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——元カノへの未練を断ち切れない悠斗は、
スマホを握りしめながら「レンタル彼女」という選択に指を震わせ、
ついに予約ボタンを押す。
画面に《ご予約ありがとうございます》の文字が浮かび、
胸の奥で何かが確かに動いた。
待ち合わせは、駅前のガラス張りカフェ。
人波の中で、悠斗の心臓だけが異様に騒いでいた。
スマホの時計が約束の時刻を告げる。
その瞬間——。
「佐伯さん、ですよね?」
澄んだ声が耳をくすぐる。
振り向いた先、そこにいたのは写真の何倍も眩しい少女だった。
淡いピンクのワンピース、
光を受けて輝く黒髪。
完璧な微笑みを浮かべる彼女——美音。
「本日はご予約ありがとうございます」
丁寧なお辞儀とともに差し出される手。
その所作に、悠斗は一瞬、
“仕事”という現実を忘れそうになる。
席につくと、美音は柔らかく話題を振り、
悠斗の緊張を溶かしていく。
彼女の笑顔には、
ただのアルバイトでは説明できない温度があった。
——プロの距離感。
それなのに、なぜか近い。
カフェを出て、駅前のイルミネーション通りを歩く。
美音は“彼女”として自然に腕を絡め、
悠斗の歩幅に合わせて歩いた。
「大学って、どんなところなんですか?」
「え、あ、普通ですよ。課題多いけど……」
話すうちに、
彼女が仕事として聞いていることはわかる。
それでも悠斗は、
自分が“選ばれた”ような錯覚に囚われていた。
別れ際、美音がふっと微笑む。
「今日、楽しかったです」
たった一言。
その声が、悠斗の心にじわりと染み込んでいった。
駅前から少し離れた通りにある映画館。
初デートの締めくくりとして選んだ作品は、淡い恋愛映画だった。
暗い館内で肩を並べて座ると、美音の横顔がスクリーンの光に柔らかく浮かび上がる。
物語がクライマックスに差し掛かるころ、悠斗はスクリーンよりも隣にいる彼女のわずかな吐息に意識を奪われていた。
上映が終わり、明かりがつく。
「いい映画でしたね」と美音が微笑む。
その笑顔が、サービスの一環ではなくただの人間としての素直な感想のように見えた瞬間、悠斗の胸が熱くなる。
別れ際、彼女はごく自然に——
「今日は本当に楽しかったです」
と小さく告げた。
その声は、仕事としての「またお願いします」とは違う温度を帯びていた。
翌日、大学の講義室。
悠斗は何度もスマホを確認してしまう自分を持て余していた。
グループLINEでは、サークル仲間が週末の飲み会の話で盛り上がっている。
「悠斗、お前昨日どこ行ってたんだ?」
後ろの席から伸びてきた友人・健太の声に、心臓が跳ねる。
「ちょっとバイト……」
苦し紛れに返す。
本当のことを言えば、確実に冷やかされる。
レンタル彼女——その言葉だけでからかいのネタになるのはわかっていた。
講義が終わるころには、心の中で何度も「秘密」という言葉が膨らんでいた。
週末の夜。
居酒屋の暖簾をくぐった瞬間、悠斗の目に飛び込んできたのは、
かつての恋人——彩花だった。
同じゼミ仲間のひとりとして当たり前の顔でそこに座る彼女。
「久しぶり」と笑いながらグラスを差し出してくる。
平静を装いながらも、悠斗の頭には昨日の美音の笑顔がよみがえる。
彩花の何気ない仕草に過去の記憶が疼く。
だが同時に、あの映画館で感じた温もりが
「もう戻る場所ではない」と囁くようだった。
数日後。
悠斗は再びレンタル彼女アプリを開き、指が自然に美音の名前を選んでいた。
今回は夜景の見える公園をリクエスト。
冬に向かう冷たい風が、二人の吐息を白く染める。
「ここ、私も好きなんです」
美音がマフラーを押さえながら言った。
悠斗は胸の奥の迷いを、少しだけこぼした。
「……元カノに、まだ引きずってるって思われたくなくて」
美音は驚いたように目を瞬かせ、そして柔らかく笑った。
「大丈夫です。佐伯さんは、ちゃんと前を向いてます」
その言葉が、夜景よりも心を照らした。
デートの帰り道、駅の改札口。
別れ際、悠斗が名残惜しさから言葉を探していると、
美音は一瞬で表情を切り替えた。
「本日はありがとうございました」
完璧な営業スマイル。
昼間見せたあの柔らかな笑みが消え、
プロとしての“レンタル彼女・美音”がそこにいた。
悠斗は胸の奥に小さな空洞を感じながら、
改札を抜けていく彼女の後ろ姿をただ見送った。
数日後。
大学の図書館でレポートを書いていた悠斗は、
書棚の向こうに見覚えのある黒髪を見つけた。
——美音?
