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その日から大森のアトリエにほんの少しの「音」が入り込むようになった。
廊下を歩く足音、窓辺で何かをつぶやく声、鼻歌、そして――
「こんにちはお隣の方、ですよね。あの、これ、おすそわけです」
数日後、久しぶりの会話は紙袋を片手に訪れた藤澤からだった。ぎこちない笑顔。けれどその目だけは真っ直ぐで、どこか遠くを見つめるような寂しさを湛えていた。
(…描けそうだ)
唐突にそう思った自分に、大森は驚く。
春のように、じんわりとあたたかい風が吹いたような気がした。
「なんか、すみません。こんなもので」
紙袋の中には焼きたてのマドレーヌが入っていた。少し不格好な焼き色。でもしっとりしていて、いい香りがした。
「自分で焼いたの?」
「あ、はい。母に送ろうと思って、練習で。迷惑じゃなければ召し上がってください」
声は控えめなのに不思議と耳に残る。
大森は、目の前の青年、藤澤涼架をしばらく見つめてから、短くうなずいた。
「ありがたくもらうよ」
そしてしばらく経った後、大森は気づく。
マドレーヌを食べたのは十年ぶりくらいだったのに、その味をちゃんと覚えている自分がいた。
_____________
それから数日、生活の音が重なる。
藤澤はよくベランダに出る。小さな鉢植えに水をやったり、椅子に座って文庫本を読んだり。
ときどき鼻歌まじりでフルートの指の動きを練習していたりする。
その姿が、大森の視界の端に自然と入るようになる。
(……白い)
それが最初の印象だった。
白くて、華奢で、うっかり触れたら消えてしまいそうな、どこか透明な存在。うるさくはないのに妙に気になる。
筆はまだ動かない。でも視界に引っかかって離れないものができた。
(今なら描けるかもしれない)
その予感は、日に日に強くなっていく。
_____________
「ねぇ、藤澤」
数日後、唐突に声をかけたのは、大森の方だった。藤澤はベランダで水を飲んでいて、驚いたようにこちらを振り向いた。
「!!びっくりしたぁ…なんですか?」
「絵のモデル、やってくれないか」
一瞬、時間が止まったようだった。
藤澤は、目を丸くして大森を見つめる。少し間を置いて、戸惑いを隠すように、ふっと笑った。
「僕、そんな人に見せるような顔じゃないですよ?」
「見せるための顔なんて求めてないよ」
大森はゆっくり正面から藤澤を見た。
「俺が今、一番描きたいのが、藤澤なんだ」
藤澤の目が、ほんの少し揺れた。指先が持っていた水のカップをきゅっと握る。
少しうつむいて、照れたように、でもまっすぐに
「…じゃあ、よろしくお願いします。大森さん」
そうしてスランプの画家と、隣に引っ越してきた大学生の、不思議な時間が始まった。
_____________
「そこに座って。うん、それで大丈夫」
アトリエの窓辺。午後のやわらかい光が部屋の中にゆっくりと差し込んでいる。
古い椅子に腰を下ろした藤澤は、まるで図書館で静かに本を読むときのように背筋を伸ばしていた。けれどその指先は落ち着きなく、ジーンズのすそをそっと摘んだり離したりしている。
(緊張してるな)
大森は筆を握ったまま軽く笑った。
「そんな構えなくていいよ。もっと、普段通りでいい」
「普段通りって言われても…」
藤澤はふっと笑って、首をすくめた。
「だって僕、じっとしてるの苦手で…それに、絵のモデルなんて初めてで」
「俺も人を描くのは久しぶりだよ」
それは嘘ではなかった。
スランプに入ってから風景ばかり描いていた。人の表情を掴めなくなっていた。でも、藤澤を前にすると不思議と線が動く気がした。
「何か、好きなこととか話してていいよ」
「え?」
「そのほうが自然な顔になる。喋ってる時のほうがいい顔してる」
思わず口にして、大森は筆先を見つめるふりをして目を逸らした。
一拍置いて、藤澤の口から小さな笑いがこぼれた。
「なんか画家さんらしいですね!なんか慣れてきました」
「それ、褒めてんの?」
「わかんないです。でも、なんか嬉しいです」
そう言って笑った藤澤の頬に、光が射した。
ああ――この光ごと、描きたい。
大森の中で明確な衝動が走る。
この横顔、この光、この声。全部、絵に閉じ込めたくなる。
筆が動き始める。
久しぶりに迷いなく、腕が動いた。
藤澤が笑うたびに、息を吸うたびに、線が生きていく。
気づけば、午後の光は金色に変わり、アトリエの時計が静かに時を告げた。
「お疲れさま。ありがとうな」
モデル初日の終わり。藤澤が立ち上がろうとして、軽くよろけた。
「わ、あ、すみません! ちょっと足が」
「無理させた?」
「いえ、僕がそわそわしてたせいです。でも、楽しかったです」
大森はその言葉に、一瞬だけ動きを止めた。
「俺も、久しぶりに描けた」
藤澤は、へえと驚いた顔をして、それからゆっくりと、心からの笑顔を浮かべた。
「それ、ちょっと嬉しいです」
ふわっとしたその言葉が、胸の奥で静かに響いた。
(このまま、この時間がずっと続けばいいのに)
大森は、自分でも気づかぬまま、そう願っていた。