テラーノベル
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誰かが風呂に入っていれば、カーテンが引かれているので一目で分かる。
それを見れば遠慮し、洗面所に用事があっても待つものだ。
なのに岩淵は平気で洗面所に入って歯磨きをし、春佳が風呂場のドアを開けて悲鳴を上げたのを見て愉快そうに笑う。
春佳も重々気をつけてはいるのだが、直前までシャワーを出している上、ボイラーが動いているので、物音だけでは岩淵が洗面所にいるかどうか、分からずにいる。
浴槽に浸かっている間、外の音に耳を澄まして十分に時間をとっているはずなのに、いつのまにか岩淵は洗面所に忍び込み、音を立てないように潜んでいるのだ。
「お願いですから、私がお風呂に入っている間は洗面所に入らないでください」
春佳は強張った表情で、母の肩を抱いて我が物顔でふんぞり返っている岩淵に言う。
「いやー、ごめんね。春佳ちゃん。お酒飲んでるから口臭が気になっちゃってさ。仮にも女性が二人いる家だし、気を遣わないといけないでしょ?」
岩淵はわざとらしく髭を弄り、陽気なおじさんを装って言い訳する。
母の客人に文句を言えば、怒られるのは分かっていた。
けれどきちんと釘を刺しておかなければ、いつか取り返しのつかない事が起こってしまう。
だから勇気を出して言ったのに――。
「春佳っ! あんた岩淵さんに色目使ってんのんかい!」
母が声を荒げ、立ちあがる。
「まぁまぁ、涼子さん。僕が悪かったんだから、そう怒らないで」
岩淵は陽気な声で言い、涼子の腕を引く。
「春佳ちゃんも年頃だから、同じ家に男がいたら意識しちゃうよね。ごめんね」
岩淵は五十代の〝おじさん〟のくせに、図々しくも自分を〝男〟と言い、あたかも春佳に意識されているように振る舞う。
「~~~~っ、……おやすみなさい」
(なんでこの人は、二十三時を迎えても他人の家にいるんだろう)
遠慮もなく他人の家に泊まる岩淵を見ていると、瀧沢家を乗っ取ろうとしているように思える。
「あんた、何なの! その態度は!」
春佳は母の怒鳴り声を無視し、自室に入るとドアを閉めてベッドに突っ伏した。
「…………もうやだ…………」
弱々しく呟くものの、誰に助けを求めればいいのか分からない。
家庭教師のアルバイトをしているとはいえ、得られる金は微々たる額だ。
貯めた金を机の奥にしまっているが、一人暮らしをするには全然足りない。
今までもらったお年玉は全額母が定額貯金にしたと言っていたが、無断でおろして使えば怒られるだろう。
何をするにも自由がなく、静かに押し潰され、ひそやかに殺されているように感じた。
――大人になったら、何か変わるんだろうか。
大学を卒業したら、兄のように家を出て一人暮らししたい。
自分で稼いだ金で生活し、自分のしたい仕事をする。
門限を気にせず、友達と遊んで飲み、職場の愚痴を言い合いたい。
春佳が思い描く〝大人〟は、色んな所で見たものの寄せ集めだが、とても自由で魅力的な存在に思えた。
「はぁ……」
春佳は布団の中で溜め息をつき、ゴロリと仰向けになってスマホに手を伸ばす。
先日の合コンがあったあと、千絵から体調を気遣う連絡があった。
絡んできた男性が冬夜に暴行を受けた事については、特に何も言っていなかった。
(何か問題になったら千絵から連絡があるだろうけど、……大丈夫だったらいいな)
自分のせいで冬夜に暴力を振るわせてしまったという負い目があるから、ついそう考えてしまう。
大怪我でもしなければ警察沙汰にならないと思うが、兄が犯罪者にならないか心配になる。
(お兄ちゃんに連絡してみようかな)
そう思って兄の番号に電話を掛けた時、トントンと部屋のドアがノックされた。
嫌な予感がして起きると、音もなく開いたドアの隙間から岩淵が顔を覗かせた。
「こんばんは」
そのニヤついた顔を見た瞬間、全身に怖気が走った。