心臓が跳ねる。
しかし彼女は学生証を首から下げ、
音楽学部の名札をつけて友人と笑っていた。
悠斗と目が合った瞬間、
美音はわずかに目を細め、
何もなかったように視線を外した。
“大学では知らないフリをして”——
初デートの日に念を押された言葉が蘇る。
図書館を出たところで、
幼なじみの莉子が声をかけてきた。
「最近、なんか雰囲気変わったよね」
彼女は悠斗の表情をじっと覗き込む。
「え、そう?」
「うん。前より顔が明るいっていうか……誰かいい人でもできた?」
心の奥を突かれ、悠斗は慌てて笑ってごまかす。
美音の存在を胸に秘めながら、
自分が変わり始めていることを否応なく実感していた。
授業が終わった午後、悠斗は図書館の隅でスマホを取り出した。
予約画面に並ぶ美音のスケジュールは、ほとんど埋まっている。
空いているわずかな一枠を見つけた瞬間、指が自然に動いた。
2回目の依頼。
カフェで待ち合わせると、美音は柔らかな笑顔で迎えてくれる。
「また会えてうれしいです、佐伯さん」
その一言に、悠斗は胸の奥が温かくなるのを隠せなかった。
前回よりも自然に話が弾む。
趣味や好きな映画、子どもの頃の夢。
ほんの数時間で、距離が少しずつ近づいていくのを悠斗は確かに感じていた。
帰り道、美音がふと表情を引き締めた。
「佐伯さん、あの……ひとつだけ」
彼女はバッグから小さなカードを取り出した。
そこには、レンタル彼女サービスの規約が印字されている。
「このお仕事、恋愛は禁止なんです。
私たちに好意を持たれても、お応えすることはできません」
その言葉は、まるで見えない壁を突きつけるようだった。
悠斗は小さくうなずきながらも、胸の奥に淡い痛みを覚える。
——それでも、彼女をもっと知りたい。
翌週のサークルミーティング。
仲間の一人が突然、声を上げた。
「なあ、この前駅前でめちゃくちゃ可愛い子見かけたんだよ。
誰かに似てた気がするんだけど……」
悠斗の背筋が凍る。
彼らが話している特徴は、美音にそっくりだった。
「もしかして、大学の誰かじゃない?」
そんな冗談混じりの推測が飛び交うたび、
悠斗は笑顔を装いながらも心の中で冷や汗をかいていた。
サークル帰りの夕暮れ、
駅前のコンビニで買い物をしていると、
レジ近くから聞き覚えのある声が聞こえた。
「……澤村美音さん、お待たせしました」
店員が呼んだ名前。
振り向くと、バッグを受け取る美音の後ろ姿があった。
悠斗は慌てて棚に身を隠したが、
その名前が頭の奥に焼き付いて離れない。
——澤村、美音。
レンタル彼女としての“美音”とは違う、
彼女の現実を垣間見た気がした。
夜の書店アルバイト。
悠斗の先輩で、どこか人懐っこい雰囲気を持つ蒼井が
レジに並ぶ客を見て、にやりと笑った。
「おい悠斗。お前、最近女関係いい感じじゃね?」
「え、な、なんでですか」
「なんか顔が変わったっていうか。
彼女でもできた?」
からかうような視線に、悠斗は慌てて首を振る。
だが蒼井の勘の鋭さは侮れない。
その瞳は、悠斗が抱える秘密の存在を
薄々察しているように見えた。
次のデートの終盤。
美音はカフェのテラス席で、
真剣なまなざしを向けてきた。
「佐伯さん、もし大学で私を見かけても……
知らないフリをしてほしいんです」
悠斗は胸の奥がざわついた。
彼女の声は少し震えていた。
「仕事のこと、大学の友達には絶対知られたくないんです」
「わかりました。約束します」
悠斗は即座に答えた。
その瞬間、ふたりの間に生まれたのは
ただの“客とキャスト”を超えた秘密の契約だった。
ゼミの教授から突然告げられた
「夏休み合宿」の計画。
友人たちが楽しげに旅行先や夜のイベントを話し合う中、
恋愛話が自然と飛び交う。
「悠斗はどうする?
元カノと同じ班になったらチャンスじゃん」
冗談混じりの声に、悠斗は曖昧に笑う。
心の奥では、
——俺にはもう、気になる人がいる
その言葉を何度も飲み込んだ。
ある夜、書店を閉めて帰る途中。
駅前のバス停に、美音の姿があった。
仕事帰りらしく、いつもの清楚な服装ではなく
ラフなパーカー姿。
「佐伯さん?」
「澤村さん……!」
二人とも、思わず本名を口にしてしまった。
周囲に人影はない。
バスが来るまでのわずかな時間、
ふたりは“大学の顔”として
静かに言葉を交わした。
その数分が、悠斗には
これまでのどのデートよりも濃く感じられた。
帰宅後、悠斗はスマホを見つめた。
メッセージの通知——美音から。
《さっきはびっくりしました。
でも……少し嬉しかったです》
心臓が跳ねる。
彼女が自分にだけ本名を晒し、
偶然を“特別な出来事”として共有してくれたことが、
ただの客としての扱いではないように思えた。
次のデート。
夜風の吹くベンチに並んで座るふたり。
美音はふと、視線を落としながら
「佐伯さんって、不思議な人ですね」
とつぶやいた。
「どうして?」
「お客さんなのに……なんだか、
本当の友達みたいに話せるから」
その言葉と同時に、
美音が見せた小さな微笑み。
それは“レンタル彼女”という枠を
ほんの少しだけ崩す、
確かなぬくもりだった。
夏休みのはじまりを告げる蝉の声が、キャンパスを包んでいた。
ゼミとサークル合同の二泊三日・海辺旅行。
大学の掲示板に張られた参加者リストには、悠斗の名前と、かつての元カノ・真奈の名前が並んでいた。
集合場所のバスロータリー。
荷物を肩にかけた仲間たちが、浮き立つ声で海への期待を語り合う。
悠斗は笑顔を装いながらも、胸の奥で別のことを考えていた。
——もし、彼女がここに来ていたら。
澤村美音。
レンタル彼女としてではなく、
大学生として同じ旅行に参加していたら。
その考えを打ち消すように、
バスのエンジン音が響き渡った。
バスが高速道路を走り出す。
仲間たちがトランプやお菓子で盛り上がる中、
悠斗は窓の外に流れる青い空を見つめていた。
「悠斗、隣いい?」
声をかけてきたのは、幼なじみの莉子。
彼女は柔らかい笑顔を浮かべながら、
「最近、なんか雰囲気変わったよね。
いいことあった?」と小声で聞いてきた。
悠斗は曖昧に笑い、
心の奥にしまった“レンタル彼女”の存在を
慎重に隠す。
