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部屋に駆け込むと扉を閉め、同時に鍵をかける。背を預けたままへたり込むと、私はゼエゼエと酸素を貪った。
私はつい先刻のことを思い出す。安心できる我が家に帰ったとしても、昌一の暴力的な姿は脳裏に焼き付いて離れなかった。
私は鞄からスマホを取り出す。すぐにこのことを彼に話したかった。コール音が三回響いた後、彼、栄真澄は電話を取った。
『もしもし? 菊川さん?』
何かから隠れるように押し殺した声で真澄は言う。彼の声を聞いて私はゆっくりと安堵の息を吐いた。その様子を訝しんで、真澄は尋ねる。
『どうしたの? 何かあったの?』
「ついさっき、平良くんと向井くんを見たの」
スマホ越しに彼が息を呑むのがわかる。真澄は少し早口になりながら言った。
『何かされたの? 待ってて、すぐ行くから』
「ううん、大丈夫。ちょっと話したいことがあってさ」
私は頭の中で、思考を整理する。昌一の暴力性、由乃の通報、その復讐。平良昌一、きっと彼が犯人だ。私は私の考えを真澄に伝える。声が震えていた。
『・・・・・・本当にそう思うの?』
期待はずれの返答に私は呆気に取られる。真澄は若干の苛立ちを含んだような声で続けた。
『平良くんが犯人なら、わざわざ今日、向井くんでストレス発散をする理由が無いんじゃないかな。だって、もう復讐は終わっているんだよ』
ずいぶんと無理のある理論に対し何も言えずにいる私を置いて、躾のなっていない小さな子供に説教するような口調で彼は捲し立てる。
『彼は犯人じゃない。犯人は別にいるはずだ。やっぱり僕は高嶺が怪しいと思う』
私が反論をしようとするたびに彼は何度も何度も私の言葉を遮った。高嶺が、高嶺がと言い続ける真澄は少し不気味で、私は彼を無視して電話を切った。
もう彼も信用できないかもしれない。言いようのない不安が胸の中をグルグルと渦巻いている。
私一人でも昌一が犯人である証拠を見つけなきゃ。そのために、私がすべきことって・・・・・・。ふと、私の頭に一人の男が浮かび上がった。あの日、飯島由乃に救われた、ふくよかな少年の姿が。
深夜、例の公園で待ち合わせた彼は、とても怯えているようだった。無理もない、ここに呼び出すなんて昌一くらいだろうから。
「来てくれたんだ、向井くん」
私が声をかけると、ビクッとその丸い体を震わせて文也は振り返る。恐怖に染まっていた目が私の姿を捉えると、だんだんとほぐれていくのがわかった。
「あのメールアドレス、菊川さんのだったんだ。てっきり、平良くんのだと思ってたよ」
小さな街灯に照らされて、薄闇の中で彼の表情が窺える。昼間とは違う、柔らかい笑顔だった。しかし他にも昼間と違うところがあった。
彼の顔、いや、マフラーの隙間から覗く体にも、黒い痣らしきものが浮かんでいる。きっと、あの後に昌一からつけられたものだろう。心が苦しかった。
「ところで、話ってなんなの?」
黙ったままでいる私に気を遣ったのか、やけに明るい調子で彼は言った。そこで私は本題を切り出す。
「飯島さんは、誰かに脅されていたみたいなの。私はその犯人が平良くんだと思ってる。知ってることを話してほしい」
突然のことに理解が追いついていないのか、文也は目を丸くする。やがてその表情が赤く変色していった。
「そんな・・・・・・、アイツ、由乃さんを・・・・・・」
荒らげた鼻息は白く染まって闇に溶ける。初めて見る文也の激昂だった。由乃は彼にとって、それほどまでに大切な存在だったのか。
「平良くんは、由乃さんが亡くなった日に少年院から出所してる。それにあの日、由乃さんの家近くで見たよ」
文也は一呼吸おくと続ける。その目には小さな水滴が膨れていて、今にも溢れ出しそうだった。
「あの日、僕、平良くんを見たんだ。由乃さんの家の周りで、誰かを探してるみたいだった」
先ほどまで真っ赤だった顔が次第に色を失っていく。彼の体は心なしか、小刻みに震えているようだ。
