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捕手のミットをめがけてまっすぐに伸びる球は、紛れもないストレートだった。
――打てる。
そう、確信した。
ツトムは磨きあげたすべての力を動員してバットを振り抜いた。
カキン!
個体がぶつかる乾いた音。
木の芯から全身へと伝わる感触が、明らかな手ごたえとして返ってきた。
バットを離れた球は、大きな弧を描きながらレフトスタンドめがけて舞った。
スタジアムの観客が一斉に立ちあがり、雷のような悲鳴と歓声を轟かせた。
人と機械と空気と光。
スタジアムを構成するすべての物質。
そのなかで、ただひとりツトムだけが冷静に時間の経過を追っていた。
「1秒……2秒……3秒……」
およそ4秒もの滞空時間を経て、球はファウルポールのわずか3メートル左を横切り、観客席へと吸い込まれた。
数万の安堵とため息が、巨大などよめきとなって球場を覆った。
……まずいな。
特大のファウルボールは、ツトムの計算にひとつの狂いを生じさせた。
いまここで能力を使って3秒を戻したところで、球を打った直後にしかならない。
即決が求められた。
次の球を待つべきか、この球に絞るべきか。
俺はこの球でいく。
ツトムは腹をくくった。
すぐにバックスクリーンに掲げられたアナログ時計の針を見つめる。
『クイッ、クイッ』
人差し指を眉間に当て、2度折り曲げた。
ツトムの目に映る世界は、なんのまえぶれもなく6秒前へともどった。
花塚が投球フォームを整えて、大きく振りかぶった。
ツトムがグリップ位置をストライクゾーンのうえに置いた。
日本一を賭けた歴史的な5球目が放たれる。
捕手のミットをめがけてまっすぐに伸びてくる球は、紛れもないストレートだった。
――打てる!
さきほどよりも鮮明に、球の軌道が目に入った。
ツトムは磨きあげたすべての力を動員してバットを振り抜いた。
……!
バットから伝わる感触に、違和感がつきまとった。
芯でとらえたはずの球が、ツトムの頭上高くに舞いあがっていた。
軌道の落下地点では、花塚がグラブを高々と掲げて待ちかまえている。
これまで一切の感情を現わさなかった花塚が、小さく笑っていた。
ツトムは即決した。
一切のためらいもなく、さらなる能力の発動を決めた。
『クイッ』!
悲鳴と歓声が衝突する球場内で、ツトムは眉間に当てた指を一度折り曲げた。
ツトムの前に、過ぎ去ったはずの時間が再び姿を現す。
これでツトムの失神は確定したが、心には一片の後悔もなかった。
ホームランを打てばいい!
そうすれば、たとえ気絶しても起き上がり、ダイヤモンドを一周できるのだから!
時間が戻ることで、グラブをかまえていた花塚が、コマを入れ替えたようにマウンド上で大きく振りかぶっている。
ツトムはバットを長く持ち替え、グリップ位置をストライクゾーンのうえに置いた。
日本一を賭けた歴史的な5球目が放たれる。
捕手のミットをめがけてまっすぐに伸びる球は、紛れもないストレートだった。
ツトムは培った技術と揺るぎない意志で、バットを振り抜いた。
カキーーン!
ツトムのバットを離れた球は、大きな弧を描きながら、バックスクリーンめがけて飛んだ。
スタジアムを埋める観客が一斉に立ちあがる。
上空を舞う打球を確認した塁上のチームメイトが、ホームベースという最終目的地へと駆けだした。
球はすぐにセンターの上空へと到達した。
浅い守備位置にいたセンターが反転、頭上を超えた白球を追っている。
打球はホームラン性の当たりだった。
大歓声に後押しされたように飛距離はさらに伸びていく。
ツトムは地鳴りする砂のうえを一塁ベースめがけて駆けていく。
一塁コーチが肩に風車でも仕込んだように、ぐるぐると腕を旋回させている。
大きな放物線を描いた球は、加速しながらバックスクリーンへと伸びていく。
ツトムは白く厚みある正方形の一塁ベースだけを目つめて闇雲に走った。
しかし球は放物線の頂点を堺に急降下をはじめた。
風か気圧か運命か……。
球は燃料を失った飛行物体のように急速落下しながら、バックスクリーン手前のフェンスに当たって跳ね返った。
フィールド内に落ちた球はライト側へと転がった。
ふたりの外野手がそれを追っている。
サヨナラのランナーがホームベースを通過。
横浜アイアンフェアリーズの全選手が歓喜の感情を爆発させながらベンチからでてくる。
大投手花塚茂が、がっくりとマウンドに伏した。
勝者の歓喜と狂乱、敗者の悲哀と失意。
勝ったものたちは抱き合って喜び、負けたものたちは抜け殻のように立ち尽くした。
しかしそうした感情が相まったスタジアムが、徐々にひとつの感情へと傾いていく。
……あれはなんだ?
巨大な「疑問」がスタジアムを覆った。
ひとりの男が、グラウンドに倒れている。
己のすべてを賭してバットを振り抜き、チームを勝利へと導いたはずの英雄。
代打日本記録を更新し、夢の扉をこじ開けたはずの男だった。
南海ツトムが砂のうえで眠っている。
遠くへと飛ばしたはずの打球は、一塁手のグラブのなかに収まっている。
「ア……アウト……」
塁審によってアウトが宣告され、横浜アイアンフェアリーズの敗北が決定した。
ツトムを打ち取り優勝を果たした朝日フライングバグスの選手たちは、戸惑いを隠せないまま花塚茂のいるマウンドに集まってきた。
球場のすべての視線がツトムに注がれていた。
無機物となって倒れたツトムの右手は、一塁ベースのわずか3センチ手前で停止していた。