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ぎゅうっと身体を縮こまらせて屋根の上にうずくまっていたら、幻聴だろうか? 実篤に「くるみ!」と呼ばれた気がした。
「実篤……さん?」
ノロノロと顔を上げたらオレンジ色のボートがこちらへ向かって近付いてきているのが見えた。
ちゃんとエンジンも積んでいるんだろう。
水を掻き分けて進んでくるスピードが速い。
てっきり消防の人が助けに来てくれたんだと思ってホッとしたくるみだったけれど、暴風雨の音をかいくぐるようにして聞こえてくる声は、どう聴いても愛しい実篤の声。
「――くるみ!」
再度名前を呼ばれて、くるみは屋根の上で思わず上体を起こした。
と同時、一際強く吹き付けた風にあおられてよろめいて、 屋根から転げ落ちそうになってしまう。
「きゃっ!」と小さく悲鳴を上げながら慌てて屋根にしがみ付き直したら「危ないけぇ、そのままじっとしちょき!」と怒ったみたいな声が飛んできた。
くるみは実篤がこんな風に声を荒げるのを聞いたことがなかったから。
驚いてビクッと身体をすくませたけれど、決してそうされたことが不快だったわけではない。
家のすぐそばまでボートを付けてくれた実篤が、舟が流されないよう柱へ舫っているのが見えた。
「実篤さっ、……うち……」
実篤が屋根の上まで上がって来てくれて、ギュッと腕の中に抱き締められた瞬間、くるみは溢れ出す感情が抑えきれずに嗚咽する。
「連絡つかんけん、心配した! 無事でホンマ良かった!」
逃げ遅れたくるみを責めることなく、ただただ安堵の言葉をくれる実篤に、くるみはぎゅうっとしがみ付いて泣きじゃくる。
「うち……お父、さんとお母さ、んの……位、牌……持って出、れんかっ、た……」
途切れ途切れ。それがどうしても持ち出したくて無理をしたのだと告白した。
くるみの告白を聞いて、実篤は彼女を抱きしめたまま気付かれないよう息を呑んだ。
仏壇仏具は水にとても弱い。もちろん、位牌だって例外ではないから。
長く不動産業を営んでいれば、顧客の家が今のこの家のように水害にあって浸水した現場を見たことだって、一度や二度じゃない。
仏壇などは水に浸かれば金箔がはがれたりするし、渇いた後もカビが生えたりしやすくなる。
黒塗りされた部分も浸水で塗装が浮いたりしてでこぼこになったりと、修繕や買い替えを余儀なくされることが主流だ。
くるみが言う両親の位牌にしても、見つけたところで恐らくはもう――。
そう思いはした実篤だったけれど、だから諦めて?だなんて言えるわけがない。
くるみに、自分と同じようにライフジャケットを着せると、彼女の顔をじっと見つめた。
「くるみちゃん、今から下にとめてあるボートに乗るけんね? 足元滑りやすいし風も強いけぇ足滑らさんように慎重に降りんといけん。いい?」
位牌のことには一切触れずにそう告げた実篤に、くるみが涙目のままこくりとうなずいた。
自分が先に下へ降りて水の中。
くるみの足を肩で支えるように踏み台になって彼女を無事屋根から降ろすと、実篤はくるみをボートに乗せてビニール袋の中から銀色のアルミ製の防寒・防水シートを取り出した。
保温性にも防水性にも優れた災害用のそれで、くるみを頭からすっぽり被せるように包み込む。
そうして冷え切って冷たくなったくるみの唇にそっと口付けると、
「すぐ戻って来るけん。ここで動かずじっとしちょって? ええね?」
何度も何度も念押しするように言って、家の中へ入った。
家の中では浮力で浮いた家具があちこちに散乱していてなかなか前に進めなかったし、茶色く濁った泥水のせいで足元に何があるかもよく見えなかった。
ちょいちょい何かにつまずきそうになってはよろめいてしまう。
実篤は転んだりしないよう壁伝いにすり足で歩くと、程なくして仏間にたどり着いて――。
部屋の片隅に置かれた仏壇を見るなり、「良かった……」と、思わず安堵の吐息を漏らした。
幸いなことに、もともとくるみの家の仏間は地袋付で、仏壇下に背の低い袋戸棚がある形状だったから、 床から四〇センチばかり高くなったところに仏壇が置かれていた。
そこへ安置された木下家の仏壇は、仏像や掛け軸を安置する上段(本尊棚)、位牌を祀る位牌段、線香や蝋燭などを置く中段(太鼓棚)、仏具を置いてお供えものをする下段(膳棚)、下段の下に付いている薄い板状の引き出しの膳引の五段構造に分かれていたのだけれど、幸いにして水は膳棚のところでとどまってくれていた。
上の方にある位牌段のところまでは水に浸かっていなかったから、夫婦連名になっているくるみの両親の夫婦位牌も、二つ折りできるようになったシンプルな写真たてに入ったふたりの遺影も無事。
実篤はホッと胸を撫でおろすと、濡らしたりすることがないよう、持ってきたビニール袋を二重にして、丁寧に位牌と写真を入れて、元来た道をたどるようにしてゆっくりとくるみの待つ舟へと戻った。
***
実篤が屋内へ消えてからずっと。
ソワソワと落ち着かない様子で舟縁にしがみついていたくるみは、実篤の姿を認めるなりホッとしたように目一杯伸ばしていた身体を縮こまらせる。
そうして――。
「くるみちゃん、これ」
実篤が丁寧にビニールでぐるぐる巻きにした両親の位牌と遺影を手渡してくれた瞬間、大粒の涙をこぼして実篤に縋り付かずにはいられなかった。
それは雨が降っている中でもしっかり分かるほどのくしゃくしゃの泣き顔だったから、 実篤はボートに乗り込んですぐ、そんなくるみをギュッと腕の中に抱き締め直すと、今度こそホッとして肩の力を抜く。
――俺はね、くるみちゃんのことはもちろん、キミの大事なモンも全部……。出来るだけ沢山守っちゃげたいんよ。キミがいつも俺の横で笑っていられるように。
そう、心の中でつぶやきながら。