到着した民宿は、白い砂浜の目の前に建っていた。
潮の香りと波音が、日常を遠くに押しやる。
夕方、仲間たちとビーチバレーを楽しむ中、
悠斗はふと遠くに目をやった。
——見覚えのある後ろ姿。
ワンピースに日除け帽子、
海風に揺れる長い髪。
心臓が一瞬、跳ね上がる。
美音——。
次の瞬間、その人物が振り返り、
見知らぬ女性だと気づく。
安堵と失望が入り混じる胸の鼓動を、
悠斗は誰にも悟られないよう押し殺した。
夕食は海辺のバーベキュー。
焼き網を囲む仲間たちの笑い声が
夜の砂浜に響き渡る。
元カノの真奈が、
「悠斗、焼きそば作るの上手だったよね」
と懐かしそうに声をかけてくる。
莉子はその会話を無言で聞きながら、
ビール缶を握りしめていた。
ふと見上げた星空に、
悠斗は美音の横顔を思い浮かべる。
今この瞬間、彼女はどこで何をしているのか。
バーベキューが終わり、
波の音だけが支配する深夜の砂浜。
莉子が静かに隣に腰を下ろした。
「悠斗、最近……誰か好きな人、いる?」
突然の問いに、心臓が跳ねる。
「え、なんで?」
「なんとなく。
顔が、誰かを想ってる顔してるから」
悠斗は返事に迷いながらも、
「まだ……自分でもよくわからない」
とだけ答えた。
莉子は小さく笑い、
夜風に髪を揺らしながら
「その人、大切にしてね」とつぶやいた。
部屋に戻った悠斗のスマホが震える。
画面には、美音からのメッセージ。
《お仕事終わりました。
海の写真が撮れたので送りますね》
添付された画像には、
淡い夕暮れの海岸と、
ピースサインをする美音の横顔。
——まるで心を見透かされたようなタイミング。
胸の奥で、
この人に会いたいという想いが
静かに膨らんでいく。
朝焼けに染まる海辺を一人で歩く悠斗。
波打ち際に足を浸しながら、
昨夜の莉子の言葉と
美音の写真が頭の中で交錯する。
レンタル彼女という“契約”の中で、
自分はどこまで踏み込んでいいのか。
その問いが、
波の音とともに何度も押し寄せてくる。
夏休みの終わりを告げる大きな花火大会。
駅前は浴衣姿の人々であふれ、夕暮れの空が期待に染まっていた。
悠斗は、約束の待ち合わせ場所で胸の奥がざわつくのを感じていた。
レンタル彼女の予約画面に映る名前——佐伯美音。
その横に並ぶ《花火大会デートプラン》の文字。
仕事として依頼した時間。それでも心臓は、ただの契約以上の鼓動を打っていた。
「悠斗さん、待ちました?」
振り返った瞬間、視界が一気に明るくなる。
薄紫の浴衣に白い帯、髪には小さな簪。
普段の清楚な私服とはまるで違う、
花火よりも華やかな美音がそこにいた。
「……すごい、似合ってます」
思わずこぼれた言葉に、美音が小さく笑う。
「お仕事ですから、がんばりました」
そう言いながらも、彼女の頬がわずかに赤く染まっているのを悠斗は見逃さなかった。
会場へ続く川沿いの道は、屋台の光で賑わっていた。
射的の音、焼きとうもろこしの香ばしい匂い、
人混みの中で美音の浴衣の袖がそっと悠斗の手に触れる。
「人多いですね」
「……迷子にならないように」
その言葉と同時に、美音の指先がわずかに悠斗の手を探り、
ほんの一瞬だけ、二人の指が絡んだ。
夜空に一発目の花火が弾ける。
ドン、と腹に響く音に、
悠斗の心臓がさらに大きく跳ねた。
花火が次々に夜空を染める中、
川辺のベンチで並んで座る二人。
「悠斗さん、今日……予約してくれてありがとうございます」
美音が少しだけ視線を伏せて言った。
「最近、予約が取りづらくなってて……
でも悠斗さんが選んでくれるの、うれしいです」
“選ぶ”“うれしい”
それは仕事上の言葉かもしれない。
けれど、その声の震えが
ただのサービスだけではない何かを示していた。
悠斗は花火を見上げながら、
心に押し込めていた言葉をこぼす。
「俺……美音さんといる時間、
ほんとに楽しいです。
仕事じゃなくても……会いたいって思ってしまう」
花火の光が、美音の横顔を一瞬だけ照らす。
彼女は驚いたように目を見開き、
そして——ほんの少し、微笑んだ。
「……私も、です」
その声は、
大輪の花火にかき消されて
誰にも届かない。
ただ二人だけが、その小さな奇跡を
確かに聞き取っていた。
人波の帰り道、
川沿いの風が浴衣の裾を揺らす。
美音がふと立ち止まり、
「さっきの……忘れてくださいね。
お仕事中のセリフ、ってことにしておきます」
と冗談めかして言った。
でもその目は、
どこか寂しげに笑っていた。
悠斗はただ、
その手をもう一度取りたい衝動を
必死に抑えながら歩き続けた。
夏休みが終わり、蒸し暑さが残るキャンパス。
久々に友人たちと顔を合わせ、悠斗はゼミ室へ向かっていた。
レンタル彼女との日々は、まるで遠い夢のように感じられる。
——そのはずだった。
掲示板の前、人だかりの向こう。
鮮やかな栗色の髪が、風に揺れた。
美音——。
淡いベージュのカーディガンに、
膝丈スカートという控えめな服装。
浴衣姿とは違う“大学生の顔”がそこにあった。
思わず足が止まる。
けれど周囲にはゼミ仲間がいて、
「悠斗? どうした?」と声をかけられ、
悠斗は慌てて視線を逸らした。
その日の授業終わり。
悠斗のスマホが震える。
《少し話したいことがあります。
学内の裏庭に来られますか?》
差出人は——佐伯美音。
胸が跳ねる音を押し殺しながら、
人通りの少ない裏庭へ向かう。
木陰のベンチに、美音が立っていた。
学内で見る彼女は、
レンタル彼女の“完璧な微笑み”とは違う。
少し緊張した面持ちに、
かすかな素顔が透けて見える。
「ここでは……“お客さん”じゃなくて、
普通に佐伯さんって呼んでいいですか?」
美音が小さな声で切り出した。
「もちろん。でも、ここで会うの……大丈夫?」
「本当は良くないんです。
サービスの規約で、学内では
“知らない人のふり”をしないといけないから」
美音はベンチに腰を下ろし、
夕暮れの風に髪を揺らしながら続けた。
「でも、このままだと……
いつか誰かに見つかるかもしれない。
だから、お願いがあります」
「お願い?」
「もしキャンパスで会っても、
私のことは“ただの知り合い”として扱ってください。
名前も呼ばないで。
