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和美に促されてオシャレな室内に足を踏み入れる。白を基調とした室内で、私だけが異物のように感じて何だか居心地が悪かった。
まるでモデルルームのように整頓された部屋の隅で体を縮こまらせて、台所へと消えた和美が戻るのを待っていた。体育座りした私の横には大きなテレビや写真立てなどが並んでいる。
しばらくすると、キッチンの方から何やら美味しそうな匂いが漂ってきて私は体を起こす。その肩が綺麗に配置された写真立てに触れて、ゆっくりと落下していく。間一髪、床に落ちきる前に拾うと私はキチンとそれを並べ直した。
こちらに顔を向ける写真立てには、幸せそうな家族が写っている。私はその一つ一つを順番に見ていった。
最後の一つ、おそらく和美が小学校低学年くらいのものだろう。これにだけ、何やら違和感があった。他の写真立てはしっかりと手入れされ、綺麗に整えられているのに、これだけは埃を被っていたのだ。
私は不思議に思って、袖を使って軽く払う。覆っていた埃のカーテンが舞い落ち、隠れていた部分が露わになった。そこにはメガネをかけた気弱そうな男性が、はにかんだ笑みを浮かべている。父親だろうか? 隣に並んだ和美は彼と手を繋いで、頬に満面の笑みを湛えている。
私は微笑ましい気持ちになって彼女らを見つめる。この厳しい寒さの中で、煌々と明るい暖炉に当たっているような心地だった。
やがて、キッチンの方から和美の声がした。どうやらもうすぐ完成のようだ。私は机の前に腰を下ろす。
「ウチ特製のカルボナーラ、どうぞ召し上がれ」
しばらくして、私の目の前にカルボナーラが置かれる。立ち上る湯気に乗せられた香りが鼻腔をくすぐり、人前だというのにぐうっとお腹が大きな音をたてた。
視界の隅に立つ和美がクスリと笑うのが見えて、少し顔が赤くなる。それを誤魔化すように私はフォークを手に取ると、カルボナーラを巻き取り掬い上げた。口元まで運ぶと、より濃厚なホワイトソースの香りがして、口の中いっぱいに唾液が満ちる。
いただきます。生唾を飲み込むと、私はそう呟いて遠慮がちにカルボナーラを口にする。
その瞬間、コクのあるホワイトソースの風味が舌の上で溶け出した。もっちりとした麺と見事に絡み合うとともに、厚切りで噛みごたえのあるベーコンや、味のアクセントとして載せられた粗挽きの胡椒がマッチして、私の口内で味覚のカルテットを作っている。
「このカルボナーラ、美味しい」
思わずこぼれた言葉に和美は小さくガッツポーズをすると、とろけるような笑顔を見せた。
「よかった、紗世ちゃんに気に入ってもらえるかなって不安だったんだよね。」
そう言うと彼女は自分の分を用意して私の向かい側に座り込んだ。私がカルボナーラを頬張るのを見て和美は満足げに微笑むと、自身もそれを口にする。
皿の上が半分になる頃、徐に和美は口を開いた。
「そういえば紗世ちゃん、あんなとこで何してたの? 散歩?」
私はカルボナーラを口に運ぶ手を止めて、和美を見る。彼女は私と目を合わせながら、キョトンとして首を傾げていた。
「・・・・・・探し物をしてたの」
「何を探してたの?」
間髪入れずに和美は尋ねる。私は食べもしないのにクルクルとフォークを回して、意味もなくカルボナーラを巻き取る。本当のことを打ち明けようか悩んでいた。和美は不思議そうな顔をしながらも、カルボナーラを口に運ぶ手を止めない。
私は意を決して口を開く。
「飯島さんが亡くなった日、平良くんがこの辺りにいたって聞いたの」
和美はそれを聞いて大きく咳き込むと、近くに置いていたグラスの水を一気に飲み干した。バンと音をたててグラスを机に戻すと、彼女はハアハアと息を切らしながら目を大きく見開く。
「何それ! 探し物って昌一のこと? もしかしてよっちゃんが死んだのと関係あるの?」
和美は鼻息荒く、身を乗り出している。私はどこまで言って良いものかわからず、視線を下の方へ逸らす。その仕草で何となく察してしまったのか、和美は力なく尻餅をついた。