「菊川さんが、あの日のこと調べるって言うのなら、僕にも手伝わせてよ。それが、唯一僕にできる恩返しだと思うんだ」
私は徐に拳を握ると彼の前に突き出す。文也は一瞬、これが何を意味するのかわかっていなかったようだけど、すぐに理解したようで、涙を拭って右の拳を出した。二人の拳がコツ、とぶつかる。これは、私なりの約束の証だ。
「一緒に犯人を懲らしめてやろーよ」
少し上目遣いになりながら私は笑ってそう言った。丸い拳から彼の体温が伝わってくる。深夜に交わされた秘密の契約だった。
夜は星空を飲み込んで更けていく。
寝ぼけ眼を擦りつつ、私は休日の町を歩いて行く。今日は朝からやることがあった。
私は取り出したスマホをじっと見つめる。今朝、文也から受け取った画像には、この町のある場所が記されていた。
あの日、由乃が死んだ日、昌一はこの道を歩いていたらしい。まるで誰かを探すように。私は今、グランドヒルズ唯崎の正面に伸びる大通りにいた。
私は藁にもすがる想いで彼の痕跡を探す。凍てついた植え込み、冷え込む路地裏、こんなところ探したって無駄だってわかりきっているのに。
私はため息をついて大通りに戻ってくる。気づけば時計の針は十一時を回っていた。
スマホにまた一件、新しい通知が届く。またか。まるで登校中にスニーカーで水たまりを踏んづけた朝のような、鬱屈とした気持ちで届いたメールを開く。案の定、彼だった。
『菊川さん! そちらの調子はどう? こっちは全然上手くいってません。真面目で優秀な菊川さんのことだから、きっと僕より順調だと思ってます! 由乃さんのことわかったら、なんでも良いから連絡してね! p.s.見たら返信お願いします』
気づかない間に、未読のメールが八件溜まっていて、その全てが文也からだった。私は彼に返信できるような調査結果も無ければ、そんな気力も残っていなかったので、スマホの電源を落とすと粗雑にポケットに入れる。
さて、これからどうしよう。私は当てもなく空を見上げる。分厚い雲は果てしなく広がっていて、一点の切れ目も確認できない。今にも雪が降り出しそうだった。
そろそろ帰ろうか、なんて思いながら私が件のマンションに背を向けたとき、偶然にもある人と目が合った。
長い、ウェーブがかった茶髪を撫で付けながら彼女は近づいて来る。その瞳はキラキラと輝いていて、まるで道端に落ちていた不思議な物を拾った子供のようだった。
「えー、紗世ちゃんじゃん。こんなところで何してんの? ウチは今、買い物帰りなんだけどー」
東條和美だった。淡いピンクの防寒具とモコモコとしたマフラーに覆われて可愛らしい様子の彼女は、こっちの様子などお構いなしに話を続ける。
「見て見て、今日のストーリー。めちゃ盛れてない? ウチ、ちょー可愛いんだけど」
矢継ぎ早に話して止まらない彼女から離れるために、私は適当にその場を取り繕おうとする。
「東條さん、ほら、もうすぐお昼だし、ご飯食べなきゃだから」
「えー、寂しい。・・・・・・そうだ! 紗世ちゃん、ウチの家でご飯食べない? 今日はママいないからウチの手料理食べれるよー」
柔らかい手のひらで私の手を握り込むと軽く膝を曲げて上目遣いになった。くりくりとした瞳で私の顔を覗き込んでくる。
「ウチの家、すぐそこのマンションだからー! ね、一緒にご飯食べてよー」
そう言うと彼女は一棟のマンションを指差す。私は目を見開くと、和美の顔とその建物を交互に見た。
彼女の指差した場所は、グランドヒルズ唯崎。飯島由乃の住んでいたマンションだった。
「・・・・・・それじゃあ、行っても良い? 東條さんの手料理、食べてみたいな」
その言葉で和美の顔がパァッと明るくなる。私の手を離して嬉しそうに手足をバタバタと動かすその様子は、まるで人懐っこい大型犬のようで、愛らしい気持ちになる。
鼻歌交じりに軽いステップを踏みながら和美はマンションへ進む。由乃の家がここにあることは知っていたけれど、彼女の家もここにあるなんて知らなかった。そのマンションに入れるせっかくのチャンスだ、見逃すわけにはいかない。