仕事のことも絶対に言わないでほしいんです」
その声は、仕事の規則を超えた
切実な響きを持っていた。
悠斗は迷わずうなずく。
「わかった。誰にも言わない」
美音はほっと息をつき、
そして小さく笑った。
「ありがとうございます。
悠斗さんなら、そう言ってくれると思ってました」
その微笑みは、
仕事の顔ではなく——
心から信頼している人だけに向ける、
素の笑顔だった。
日が沈み、裏庭をオレンジ色の光が染めていく。
二人の影がベンチの上で重なり、
悠斗は言葉を選びながらつぶやいた。
「俺、美音さんのこと……
もっと知りたいです」
美音は一瞬、驚いたように目を見開いたが、
すぐに柔らかく視線を伏せた。
「……私も、悠斗さんには
もう少しだけ、知ってほしいかもしれません」
蝉の声が遠くで鳴き止み、
キャンパスに静けさが広がる。
それは、
ただのサービスから一歩踏み出す
小さな約束のようだった。
裏庭での約束から数日後。
悠斗は、学食の窓際でノートパソコンを開きながら、
夏休みの旅行レポートをまとめていた。
しかし、文字を打つ指は何度も止まり、
頭の中では、美音の笑顔が何度も再生されていた。
「悠斗」
背後から聞き慣れた声がする。
振り向けば、莉子がトレイを持って立っていた。
「ここ、いい?」
「もちろん」
幼い頃から隣同士で育った彼女。
昔から見慣れたはずの笑顔なのに、
どこか探るような光を帯びている。
「最近さ……なんか雰囲気変わったよね」
「え?」
「旅行のときも思ったけど、
前より顔が生き生きしてるっていうか。
いいことあった?」
莉子は箸を動かしながら、
何気ないふりをして視線を外さない。
悠斗は咄嗟に笑ってごまかす。
「いいことってほどじゃないよ。
でも……まあ、ちょっと頑張ってるだけ」
「頑張ってる?」
「文学賞にまた挑戦しようと思って」
「そっか。いいじゃん、それ」
莉子は笑顔を見せながらも、
どこか腑に落ちない表情を浮かべていた。
学食を出て、図書館へ向かう道。
莉子は足を止め、
少しだけ真剣な声で言った。
「悠斗、嘘ついてない?」
胸がドキリと鳴る。
「え、何が?」
「頑張ってるのは本当なんだろうけど……
それだけじゃないでしょ。
顔が“誰かを見てる顔”になってる」
悠斗は返す言葉を失い、
視線を逸らすしかなかった。
莉子は小さく息をつき、
それでも笑みを崩さずに続けた。
「別に無理に言わなくていいよ。
ただ……その人、大切にしてあげてね。
悠斗、昔から自分のこと後回しにするタイプだから」
その言葉は、
幼なじみとしての優しさか、
それとももっと別の想いか——。
悠斗は胸の奥が熱くなるのを感じながら、
ただ静かにうなずいた。
図書館に入ってからも、
莉子の言葉が耳に残り続けた。
——“誰かを見てる顔”
美音の横顔が脳裏をかすめる。
秘密を守るために、
莉子には何も言えない。
それでも、
莉子にだけは見抜かれている。
胸の奥に生まれた小さな罪悪感と、
美音への想いが、
静かに混ざり合っていく。
秋風がキャンパスを渡る夕暮れ。
講義を終えた悠斗のスマホが震えた。
《今日、少しだけお話しできませんか?》
送信者は美音。
約束の場所は、夏に何度も歩いた川沿いのカフェ。
レンタル彼女としての“予約”ではない。
ただのメッセージ。
それだけで、悠斗の胸が異様に高鳴った。
日が沈みかけたカフェのテラス席。
夕焼けに染まる髪が風に揺れる。
普段よりも少し疲れた表情の美音が、
カップを両手で包みながら小さく笑った。
「急に呼び出してすみません」
「全然。何かあった?」
少しの沈黙。
氷がカランと鳴り、
美音の瞳がゆっくりと悠斗を見た。
「……私、実はレンタル彼女のバイトを始めたの、
家計のためなんです」
美音は、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「父が、少し前に会社をたたんで……
借金が残ったまま、行方がわからなくなって。
母と私で返済を続けてるんです」
淡々と語ろうとする声が、
時折かすかに震える。
「音楽を専攻してるけど、
学費も生活費も全部、自分でなんとかしなきゃいけなくて。
普通のバイトじゃ追いつかなくて……
この仕事を選びました」
レンタル彼女という“完璧な笑顔”の裏にある、
重くて切実な現実。
悠斗は息を呑む。
美音の微笑みが、
ただの“仕事用の仮面”ではなく、
自分や家族を守るための盾だったことを、
痛いほど理解した。
「こんな話、誰にもしたことないんです」
美音がカップを見つめたまま続けた。
「でも……悠斗さんには、知っていてほしいと思って」
悠斗は迷わず、
テーブル越しに手を伸ばした。
「美音さん……」
その手を、彼女は驚いたように見つめ、
ほんの一瞬だけ、
ためらいながらも握り返した。
冷たくなった指先に、
確かな温もりが重なる。
「ありがとう」
その一言が、
今までのどんな笑顔よりも
美音の心の奥を映していた。
別れ際、美音が小さくつぶやいた。
「……今日のことは、
お仕事とは関係ない、
本当の私の話です」
その声は、
契約の線を越えて、
悠斗だけに差し出された信頼そのものだった。
悠斗はただ、
その背中を見送りながら胸の奥で誓った。
——俺が、絶対に守る。
川沿いの風が秋の匂いを運び、
夜の帳がゆっくりと二人を包み込んでいった。
秋学期が本格的に始まり、
キャンパスは学祭準備でざわつき始めていた。
悠斗はゼミの掲示板に資料を貼りながら、
背後から聞こえてくる会話に耳をとめた。
「なあ、昨日駅前でさ、
めちゃくちゃ可愛い子見かけたんだよ」
「誰?」
「なんか、モデルみたいな雰囲気で……
確か同じ大学の学生っぽかった」
軽い話題として流れていくその会話。
だが、その子の特徴を聞いた瞬間、
悠斗の心臓が跳ねた。
——長い黒髪、白いワンピース、
柔らかい声。
美音だ。
サークル室。
ゼミ仲間の宏樹がスマホを見せながら話を続ける。
「ほら、この写真。たまたま撮れたんだけど」
画面に映っていたのは、
レンタル彼女として“完璧な笑顔”を浮かべ、
男性客と並んで歩く美音の姿。
——まずい。
喉がひりつくような緊張が走る。
「ねえ、この子、文学部にいない?