「・・・・・・そんな、文也じゃなかったんだ」
ぽつりと、和美はそう漏らした。唐突に出た名前に私は面食らう。いったい彼がどうしたと言うのだろう。
和美は私の疑問に対し、問わず語りに答え始めた。
「文也はね、よっちゃんに救われてから、よっちゃんが好きになったみたいなの。最初は普通だったんだけど、だんだんとそれが激しくなって、ついには家の周りにまで現れるようになったんだ」
ぽつり、ぽつりと一滴の雫が連なって雨となるように文也への不審が募っていく。私はこっそり電源を入れたスマホを机の上に載せた。怪訝そうに形の良い眉を寄せながら、和美は画面を覗き込む。ヒッと悲鳴にも似た短い声をあげて彼女は上体を後ろに反らした。画面には数十件にも及ぶメールの通知が表示されている。その全てが、文也からの物だった。
彼の異常なまでのメールは由乃への行き過ぎた愛情の結果であり、行き場を失ったそれは今、無念を晴らすという名目で私に向かっている。
「紗世ちゃんも・・・・・・されてるの?」
彼女の声が震えている。顔は青ざめ、恐怖しているようだ。対して私はひどく落ち着いている。不思議と、彼が何をしていようとあまり驚かなかった。
犯人は昌一だ、文也がどんな人間であろうと、昌一を捕まえられるのであれば、何の問題もない。
「私は、飯島さんが亡くなった原因が平良くんにあると考えてる。それを解き明かせるのなら、向井くんに何されたって構わない」
和美の大きな瞳が激しく揺れるのがわかる。何度も口をパクパクと開閉して、何かを言おうとしているようだけど、そのどれもが言葉になることはなかった。
私は麺を巻き取ったままだったフォークをゆっくりと置く。話を聞いてとある妙案が頭に浮かんだ。どうしてもそれをすぐに試したくて、せっかくお昼を作ってくれた彼女には悪いが半分残したまま私は立ち上がる。
「ご馳走様。カルボナーラ、美味しかったよ」
「ねぇ、どこ行くの? 文也のところ?」
キッと目尻を吊り上げ、和美は語気を強める。私は何も言わずにただ頷いた。彼女の目が大きく開く。そこには薄い水の膜が張っていて、淡い電灯に照らされてキラキラと輝いて見えた。
「ウチじゃ、ダメなの? 昌一を一緒に追い詰めるのは、ウチじゃダメなの?」
東條和美は、由乃とは違う形でクラスの人気者だ。明るく、誰とでも打ち解けてしまう性格で、みんな友達とでも言うように笑顔で接してくれる。 だからこそ、巻き込みたくなかった。
私は和美の問いかけにゆっくりと首を縦に振る。彼女の目を覆う膜が、より一層煌めいていた。私の頬も熱を帯びている。
「ウチは、紗世ちゃんのこと、友達だと思ってたよ」
「・・・・・・私も東條さんを友達だと思うよ」
「じゃあ何で! わざわざ何するかわかんないヤツと一緒に居ることを選ぶの?」
和美の目を覆っていた水の膜が弾け、一筋の雫となって頬を伝っていく。
「ごめんね、東條さん。東條さんは友達だけど、それ以上に大切なことがあるから。だから、ごめん」
私は和美に背を向けると玄関へと進んで行く。後ろで彼女が嗚咽を漏らすのが聞こえていた。
扉を開けると、凍て付く風が頬を刺す。私は歩き出した。扉が閉まる音がして、それっきり和美の声は聞こえない。
広々とした廊下に、風の音だけが響いていた。
ガチャン、と扉が閉まる音がしたっきり部屋は静かになった。鼻をすする音以外に何も聞こえない室内に一人残されたまま、和美は机に伏せていた。去り行く背中を見て何も言えなかった自分を思い返し悲しくなる。
「すぐ泣いちゃうクセ、治さなきゃねって言われたのになぁ・・・・・・」
遠い昔、まだ元気だった父に言われた言葉だった。決して怒鳴ったりしない、泣き虫で頼りないけれど、誰よりも優しかったパパ。そういえば、ママが怒鳴るようになったのはパパが死んじゃってからだっけ。
和美は立ち上がると、フラフラと覚束無い足取りでテレビへと近づく。列を成した写真立てから徐に一つ取り上げると、目を細めてそれを見つめた。我が家に唯一残された、父が写っている写真を。
「ねえパパ、ウチ、一人ぼっちになっちゃったよ。パパみたいな誰かの為に動ける人を夢見てたはずなのに、気づいたら自分のことばかり考えて大切な人を失っちゃった」
