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かきまぜたまご
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細胞が脈動し、駆け巡るように、その広間の内壁は著しく明滅を繰り返していた。壁面を覆う血管のようなパイプラインが鈍く光り、粘膜を思わせる湿った光沢を放っている。その異形なる玉座の頂に、魔王の如き威容で鎮座する男――レー神王。
彼の足元には、数多の臣下が息を潜め、額を床に擦り付けて跪いている。静寂の中に響くのは、生体要塞とも呼べる宮殿が発する不気味な駆動音だけだ。
「暫く玉座を空ける」
低く、地響きのような声が広間に通った。
「ハッ!!」
臣下たちの唱和が重なる。その瞬間だった。
――パキッ、ズズッ……。
レー神王の周囲の構造が著しく変貌を開始する。硬質な壁面が突如として粘土のように軟化し、うねり、貪欲な口腔のように神王を瞬時に飲み込み、取り囲んだ。覆い尽くされたと思ったのも束の間、変形した壁は再び元の無機質な、しかし脈打つ壁へと戻る。
だが、そこにはもう、レー神王の姿はなかった。玉座に遺されたのは、彼が放っていた圧倒的な威圧感の残滓だけである。
(さて、行き先はグリーンスフィアの元へ)
レー神王は意識の深淵で座標を固定し、精神を鋭く研ぎ澄ませる。空間跳躍。それは神経回路の中で電子が一つ動いた程度の、瞬きの間の出来事であった。
――ズズッ。
冷気が漂う洞窟か、あるいは巨大な祠か。古の静寂が支配する空間の壁が、再び粘土のように蠢いた。壁面から「肉」が、そして「骨」が押し出されるようにして、レー神王の肉体が再構成されていく。まるでその場に最初から存在していたかのように、彼は影の中から誕生した。
到着した場所は、先程までの禍々しい玉座とは一線を画す、幻想的な世界であった。
空間は巨大なドーム状を成しており、天井からは微かな光が降り注いでいる。中心部には間欠泉が激しく、時に優雅に湧き上がり、白く美しい湯気がカーテンのように立ち昇っていた。足元には苔むした巨石が転がり、湿った大気の匂いが鼻腔を突く。
しかし、その神秘的な光景の中で、最も異彩を放っているのは中心部に浮かぶ「それ」だった。
間欠泉の真上、物理法則を無視して回転しながら浮遊する緑色の球体――グリーンスフィア。
それは翡翠のような鮮やかな緑を放ちながら、時折、呪いのような黒い光を帯びて鈍く輝く。万物の理を司るという、この星の心臓部だ。
レー神王は、一歩、また一歩と、その神々しくも禍々しい球体へ歩み寄る。
「我のグリーンスフィアよ、早くそなたと同期したい。我は全てを知りたいのだ。神の一片しか見届けられぬなど、退屈が過ぎるではないか」
彼の独白は、静かなドーム内に反響する。
「我は全てを見通し、この星のあらゆる事象、未来、過去のすべてを我が手中に収めたいのだ。さすれば我は全てを統べ、この星を未来永劫に支配する絶対君主となるであろう。グハハ……! しかし、お主はなおも我を拒むか」
レー神王の眼光が鋭くなる。球体から放たれる拒絶の波動。それは冷徹な機械的反応ではなく、もっと生々しい感情に近いものだった。
「やはり、人間性が残っているのか。そこに宿っているというのだな……あの女の残滓が。我のもてなしをすべて受け入れれば、人として美しく存在できたというのに。我の伴侶となり、このジーザ王国を共に治めれば、このような無残な姿にならずとも済んだのだ。残酷な道を選んだのは、お前自身だぞ……エウロパよ」
『……フ……ザ……ケ……ナイ……デ……』
大気を震わせるノイズ混じりの声。レー神王は、意外そうに眉を跳ね上げた。
「おお? まだ喋れるのか。いや、違うな。我の思念を勝手に探り、その波に乗せて思念を飛ばしているのか……。くく、相変わらず小癔しい真似を。そんな力を振るえるのなら、無駄な抵抗はやめて早く我を受け入れればよいものを」
グリーンスフィアが呼応するように激しく明滅する。周囲には、黒い炭素のような物質が渦を巻き、緑の光を侵食しようとうごめき始めた。
「ハッ、所詮はお前も取り込まれる運命なのだ。このスフィアにな。お前のその黒い呪縛の力を持ってしても、万物を統べる理には抗えん。それに、元を正せばお前は余所者だ。国宝を勝手に私物化し、我の慈悲を仇で返しおって。誰がこの国でお前の居場所を保証していたと思っているのだ! この、身の程知らずの賊が!!」
レー神王が怒りに任せて目を剥き、グリーンスフィアを凝視する。