見覚えあるんだよな」
宏樹の視線が、
ゆっくりと悠斗へ向いた。
「悠斗、お前、知ってる?」
息が詰まる。
脳内で答えを探すが、
何を言っても不自然になる気がした。
「……さあ、どうだろう」
乾いた声が口をついて出る。
「同じ大学の子かもしれないけど、知らないな」
宏樹はじっと悠斗を見たが、
すぐに肩をすくめた。
「まあ、可愛い子なんていっぱいいるしな。
芸能関係かも」
周囲の興味はすぐ別の話題へ移っていった。
——助かった。
胸の奥で安堵が弾けたが、
同時に苦い痛みが広がる。
守りたいのに、
守るために嘘をついている自分。
秘密を抱えたまま、
悠斗はただ、拳を強く握りしめるしかなかった。
その夜、悠斗はスマホを手に
何度もメッセージ画面を開いては閉じた。
——伝えるべきか。
——でも、美音を追い詰めてしまうかもしれない。
心の中で揺れる言葉が、
打てない文字として指先を凍らせる。
そのとき、
ふいに着信音が鳴った。
《今日、大学で私のこと……見られましたか?》
送信者は美音。
まるで全てを見透かしているかのようなメッセージに、
悠斗の鼓動はさらに速くなった。
翌日、サークル室の空気がどこか落ち着かない。
悠斗が入ると、男子メンバーの一人・佐伯が
ひときわ大きな声で話していた。
「昨日の子、やっぱ同じ大学だって!
駅前で見たやつが、ほかの学部でも噂になってる」
周囲がざわつく。
「本当かよ」「どこの学部?」
興味を隠さない視線が飛び交い、
悠斗の背筋に冷たい汗が伝った。
佐伯はスマホを見せながら続ける。
「SNSにも出てるんだ。
名前まではわかんねえけど、
“レンタル彼女じゃね?”ってコメントもあった」
——レンタル彼女。
その言葉が鋭い刃のように胸を突く。
「文学部にも知ってるやついないの?」
佐伯がゼミ仲間に目を走らせる。
その視線が、悠斗にも向けられた。
「悠斗、お前文学部だろ?
なんか知らない?」
視界の端で宏樹がちらりと悠斗を見た。
昨日の会話が脳裏に蘇る。
「さあ……俺もよくわかんない」
唇が乾き、声がわずかに震えた。
佐伯は興味を隠さず、
「でもさ、あの子マジで可愛いよな。
一回くらい話してみたいわ」
と、にやりと笑った。
胸の奥で何かがきしむ。
守らなければ、という衝動が
言葉をのみ込ませる。
講義が終わると同時に、
スマホが震えた。
《今日、また誰かに見られたかもしれません》
——美音からだ。
悠斗はすぐに返信する。
《サークル内で噂が広がってる。
でも俺は何も言ってない》
数秒後、
《ありがとうございます。
でも、もう私のことは守らなくて大丈夫です》
その一文が、
かえって胸を締め付けた。
——本当は守りたい。
でも、守れば守るほど
彼女を追い詰めてしまうのかもしれない。
帰り道、悠斗は夜風に顔をさらしながら
自分に問い続けた。
俺はただの客なのか。
それとも——
胸に芽生えた独占欲と、
彼女の自由を守りたい気持ち。
そのどちらも否定できないまま、
悠斗はただ、
秋の夜の街を歩き続けた
授業が終わり、キャンパスが静まり返った夜。
悠斗は人影のない中庭で、
スマホを見つめながら足を止めた。
《少しだけ話せますか?》
美音からの短いメッセージ。
冷えた秋風に揺れる木々の向こう、
白いカーディガンを羽織った美音が
月明かりに照らされて立っていた。
「……噂、聞きました」
美音の声は、夜気に溶けてかすかに震えていた。
「佐伯さんって人が、写真まで出してるそうですね」
悠斗は言葉を探しながら、
自分の両手を握りしめた。
「俺、何も言ってない。
絶対に君のことをバラしたりしない」
美音は小さく頷く。
しかし、その表情には
ほっとした色よりも、
どこか苦い決意が滲んでいた。
「悠斗さん……」
美音は一歩近づき、
夜露に濡れた芝生を見つめながら言った。
「あなたが守ろうとしてくれるのは、
本当にうれしいです。
でも、私が選んだ仕事なんです。
だから——」
その声がわずかに揺れる。
「だから、守られるだけじゃ、
私、前に進めない」
悠斗の胸が熱くなる。
守りたい、けれど彼女は
誰かに守られる存在ではなく、
自分の足で立とうとしている。
「美音……」
悠斗は月光に照らされた彼女を
まっすぐ見つめた。
「それでも、俺は——
君を傷つけたくない」
美音は少し驚いたように目を見開き、
ふっと微笑んだ。
「悠斗さんって、
本当に不器用ですね」
柔らかな声とともに、
彼女の笑顔が夜に溶けていく。
その距離はわずか一歩。
だけど、心の奥では
何かが確かに近づいていた。
「噂のことは、私もできる限り対処します」
美音はそう言って
カーディガンを軽く押さえた。
「でも、もし——
何かあったら連絡していいですか?」
「もちろん」
悠斗は即答した。
その瞬間、
月明かりの下で交わした視線が
言葉以上の約束を刻んでいた。
学祭準備が本格的に始まり、
キャンパスのあちこちから楽器の音や笑い声が響いていた。
悠斗のサークルも模擬店の企画で慌ただしく、
教室にはポスターや装飾の材料が散らばっている。
その中で、音楽系サークルのステージ企画担当が
「ピアノの伴奏が足りない」と困り顔をしていた。
「知り合いに弾ける子いない?」
誰かがつぶやいたそのとき、
悠斗の心に一つの顔が浮かぶ。
——美音。
「もしかしたら、知ってるかもしれない」
気づけば悠斗は口を開いていた。
美音の本業はピアノではなく声楽だが、
以前カフェで見せた即興演奏は忘れられないほど美しかった。
「その子、弾けるの?」
「まあ、ちょっとね……」
宏樹がニヤリと笑う。
「なんか最近の悠斗、顔が柔らかいな。
誰か紹介してくれるってこと?」
悠斗は曖昧に笑い、
深く追及されないうちに話題を切り上げた。
後日、練習室に現れた美音は、
レンタル彼女としての“完璧な笑顔”ではなく、
音楽を愛する一人の学生の顔をしていた。
「今日はピアノでお手伝いします。
よろしくお願いします」
その澄んだ声が響いた瞬間、
部屋の空気が一変する。
音楽サークルのメンバーが思わず息をのむ。
鍵盤に指が触れると、
透明な音が流れ出した。
ただの伴奏練習のはずが、
誰もが息を止めて聴き入ってしまうほどの旋律。
練習が終わるころ、
音楽サークルの部長が感嘆の声を上げた。
「美音さん、あなた本当に学生?