脳裏をよぎるのは隣に住んでいた少女の笑顔だった。いつも自分のことより、誰かのことを考えて動く彼女は誰よりも美しく、そして理想的に見えた。
そう、理想だったのだ。由乃は和美の求めていたもの、その全てを持っていた。進学校に進めるだけの学力も、誰もに好かれるような人望も、そして迷いなく手を差し伸べることができる優しさも。どれもが和美にとっての理想で、夢見てきたものだった。
だから、眩しかった。その輝きにあてられて、選ぶべき道を間違えてしまった。
『よっちゃんの家、教えてほしいの?』
在りし日の会話を想起する。あれはまだ、合唱コンクールが終わったばかりの頃だ。文也が由乃の家を探し回っていると、風の噂で聞いたのだ。
文也は目を見開くと、周囲を窺いながら小さく頷いた。心なしか、顔が赤く染まっている。
魔が差した、と言うのは言い訳だろう。あれは、明確に、悪意を持って口にしたことだ。
この日から、文也のストーキング行為は加速した。エントランスでの出待ち、手紙の投函、由乃は日に日にやつれていった。いい気味だ、なんて最初は思っていたのに、だんだん自分がしたことの重みを実感して気分が悪くなった。考え過ぎて眠れずに、隈を作って学校に行くと、同じく隈を作った由乃が大丈夫? なんて訊いてくるものだから、余計に惨めになって涙が出そうだった。
あの日、由乃が死んだ日、母がいつものように怒鳴った。由乃が出来ることが何故、オマエには出来ないのか、と何度も何度も和美を詰った。
連日の寝不足で苛立ちが募っていたこともあって、生まれて初めて母に反抗した。家を飛び出し、辺りが闇に包まれるまで帰らなかった。
伸ばした指先すら見えなくなる頃、和美はこっそりと家に帰った。エントランスから入るのは何だか気が引けて、裏口から非常階段を通って部屋まで戻った。風が強くて、雪も降ってて寒かったけれど、防犯カメラに写らない安心感があったから、悪いことをしたわけじゃないのに選んでここを通った。
恐る恐る部屋に入ると、母はもうとっくに寝ていてキンと張り詰めた静寂が満ちていた。温かいお湯で体を流し、身も凍るほどの寒さが芯から溶け出す頃、部屋の外から微かに音が聞こえた。ドンドンと何かを叩くような音だ。時計の針が進んでいくのと同時に、外は風が強まり吹雪になっていたから、きっとそれだろうと思って寝てしまった。
あの時、もう少し考えていれば由乃を救えたのかな、なんて今になって後悔する。そんなことしたって、由乃はもう帰ってこないのに。
今日はそれを思い出してしまい、何となく落ち着かなくって、少ないお小遣いを握りしめて買い物に行った。その帰り道に紗世と出会った。余裕のない表情で佇む彼女に、いつの日かの由乃を重ねてしまって、居ても立っても居られなかった。
『紗世ちゃん、ウチの家でご飯食べない?』
もう、間違えたくなかったから。
部屋に残されたカルボナーラが鼻につく。昔、由乃にも作ったっけ。二人分の皿を手に取ると、乱暴に流しに放る。ただ虚しかった。
紗世が出て行って、はや数十分。とうにカルボナーラは冷え切っていた。
私は文也と合流する前に、自宅に帰ってある物を持ち出した。電源を入れると淡い光を放って、画面に懐かしい笑顔を映し出す。 その上を軽くタップすると、ロック画面が表示される。
これは先日見つけた由乃のスマホだ。きっとこの中に、犯人に繋がる情報が残されているはずだ。しかし私にはこれを開く術がない。でも、文也なら、もしかすると・・・・・・。
そんな一縷の望みに賭けて私は文也に電話を掛ける。電話番号やメールアドレスは、進級したばかりの頃に由乃が作った名簿表に載っていたから、それを利用した。
文也はすぐに電話に出た。
「向井くん、例の公園に集合ね」
私はそれだけ言うと返事も待たずに切る。暗くなった画面に、顔をしかめた私が映っている。
私が公園に着いたとき、文也はまだ到着していないようだった。
寂れた遊具に薄く雪が積もっている。正午過ぎから降り出した雪はここに来るまでに止んでいて、凍えるような寒さだけを残している。
