと、同じくらい長い。
「旦那様」
千歳は、言った。言わなければ、今だと思った。
「十年前のことは」
玲司の手が、火箸を置いた。
「まだ、言えない」
それだけだった。千歳は、それ以上は言わない。言えない、と言った。言わない、とは違う。
玲司は袖を下ろし、釦を留める。それから、冷めた飯を食べ始めた。千歳も、椀を持ち直す。味噌汁は、冷めていた。冷めていても、飲めた。
昼前に、とよが縁側に来た。
「お嬢様。有明の屋敷に出入りしていた八百屋から、聞いたんでございますがね」
とよは腰を下ろして、声を低くした。低くしているつもりの、少し大きい声だ。
「奥様が、ご自分のお着物を、売られたそうで。二枚。それで、こちらへ、一回目のお金を」
藤乃が、自分の着物を売った。
咲子の鏡台と琴を売り、帯留めを質に入れ、梢の振袖を親戚から借りて、それでも足りずに、藤乃自身の着物を売った。あの、襟を正した着物を。
「梢様は、普段着で女学校へ通っておいでだとか。それも、八百屋の話で」
千歳は針を持っていた。襦袢の襟は、縫い終わった。今日は、文の前掛けのほつれだ。
嬉しくはなかった。嬉しくないまま、針を進めた。藤乃が着物を売ったのは、玲司が返せと言ったからだ。玲司が返せと言ったのは、藤乃が嘘をついたからだ。藤乃が嘘をついたのは、千歳を穴埋めにしたからだ。その順番を、千歳は一つずつ数えて、数え終わっても、嬉しくはならなかった。
「奥様、これ」
文が庭から駆けてきて、縁側に何かを置いた。
手毬だった。
赤と白の糸で巻いた、小さな手毬。古い。糸が、ところどころ、ほつれている。
「離れの前に、落ちてました。梅の木の、焦げたやつの下に」
千歳は手毬を見た。手に取らなかった。
子どものものだ。千歳も、小さい頃、持っていた。母が巻いてくれた。藤乃が来て、捨てられた。
「お初さんに聞いたら、黙って持っていっちゃって――」
文が言い終わる前に、お初が来た。縁側の手毬を、黙って取り上げた。千歳を見て、文を見て、何も言わずに、庭へ下りた。梅の木の間を抜けて、離れへ。
戸が、内から開いた。
お初が手毬を渡す。白い袖が、一瞬、見える。戸が閉まった。
千歳は縁側に座っている。文が隣に座って、膝を抱える。
庭の奥から、声がした。
低い、鼻歌だ。
歌の文句はない。節だけが、細く、庭を渡ってくる。千歳はそれを聞いた。文も聞いた。文が、千歳の袖をつかんだ。
「奥様。あれ」
聞いたことがある節だった。どこで聞いたのか、思い出せない。思い出せないまま、聞いている。
鼻歌が、止まった。
離れの障子に、灯りがある。昼なのに、ついている。今、気づいた。
その灯りが、消えた。
コメント
1件
読み終えたよ〜!😭💕 今回も刺さりまくった… 「同じですね」って千歳さんが玲司さんの袖の火傷痕を見て、自分の手の痕を重ねるシーン、もう…何このエモさ…!! お互い「火の中で人を助けようとした手」って繋がってるのに、玲司さんはまだ十年前のことを言えないんだね。でも言わないじゃなくて「言えない」って言ったのが切ない…。 あと藤乃さんの着物を売った話、嬉しくない気持ちが伝わってきて胸がぎゅーってなったよ。離れの鼻歌も気になる…!次話も絶対読むね🌸