プロレベルですよ」
美音は少しだけ頬を染めて微笑む。
「いえ、趣味の延長です」
その謙虚さが、かえって人を惹きつける。
廊下で待っていた悠斗の胸に、
静かな誇らしさが広がった。
——誰かに自慢したくなるほど、
彼女は眩しい。
練習室を出た美音は、
悠斗に小さく手を振った。
「紹介してくれてありがとう」
「こっちこそ……
君の演奏、すごく良かった」
夜のキャンパスを背景に、
二人の視線がふっと重なる。
そこには仕事も噂も関係ない、
ただ音楽と大学生としての素顔だけがあった。
学祭当日。
ステージ近くは学生たちのざわめきで溢れていた。
悠斗は模擬店の手伝いを終えると、
音楽ステージの裏手へと足を運ぶ。
——美音の演奏、どうしても聴きたかった。
カーテンの隙間から覗いた練習室。
そこに、見慣れた背の高い男子が立っていた。
佐伯だ。
佐伯はステージスタッフの腕章を着け、
にやりとした笑みを浮かべながら
美音に話しかけていた。
「君、文学部の子だよね?
この前駅前で見かけたんだけど、
本当に綺麗だな」
佐伯の声は、
観客のざわめきにかき消されそうでいて、
悠斗の耳にははっきりと届いた。
美音は控えめに微笑みながらも、
わずかに距離を取ろうとしている。
「ありがとうございます。
でも、もうすぐ本番なので——」
「緊張してる?
良かったら終わったあと、一緒に回らない?」
——やめろ。
悠斗の胸の奥で、
焦燥と怒りが同時に膨らんでいく。
気づけば悠斗の足は
無意識にカーテンの向こうへと動いていた。
「佐伯」
思った以上に強い声が出た。
佐伯が驚いた顔で振り向く。
「悠斗? お前こそなんでここに——」
「スタッフ以外、舞台裏は立ち入り禁止だろ。
美音さんも準備があるんだ」
あえて“美音さん”と呼び、
客でも恋人でもない“ただの学内仲間”として
線を引く。
佐伯は一瞬、
面白くなさそうに眉をひそめたが、
「へえ……そういう仲か」
とだけ言い残し、
腕章を揺らして去っていった。
残された空気に、
かすかな緊張が残る。
美音はピアノ椅子の背をそっと握り、
小さく息を吐いた。
「ありがとうございます……助かりました」
その瞳は、
感謝と同時にどこか複雑な色を帯びていた。
「ごめん、勝手に出てきて」
悠斗は眉を下げた。
美音は首を横に振る。
「いいえ……正直、心強かったです」
その言葉に胸が熱くなる。
だが同時に、
“守るだけではいけない”という
あの夜の会話が頭をよぎった。
——今度は、
彼女が自分で立つ力を
ちゃんと信じて支えたい。
舞台袖に流れるスポットライトの光が、
二人の決意を静かに照らしていた。
学祭ステージが終わった夜。
キャンパスに広がる賑やかな喧騒が、
少しずつ遠ざかっていく。
後片づけを終えた悠斗は、
音楽棟の裏にある小さな中庭へと足を運んだ。
昼間は人であふれていた場所も、
今は月明かりと芝生の匂いだけが残っている。
ベンチに座る白い影。
美音がピアノ演奏の衣装のまま、
水の入った紙コップを両手で包んでいた。
「お疲れさま」
悠斗の声に、美音が顔を上げる。
「悠斗さんも。
来てくれてありがとうございました」
その笑顔は、
レンタル彼女としての“完璧な微笑”ではなく、
舞台をやり遂げた一人の学生のものだった。
「演奏、すごかった。
あんなにたくさんの人が息を呑んでた」
美音は少し恥ずかしそうに俯いた。
「緊張しました。
でも、悠斗さんが見てくれてるって思ったら——
不思議と力が出てきて」
秋の夜気が二人の間を抜け、
髪を揺らしていく。
悠斗は紙コップを受け取り、
ベンチに腰を下ろした。
ほんの数センチの距離。
その近さが、
言葉よりも大きな温もりを伝えてくる。
「今日、舞台裏で……ありがとう」
美音の声がかすかに震える。
「本当は、自分で何とかしなきゃって思ってたのに、
あの時だけは、悠斗さんがいてくれて
すごく安心しました」
「俺こそ、勝手に出てごめん」
悠斗は小さく笑った。
「でも、君が困ってる顔を見てたら
どうしても動かずにいられなかった」
美音は一瞬ためらい、
それから小さく息を吸った。
「悠斗さんって……
優しいですね」
その言葉は、
秋の夜の空気よりも柔らかく、
胸の奥をあたためていく。
言いたいことが喉までこみ上げたが、
悠斗はただ、
その瞳を見つめるだけだった。
——まだ告げるには早い。
でも、確かに何かが
ここから始まっている。
「明日も学祭ですよね」
美音が紙コップを捨てながら言う。
「もし時間があれば……
一緒に回れたらうれしいです」
その一言に、
悠斗の心臓が跳ねた。
「もちろん。
楽しみにしてる」
夜空に浮かぶ月が、
二人の小さな約束を
やさしく照らしていた。
翌朝、大学のキャンパスは昨日よりもさらに賑やかだった。
模擬店から漂う甘い香りと、
ライブステージから響く軽快なバンドサウンド。
秋晴れの空がまぶしい。
悠斗は待ち合わせ場所の噴水広場に立ちながら、
胸の奥の高鳴りを押さえきれなかった。
昨日の夜、美音から「一緒に回りたい」と言われてから、
この数時間がどれほど長く感じられたか。
時計の針が約束の時間を指す。
人混みの向こうから、
カジュアルなブラウスに薄いベージュのカーディガンを羽織った美音が
小走りでこちらに向かってくるのが見えた。
「ごめんなさい、待ちました?」
息を弾ませながらも、柔らかい笑み。
昨日の舞台衣装とは違う、
学生らしい自然体の美音に、悠斗の胸はまた高鳴る。
「どこから回ります?」
美音がパンフレットを広げながら尋ねる。
「まずは……このたこ焼き、めっちゃ行列できてるけど評判らしい」
「じゃあ並びましょう」