すると、球体の表面を覆っていた黒い炭素が弾け、舞い上がった。それは霧のように空間に拡散したかと思うと、瞬時に凝縮を始め、一つの虚像を作り上げていく。
光と影の奔流の中から、一人の女性が形作られた。
それは確固たる意志を持った実体に近い幻影。
『……あなたには……絶対に、渡さない!』
そこに立っていたのは、かつて未来からタイムトラベルしてきた少女、エウロパの成れの果てであった。
しかし、かつての幼い面影は消え失せている。流れた月日が、彼女を気高くも悲しき「大人の女性」へと変貌させていた。身に纏うのは、ジーザ王国の特殊な繊維で織られた壮麗な衣装。その佇まいは、囚われの身でありながらも、一国の王女、あるいは聖女のような気品に満ちている。
『ボク…いや、私がどれほどこの国を愛していたか……! 私が、あの人をどれだけ愛していたか……! それなのに、あなたはそれを、すべて踏みにじった!!』
「グハハハッ! 急に流暢に喋りだしたと思えば、痴話喧嘩の延長か! 浅はかすぎるわ! あれは、お前が悪いのではないか? 我という至高の存在を選ばず、あのような下民に心を寄せた報いだ」
『勝手なことを言わないで! 約束したはずよ! 私がこのグリーンスフィアの力を引き出し、複製を完成させれば、自由にするって! あの人はもう……もう戻らない。それなのに、どうして……どうして私たちの周りにいた人たちまで殺すの!? 頭がいかれているとしか思えない!』
エウロパの絶叫がドームを揺らす。彼女の瞳からは、炭素の粒子のような黒い涙がこぼれ落ちていた。レー神王は、心底退屈そうに深く溜息をつく。
「はあ…………。お前と喋ると、近頃は苛立ちばかりが募る。昔はお前のその強情さも愛らしく思えたものだが。まあ、今でも情はある、だからこうして語りかけてやっているのだ。お前が我のものにならぬというのなら、障害を排除するのは統治者として当然の処置だろう? あやつの一族など、生かしておけばゴキブリのように際限なく湧いてくる。追放されたなどと嘘を吐いて逃げ惑う姿は、まさに害虫そのものよ」
『あなたが殺そうとするから逃げるしかないんでしょ!!それに、私はあなたのことが大嫌い!』
「グハハハッ、まあよい。どのみちお前は完全に我のものとなる。表層の権限も擬似核として再現出来た。表層の擬似核――シナプスシェルは、お前のおかげで複製に成功したのだ、喜ばしいことだ。表層の接続しかできぬとはいえ、あらゆる物質を変化させる万能の力を手に入れたのだ。だが……やはり我はオリジナルが欲しい。お前がそのように守護者として居座っていては、オリジナルの深淵には届かぬのだ」
矢継ぎ早に言葉を叩きつけた後、レー神王は冷酷な笑みを浮かべ、甘い毒を吐くように提案した。
「交渉といこうじゃないか。お前が完全に同期し、我にその権利を譲り渡すなら、奴らには今後一切手出しはせぬ。お前のための、世界で最も美しい宮殿も用意しよう。どうだ? 悪い話ではなかろう」
『…………交渉は決裂よ。あなたが一度でも、約束を守ったことがあったかしら? ……一度も……ない…ワ…………!』
その言葉を最後に、エウロパの虚像を構成していた炭素が、緑色の微生物たちに飲み込まれるように収束していく。球体は再び沈黙し、翡翠の輝きの中に彼女の意志は沈んでいった。
「やれやれ。我の要求を拒むのは、毎回のことではないか。これほどの好条件を提示しているというのに。慈悲を棄てるのは、そちらの方だな…………」
レー神王の全身から、凄まじいプレッシャーが放射される。ドーム内の岩石が浮き上がり、間欠泉の水柱が恐怖に震えるように逆巻いた。
「ならば、こちらも本気でいかせてもらうぞ…………」
彼は全身の筋肉を強張らせ、骨格を組み替えていく。
それまでのアヌビス神を彷彿とさせる獣的な威容から、より洗練された、かつ禍々しい「人型」へと形態を変化させた。
剥き出しの筋肉のように逞しい浅黒い肌。
月光を反射する刃のような銀髪。
そして、その頬には、まるで刻印のように「涙と血」を象徴する赤い紋様が浮き彫りになり、脈動を開始する。
「我が神だと知っていながら、貴様らは狼藉ばかりを繰り返す…………」
レー神王の声は、もはや人の喉から発せられるものではなく、大地の鳴動そのものへと変わっていた。
「自らの死の運命すら受け止めきれぬ、浅ましい猿どもめが…………。我が眼が、貴様らの末路をすべて見届けてやろう」
レー神王の瞳が、血のような赤と、深淵のような黒を混ぜ合わせた色に妖しく発光する。
その視線の先では、ただ絶望だけが、形を持とうとしていた。