思いつく限りの悪態をついて追い出したいのに、体が竦んで身動きができない。
「は……、母は……?」
微かに震える声で尋ねると、岩淵はニタァ……と粘着質に笑った。
「お酒を飲み過ぎたのかな。眠ってるよ」
その言葉を聞いた瞬間、ザッと顔から血の気が引くのが分かった。
どこにも逃げ場がない。時刻は遅く、友達のところに行くには非常識な時間だ。
「……私も寝るので、出ていってください」
絞り出すように言ったが、岩淵はニヤニヤ笑いを顔に張り付かせて近づいてくる。
「……母に言いますよ」
「今頃、夢の中さ」
キザったらしく言う岩淵が、おぞましくて堪らない。
(お母さんがこの人に頼りたくなる気持ちは分かる。私だってお父さんを喪ってつらいし、側にいて甘えさせてくれる人がいたら、頼ってしまうと思う。……でも)
だがどう考えても、岩淵は常識的な人ではない。
良識ある男性は、年頃の娘がいる家庭に入り浸らない。
母との将来を考えているとしても、こんな人が義父になるなどあり得ない。
(まして、十九歳の娘の部屋に来て、何をしようって言うの?)
考えている間、岩淵はベッドの上で強張った顔をしている春佳の前に立つ。
傍に立たれるだけで酒臭く、彼の体臭と香水の匂いも相まって、具合が悪くなるような悪臭が鼻をつく。
「……警察を呼びますよ」
「民事不介入っていう言葉を知ってる?」
微かに軋んだ音を立て、岩淵が片膝をベッドについた。
彼は目尻に皺を寄せ、垂れた目をさらに細くさせてニタァ……と笑った。
「初めて見た時から可愛いと思っていたんだ。涼子さんも美人だけど、春佳ちゃんは若くて可愛いね。好きな物があったら買ってあげるし、もっとお洒落な服を沢山買ってあげよう。今の子ってへそ出しルックが流行ってるんでしょ? スイーツも化粧品も春佳ちゃんの望む物をあげるよ」
「……やだ……。……やめてください……っ」
ベッドに乗り上げた岩淵の陰で、春佳は必死に壁際に身を寄せる。
岩淵の横をすり抜けられないか様子を窺っているが、彼は酔っぱらって充血した目をしつつも、春佳の一挙手一投足を見逃さない雰囲気を醸し出している。
「母娘ともども可愛がってあげようね」
猫なで声で言われた時、悪寒が駆け抜け、春佳の中で何かが弾けた。
「いやぁっ!」
春佳は悲鳴を上げ、バッと岩淵の横をすり抜けて床に足を置いた。
だが物凄い力で腕を掴まれたかと思うと、放るようにベッドに戻された。
すぐに起き上がろうとするが、彼女の体の上に岩淵がのしかかる。
「気持ちいい事をするだけだから、いいだろぉ~」
先ほどまでの態度はどこかへ、岩淵は傲慢な支配欲を剥き出しにした。
「やめてっ! いやだっ!」
春佳は必死に脚をバタつかせ、抵抗する。
人に暴力をふるった事などないし、何かから力一杯逃げようとした事もない。
生まれて初めてレイプされかけ、春佳の頭の中は混乱と恐怖とで真っ白になっていた。
コメント
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ああ……もう、胸が苦しくなりました。岩淵の“人の姿をした悪魔”っぷりが本当に生々しくて、浴室のシーンから最後のベッドの場面まで、読んでいる間ずっと息が詰まるようでした。特に、春佳が勇気を振り絞って「入らないでください」と言ったのに、母親に怒られる流れが切なすぎる。助けを求めたいけど求められない、家にいても逃げ場がない――その閉塞感がひしひしと伝わってきました。春佳の「もうやだ」という呟きが、言葉以上に重く響きました。次の展開が気になります……。
臣桜
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臣桜
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田中葵
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