グランドヒルズ唯崎のエントランス周辺では、ガタイの良い大人たちが何かを探すように歩き回っていたが、和美は笑って挨拶しながらその間を抜けていく。彼女はついて来て、と呟くと裏口の方にまわった。慣れた手つきで鍵を開けるとエントランスに入る。
私は和美に続いて、恐る恐るエントランスに足を踏み入れた。そこは、大勢の人がいて騒がしい外とは違い、不気味なほど張り詰めた静寂が満ちていた。
「なんか、冷たいよねー、ここ。よっちゃんがいなくなってから、ずーっとこんななの」
そんな私の気持ちを汲み取ったのか、彼女が戯けた調子で言った。よっちゃんとはきっと、由乃のことだろう。
「三〇二号室のハルくんも、四〇一号室のみーちゃんも、みんな元気無くしちゃって、仕事とか学校とか以外で誰も出てこないから、静かなの」
そう言いながらエレベーターのボタンを押す。無機質な機械音だけがよく聞こえていた。
和美はそれ以降、口を閉ざしたままだった。微妙な沈黙が二人の間を流れている。そんな空気の中、チーンと間抜けな音をたててエレベーターが到着した。二人で乗り込む。
ボタンを押すと、上昇を始める。私が体にかかる重力を感じていると、和美が一人で語りだした。
「ウチのママね、なんかヒスパニック? じゃないや、ヒステリックな人でさ、部屋が隣同士だからって、よくウチとよっちゃんを比べて金切り声で怒鳴るの」
扉の上にある階層を示すマークに、ライトが点滅する。到着まで、あともう少しかかりそうだった。
「よっちゃんが亡くなっちゃってさ、最初、スッキリしたんだ、ウチ。もう怒られることもないんだ、って。最低だよね」
戯けた調子だったはずの声が、いつの間にか掠れた涙交じりの言葉に塗りつぶされている。こっそり彼女の顔を覗き込むと、大きな瞳にいっぱい涙を溜めながら下唇を噛む姿がこの目に映った。
重苦しい空気を切り裂くように扉が開いた。肌を刺すような冷たい風が流れ込んでくる。どうやら目的の階層に到着したようだ。
「紗世ちゃんごめんね、なんか暗い話しちゃった」
白い腕でゴシゴシと目元を拭って和美は顔を上げる。赤みがかった目尻は隠せていないが、その顔には笑顔が戻っていた。
「あー! お腹空いた! 紗世ちゃんは嫌いな食べ物ある? 遠慮しないで言ってね!」
彼女がそう言っている間、私はどこか上の空だった。眼前に広がるここからの景色は、いつの日か由乃と一緒に見た街並みだ。風の音に混じって、あの日の蝉の声が聞こえてくる。
八月の空は青く、ひたすらに澄んでいて、遠くの山々まで見渡せるほどだった。
「ほら、あっちに見えるのが唯崎中だよ」
細い指先が示すのは古びた木製の校舎だった。風に吹かれて長い黒髪が揺れる。木の葉とともに前髪が舞い上がり、見えた横顔が綺麗で思わず見惚れてしまった。
私の視線に気づいたのか、彼女はこっちに目線を向ける。目が合うと淡い微笑みを浮かべて呟いた。
「そんなに見られちゃ照れちゃうよ」
私は何だか恥ずかしくなって彼女が指差した先に向き直る。その横でフフッと笑う声がずっと聞こえていた。
「顔真っ赤にしちゃって、可愛いなぁ」
まるで小さな子供を愛でるかのように彼女は言った。私の顔が熱くなっていくのがわかる。
うるさい、私は右の手の甲で口を覆うとそう呟いた。変わらず彼女は笑っている。
もたれかかっていた塀から手を離して、彼女は背筋を伸ばす。白いセーラー服は光を反射し、キラキラと眩しかった。いや、セーラー服じゃない。私は逸らした目線をチラリと、一瞬だけ彼女に向ける。まともに見ることができなかった。
私の世界の中で、輝いていたのはきっと・・・・・・。
「紗世ちゃん? 入らないの?」
その声で私は我に返る。塀の向こう側には分厚い雲が広がっていて、あの日のような鮮やかな世界は無く、代わりに指でぼかした鉛筆の跡のような、くすんだ灰色の景色がそこにあった。
「・・・・・・ううん、今行く」
かつての由乃のように、前髪が吹き抜ける風で舞い上がった。いくら過去を思い出したところで、私の隣にはもう彼女はいない。
暗雲は晴れることなく、ただ延々と続いている。