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百瀬あかねの能力による生理痛。
そこから開放されたツトムは、4日ぶりの室内練習を終えてロッカールームにもどった。
二軍で肩の調整を行う同期スター、谷山ハルキがスパイクの紐を解いている。
「ハルキ。悪いんだけど、いま少し話せるかな」
「……ああ、かまわんよ」
谷山ハルキは驚いた様子でツトムを見つめた。
ふたりはそれ以上言葉を交わさなかった。
ロッカールームをでて、室内の内野グラウンド練習場に移動した。
「洋一、なんでついてきたんだ」
ふたりのあとにつづき、池畑洋一が室内グラウンドに姿を現した。
「ツトムさんとハルキさんが一緒だなんて、あとを追いかけるしかないでしょ」
ツトムと二軍で苦楽をともにする池畑洋一は、いまだ一軍登録の経験がない選手だ。
つぎこそはと毎年奮起しつづける池畑も、来年にはプロ5年目に突入する。
ツトム同様、今年はかろうじて戦力外通告を免れたものの、来年はリストの最上位に名を連ねるのは確実だった。
「それで? リフレッシュルームでもなく、居酒屋でもなく、俺をここに連れてきたってことは、とびきりの用件があるんだな」
「まぁ、そんなところだ」
球界のスターとなった同期の顔を、正面きって見るのは久しぶりだった。
いまやツトムとハルキの社会的地位は、天と地ほどの開きがある。
ハルキの顔を知る国民は数百万人に達し、南海ツトムの記憶が消えた人々もまた、数百万に達するだろう。
「ハルキ、肩の調整はどうだ。何割ほど回復した?」
「もうほとんど完治してる。あとは投球フォームの最終調整が終われば、日本シリーズには間に合いそうだ」
ハルキは自身の武器をたしかめるように、ゆっくりと肩を3度回した。
「対戦相手の朝日フライングバグスには、花塚投手がいるからな。ぜひハルキと花塚さんとの投げ合いが見てみたい。花塚さん来期からメジャーに移籍するし」
「俺も花塚さんとは投げ合ってみたいさ。でもな、いくらそう願ったとしても、肩の調整よりも大きな難関が立ちはだかってる」
「難関ってなんですか?」
と池畑洋一が言った。
「監督が俺を好きかどうか、という難関だ」
「その点は心配しなくてもいいさ。噂によると、監督は谷山ハルキのお尻がかわいいと言っていたらしい」
「その噂が事実であるのを祈るよ」
ツトムの心のなかには、スター街道を突き進むハルキへの嫉妬はもちろんあった。
またチームの勝利を心から望む気持ちもある。
しかし二軍生活があまりに長びいていて、もはや日本シリーズやチームの優勝が、自分とは関連のない別世界の出来事に思えることすらあった。
「……なあ、ハルキ。できることなら俺も、もう一度あの舞台に立ってみたいと思っている」
5年前の日本シリーズ第七戦。
あの日あの瞬間、自分の判断が正しかったのかを幾度となく自問しては眠れぬ夜を過ごした。
公式戦で二度の失神を起こしてからというもの、野球界から南海ツトムという名は消え、代わりに気絶王子という呼称だけが笑い草のように残った。
それから5年。
もはや気絶王子の名も人々の口の端にのぼることはない。
「洋一。かまえろ」
谷山ハルキは池畑洋一にそう言って、マウンドへと歩きだした。
池畑洋一はなにも言わずミットをつけて、キャッチャーズボックスに入った。
「ツトム。俺たちの世界は、勝った者だけが生き残れる冷酷な場所だ」
「そうだな」
「俺はいまのところ生き残っている。でも時々、この肩が爆発して花火があがる夢を見るんだ」
「滑稽な夢だな」
「あぁ、滑稽きわまりない夢だ。悪夢から目覚めたあと、肩を回し無傷であることにどれだけ安堵してきただろうか。
それでも、いくら気を使って大切にしても、なにかのはずみで筋の一本でも切れたら、すべては終わる」
「……そうだな」
ハルキは軽めの投球を行ったあと、徐々に球速をあげていく。
「ツトム。おまえは最近どんな夢を見た?」
「俺は――」
ツトムはバットを手にして素振りをはじめた。
一流投手を目のまえにして手にする木の棒の感触。
忘れたくない感触だった。
「俺は自分が目覚める夢をよく見る。チームメイトが俺にむけて叫んでる。早く起きあがって一塁まで走れってな。でも走りはじめた俺が目にするのは、一塁手のグローブに収まった真っ白なボールだ。
審判が申し訳なさそうに、しかし高らかにアウトを宣言する。とんでもない数の観客が、両手で頭を抱えている」
「そうか……」
パーン!
谷山ハルキの放った球が、軽快な音を立てた。
パーン!
室内に広がる残響音が止むよりもまえに、再びキャッチャーミットが大きな音を鳴らす。
谷山ハルキが公式戦さながらの球を投げている。
「さて、こっちは準備できたぞ」
「俺もオッケーだ」
ツトムはバットに一度視線を落としたあと、ゆっくりと打席に立った。