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春の終わり、梅雨の匂いがまだ遠くにある頃。
大森は珍しく早朝に目を覚ました。異常なほど喉の渇きを感じ、コーヒーでも淹れようとキッチンに立ったとき、隣の部屋から「どん」と何か重たいものが落ちる音がした。
「…また空き部屋に誰か入ったのか」
ずっと空いていた隣。
どうやら新しい住人が入ったらしい。
軽くアトリエの掃除をし、空気を換えようとベランダの窓を開けた。
ちょうどそのタイミングで隣のベランダで洗濯物を干していた人物が、ふとこちらを向いた。
寝癖かクセ毛かわからないくしゅっとした派手髪。白いTシャツにジャージのズボン、眠たそうなタレ目。
…なんとも気の抜けた、けれどやけに目を引く青年だった。
「あっ、こんにちは 本日引っ越してきました、藤澤涼架です。よろしくお願いします」
そう言ってゆるく頭を下げた。
その笑顔はとても自然で、眩しくて、心の隙間に水が染み込むような柔らかさがあった。
「……よろしく」
それが、最初の会話だった。
不思議なことに、大森はその晩筆を持っていた。
何日も、いや何週間も、何も描けなかったはずなのに。
キャンバスの上に浮かび上がったのは昼間見たばかりの、どこか間延びした顔の青年。
無意識のうちに描いていた。
「藤澤涼架…ね…」
名前をつぶやいたとき、大森の胸の奥が妙にざわついた。
このざわつきがスランプの出口になるのか、それとももっと深い沼になるのか___
そのときはまだ分からなかった。