行列に並びながら、
二人は昨日の演奏やサークルの話、
ゼミでの出来事などを自然に語り合う。
レンタル彼女としての“仕事の顔”ではない、
ただの大学生・美音としての声が耳に心地よかった。
熱々のたこ焼きを受け取った美音が、
ふうふうと息を吹きかけながら小さくかぶりつく。
「熱っ……でもおいしい」
その無防備な表情に、悠斗の視線は吸い寄せられた。
次は射的、次は縁日風のアクセサリー屋台。
どのブースでも美音は子どものような笑顔を見せた。
悠斗はその一つひとつを胸に刻みながら、
「これがただの友達同士の学祭だったら」
と何度も思ってしまう。
人混みを抜けると、
学内の小さな庭園にたどり着く。
人影が少なく、秋の風がやわらかく吹き抜ける。
「静かですね」
美音が小さくつぶやいた。
「昨日の夜を少し思い出します」
悠斗はベンチに腰を下ろし、
「美音さんとこうやって普通に歩けるの、
なんか夢みたいだ」
と正直な言葉をこぼしてしまう。
美音は一瞬だけ驚いたように目を見開き、
そしてふわりと笑った。
「私も……そう思ってました」
キャンパスを後にするころ、
夕暮れの空が金色に染まっていた。
「今日は楽しかったです」
美音がそっと言う。
「学祭って、こんなに誰かとゆっくり回るの初めてで」
悠斗は返事の代わりに、
ほんの一瞬だけ隣を歩く美音の肩に視線を落とす。
触れそうで、触れない距離。
そのわずかな空白が、
心臓の鼓動を強くしていく。
「また……来年も、一緒に回りたいな」
思わずこぼれたその言葉に、
美音は静かにうなずいた。
「……私も」
別れ際、正門前。
人の波が二人をゆっくりと分けていく。
美音は小さく手を振りながら、
「気をつけて帰ってくださいね」
と微笑んだ。
その笑顔は、
レンタル彼女としての作り物ではない。
昨日の舞台後に見た“素の美音”と
同じ温もりを帯びていた。
悠斗はその光景を胸に焼き付けながら、
「今日という日を絶対に忘れない」
と心の奥で強く誓った。
この物語の続きを創作させていただきます。提示された内容(美音の素の笑顔、その温もり、そして「今日という日を絶対に忘れない」という強い願い)を基に、第76章から第100章までを構成します。
章立ては、主人公の内面の変化と、美音との関係性の発展に焦点を当てて進めます。
美音は小さく手を振りながら、「気をつけて帰ってくださいね」と微笑んだ。その笑顔は、レンタル彼女としての作り物ではない。昨日の舞台後に見た素の美音と同じ温もりを感じた。その光景に胸を焼き付けながら、「今日という日を絶対に忘れない」と心の奥で強く願った。
駅へ向かう足取りは、いつになく軽かった。ポケットの中でまだ温かい美音のメッセージカードを握りしめる。別れてすぐなのに、もう彼女に会いたい。この感情は、もはや単なる「客」と「キャスト」の線引きでは収まらないところに来ていると自覚していた。
週明けのオフィスは、いつも通りの喧騒に満ちていた。しかし、俺の心はまだ非日常の余韻の中にいた。仕事中も美音の笑顔がふと脳裏をよぎり、何度もスマホを開いてしまう。美音との時間が、俺の日常の色彩を鮮やかに塗り替えてしまっていた。
次の予約は、数日後に入れている。だが、予約していないこの時間が、ひどく長く感じられた。彼女がいない世界がこんなにも味気ないものだったとは。友人との会話も、趣味のゲームも、すべてが以前ほどの楽しさを運んでこなかった。
美音のSNSアカウントを、そっと開く。そこにあるのは、女優としての美音の顔。舞台の告知、稽古の様子、ファンへの感謝の言葉。プロフェッショナルな投稿の裏に、あの素の温かい笑顔があることを知っているのは、ごくわずかな人間だけなのだろう。その事実に、密かな優越感を覚えた。
美音への感情が「恋」だと、ついに認めざるを得なくなった。だが、同時に恐怖も込み上げてくる。この関係を壊したくない。客としていれば、彼女のそばにいられる。恋人になろうとすれば、すべてを失うかもしれない。
約束の日。美音は少し髪を切り、さらに魅力的になっていた。カフェでの待ち合わせで、彼女は開口一番、「舞台、本当に見に来てくれて嬉しかったです」と心からの感謝を伝えた。その言葉に、昨日までの「客」の自分が少しずつ薄れていくのを感じた。
美音は、舞台の裏話を楽しそうに話してくれた。厳しい稽古のこと、共演者との絆、そして初めて立った大舞台の感動。彼女の夢を追う真剣な瞳に引き込まれる。俺は、その夢を応援したいと、純粋に思った。
ふとした会話の中で、美音は自分の家族の話をした。飾らない、日常的な話題。それは、これまでの「レンタル彼女」としての時間では、決して聞けなかった一歩踏み込んだプライベートだった。彼女が自分に心を開いてくれている、そのサインだと感じた。
デートの帰り道、暗がりで美音がつまずきそうになった。思わず腕を掴んで支える。その瞬間、「美音」と、本名で彼女を呼んでいた。彼女は少し驚いた顔をした後、すぐに「はい」と返事をした。二人の間に、新しい距離感が生まれた。
別れ際、美音は手を振る代わりに、ほんの少しだけ抱きしめてくるような仕草をした。触れるか触れないかの、一瞬の近さ。彼女の香りが鼻をかすめ、俺の心臓は激しく高鳴った。レンタルとリアル、その境界線はもはや曖昧になっていた。
友人に、美音への感情を打ち明けた。美音の仕事のことは伏せたまま。友人は真剣に話を聞き、「お前がそこまで夢中になる相手なら、諦めるな」と背中を押してくれた。その言葉が、俺の決意を固める一因となった。