風の音に混じって雪を踏み締める音が微かに鼓膜を揺らした。そちらに顔を向けると、文也が走ってくるのが見えた。
急いで来たのか彼はゼエゼエと肩で息をしている。
「向井くん、いきなりだけどお願いがあるんだ」
息を整えて顔を上げた文也の手を握り、私は松浦がやっていたような猫撫で声を出す。彼は頬を染めて、目に見えて動揺していた。
「飯島さんが脅されていた証拠がスマホに残されているかもしれないの。だから、スマホのロックを解除してほしいんだ」
上目遣いに文也の目を覗き込む。これは賭けだった。いくら由乃のストーカーといえど、彼女のスマホのパスワードまで控えているとは考え辛い。だから、賭け。もし勝てば、警察が血眼になって探すほどの重要な証拠であるスマホに残された情報が手に入る、魅力的な賭け。負ければ振り出し、犯人は到底特定できないだろう。
「・・・・・・なんで僕に頼むの?」
震えた声で文也は言った。私はその言葉に驚いて握っていた手を離す。覗き込んでいた顔は、気づけば苛立たしげに歪んでいた。何と返せば良いかわからず視線を彼から逸らすと、文也は顔を赤くして捲し立てる。
「菊川さんも、僕が由乃さんにストーカーしてたって思ってるんでしょ? だから、僕に頼んでるんだよね? そうやってみんな僕のこと、気持ち悪いって嘲笑うんだ!」
文也は大きな体を震わせて暴れ始める。まるで小さな子供が癇癪を起こすようで手がつけられない。
「違うよ! 向井くんはプログラミングとかしてて、私より機械に詳しいからお願いしただけで」
「うるさい! 嘘つきめ!」
文也を落ち着かせるために伸ばした手を、彼の丸い手が撥ね除ける。鈍い痛みがはしって、私は右腕を強く押さえた。それを見て、一瞬青ざめた文也の顔に獰猛な笑みが広がる。
「・・・・・・平良くんは、僕を殴るのは弱くて目障りだからって言うんだよ。だったら、菊川さんは僕より弱いし、それに嘘つきで目障りなんだから、問題ないよね」
ヒヒッ、ヒヒッと何かに取り憑かれたように文也は笑い続けている。その姿はまるで、文也を殴っているときの昌一のようで、私はかつてテレビで見た悪魔祓いの映像を思い出す。悪魔に心と体を蝕まれ、おかしくなってしまった人の映像だ。まさに、今の文也そのものだった。
あてもなく空中を彷徨っていた目が私へと向けられる。愉悦や憤りがグチャグチャに混ざり合い、混沌に塗りつぶされた瞳が、私を捉えている。あの日、昌一を見て覚えたような恐怖を、今度は肌がヒリつくほど近くで感じた。
サクッ、サクッと積もった雪を一歩ずつ踏みしめながら文也は近づいてくる。押し出されるように私も少しずつ後退して行くが、雪に足を取られて尻餅をついた。打ちつけたところを摩っていると、私の体に影が差す。視線を上げると、文也が眼前に迫っていた。
「近いよ、向井くん。ちょっと離れてほしいな」
出来るだけ気丈に振る舞ったつもりだったが、声が震えていた。それを聞いた文也はニマニマと、嫌な笑顔を貼り付けながら更に歩みを寄せてくる。
彼は私の防寒着の襟を掴むと、右腕を大きく振り上げた。私はヒッと情けない声をあげて目を瞑る。頬に鋭い痛みがはしった。
私は呆然と座り込んだまま目を見開く。文也はただ笑っていた。その拳が、もう一度振り上げられる。
太陽を覆い隠すように広がる雲から、再度雪が降り始める。街灯に揺れる二人分の影が何度も重なって、その度に私の視界が徐々に白んでいく。最後に目の前に映ったのは、純粋なる悪意だった。
どれくらい経っただろう、文也はとっくに居なくなっていた。満足げに帰って行った彼の足跡は、雪によって覆われて、見えなくなっていた。
雪は変わらず降り続けていた。私は寝転がったまま落ちてくるそれを見ている。雪は私の頬に落ち、雫となって頬を滑っていく。 私は濡れた頬を拭って立ち上がった。
雪が降っている。寂れた遊具は雪で覆い隠されて姿が見えない。その中心に一人の少女が立っている。頬に大きな黒い痣をつけたまま立っている。
雪が降っている。まるで彼女がそこに居るのを覆い隠してしまうように。
雪はまだ、止まない。