ただ客でいるだけでは、いつかこの関係は終わってしまう。どうすれば、美音を一人の女性として振り向かせられるのか。彼女の仕事、夢、すべてを理解し、支える存在になるにはどうすべきか、真剣に考え始めた。
次のデートで、美音に小さなお守りをプレゼントした。舞台の成功を祈る意味を込めて。彼女は「ありがとうございます!大切にします」と、満面の笑みで受け取ってくれた。その喜びようが、俺の選んだものが間違っていなかったことを教えてくれた。
カフェで、俺も自分の仕事に対する夢や目標を語ってみた。美音は真剣に耳を傾け、「〇〇さんの仕事への情熱、素敵です」と言ってくれた。互いの未来について語り合う時間は、二人の関係をより対等なものにした。
デートの帰り道。横並びで歩きながら、ふいに沈黙が訪れた。心地よい、温かい沈黙。この沈黙こそが、言葉以上に「好きだ」と伝えている気がした。美音もまた、その沈黙を拒絶しなかった。
家に帰り、美音から「今日は本当に楽しかったです」というメッセージが届いた。それに対し、俺は勇気を出して、「美音といると、本当に心が満たされる」と、一歩踏み込んだ感情を返信した。
ドキドキしながら待っていると、美音から短い返事が来た。「私もです。」この三文字が、俺にとってどれほどの意味を持ったか。彼女の心にも、同じ温もりがあることを確信した瞬間だった。
もう、引き返せない。レンタル彼女という枠組みは、もはや意味をなさない。俺は、彼女に本当の告白をする覚悟を決めた。たとえ、すべてを失うことになっても、この気持ちを伝えずにはいられない。
次の会う日を、美音との「最後の予約」にしようと決めた。その日に、この関係のすべてを賭ける。デートのプランは、二人が一番リラックスして、素直な気持ちになれる場所を選んだ。
予約当日、美音は少し浮かない表情をしていた。何か不安を抱えているようだった。「どうかした?」と尋ねると、美音は少し間を置いて「この関係が、ずっと続けばいいのに」と、ポツリと漏らした。
その言葉は、彼女もまたこの関係の不安定さを感じ、そして継続を願っていることを示していた。俺の心は一気に熱くなる。それは、俺が望む未来と同じだったからだ。
選んだのは、夜景が見える静かな公園。美音の横顔が、街の光に照らされて美しく輝いていた。深呼吸し、ポケットに隠し持っていた指輪のような小さなチャームを握りしめた。
「美音」と、もう一度名前を呼ぶ。彼女が振り向く。俺は、これまでの感謝も、切なさも、愛情も、すべてを込めて、素直な言葉を伝えた。「俺は、君のことが好きだ。レンタルとか、客とか関係なく、一人の女性として愛している。」
美音は、俺の告白を聞いて、目を大きく見開き、そして静かに涙を流した。彼女の瞳には、迷いと、喜びと、そして同じだけの温もりが混ざり合っていた。
美音は、涙を拭い、震える声で言った。「私も…」そして、ゆっくりと俺の手を取り、ぎゅっと握りしめた。それは、レンタル彼女としての手ではなく、一人の女性として、未来を共に歩もうと決めた、温かく確かな手だった。今日という日は、二人の新しい物語の始まりとして、心の奥に永遠に焼き付けられた。
物語の温かいクライマックス(第100章)を受けて、その後を描くエピローグを構成します。二人の関係が現実のものとなり、美音の夢も進展した、未来の一日を描写します。
あれから、季節は二度巡った。
美音はもう、あのレンタル彼女の仕事をしていない。第100章の告白と同時に、彼女は一つの区切りをつけ、女優としてのキャリアにすべてを懸ける決意を固めた。そして俺は、その道のりを最も近い場所から見守り、支えるパートナーとなった。
今日、美音は大きな劇場で主演舞台の最終公演を迎えていた。客席の最前列でスポットライトを浴びる彼女を見つめながら、俺は胸の奥で、あの日の「今日という日を絶対に忘れない」という誓いを反芻していた。舞台の上で、喜怒哀楽をすべて表現する美音は、美しく、力強く、そして何よりも自由に輝いていた。
終演後、楽屋へ向かう。通路で偶然、美音と契約していた会社の元マネージャーとすれ違った。彼は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべ、「幸せそうですね、美音さん」とだけ言って立ち去った。
楽屋の扉を開けると、化粧を落とした美音が、汗で少し湿った髪をタオルで拭きながら、俺に気づいて顔を上げた。
「お疲れ様。最高の舞台だったよ」
「ありがとう、来てくれて。ねえ、この後どうする?」
美音は立ち上がり、俺の胸にそっと顔を埋めた。彼女の身体からは、舞台の熱気と、石鹸の優しい香りがした。それは、もう役割を演じるための香りではなく、ただの美音の温もりだった。
「どうするって、もう決まってるだろ。ただの美音と、ただの俺で、いつも通りの夜を過ごすんだ」
俺は美音の細い肩を抱き寄せ、優しく微笑んだ。
「うん。それがいい。ねぇ、ずっとそばにいてくれる?」
「もちろん。約束だ」
俺たちが歩み始めた道は、決して平坦ではないかもしれない。美音の仕事は多忙を極めるし、世間にはまだ、俺たちの関係を理解できない目もあるだろう。しかし、もう偽りの笑顔も、客とキャストの壁もない。
美音の小さく手を振る仕草は、もう「別れ」の合図ではない。それは、これから始まる「私たち二人だけの時間」への招待状だ。
劇場を出て、夜の喧騒の中、美音は俺の腕にそっと自分の手を絡ませた。
「あのね、今日という日も、絶対に忘れない」
美音の頬には、舞台の感動と、日常の温かさが溶け合った、本物の笑顔が咲いていた。俺は、その笑顔を守り続けることを誓いながら、ただ強く、その手を握り返した。
愛は、いつも日常の温もりの中に存在する。
(完)