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会議が終わり、それぞれが静かに帰っていった。
勇斗は車に乗り込んだ。
けれど、エンジンをかける気にはなれなかった。
暗い車内で、スマートフォンを握ったまま動けない。
頭から離れない。
――俺は、別れた方がいいと思う。
仁人の声。
あのときの顔。
誰より冷静に。
リーダーとして正しいことを言おうとしていた。
けれど。
勇斗には分かっていた。
あれが、仁人のすべてじゃない。
何度も迷ってから、仁人へ電話をかけた。
数回の呼び出し音。
『……もしもし』
聞き慣れた声だった。
それだけで胸が締めつけられる。
勇斗はすぐに言葉を返せなかった。
『……勇斗?』
「うん」
また沈黙する。
聞くのが怖かった。
けれど。
聞かないままにはできなかった。
「さっき言ってたこと」
電話を握る手に力が入る。
「別れた方がいいって」
一度、息を吸った。
「……あれ、本心?」
電話の向こうが静かになった。
答えは返ってこない。
その沈黙だけで。
勇斗には、十分だった。
「仁人」
『……本心』
やっと返ってきた声は、あまりにも静かだった。
勇斗は目を閉じる。
「嘘つけ」
思わず、こぼれた。
電話の向こうで息を呑む気配がした。
『……嘘じゃない』
「じゃあ、なんですぐ答えなかったの」
『それは……』
言葉が止まる。
勇斗はそれ以上追及しなかった。
分かっているから。
仁人が別れたいわけじゃないことくらい。
分かっている。
分かっているからこそ、苦しかった。
『俺は』
仁人が静かに続ける。
『勇斗の人生を壊したくない』
勇斗は何も言わない。
『M!LKはもちろんだけど』
『俳優の仕事も』
『今まで積み上げてきたものも』
『全部』
少しだけ息を吐く。
『勇斗は、自分で思ってるより、ずっとたくさんの人に夢を与えてる』
声は落ち着いている。
#そのじん
笑う門には福来る
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#nmnm注意
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けれど。
時々、ほんの少しだけ震える。
『その未来を』
一度、言葉が途切れた。
『……俺が壊す理由になりたくない』
勇斗は唇を噛んだ。
「仁人が壊すわけじゃないだろ」
『分かってる』
「分かってない」
思ったより強い声が出た。
仁人が黙る。
「今日のことだって、仁人は何も悪くない」
「切り忘れたのは俺だよ」
『分かってるよ』
「だったらなんで仁人がいなくなるんだよ」
返事はなかった。
勇斗の声だけが、暗い車内に残った。
しばらくして。
『……それでも』
仁人が小さく言った。
『もし、恋人が男だって知られたら』
勇斗は黙る。
『今までと同じように見てくれる人ばかりじゃない』
『仕事が減るかもしれない』
『役が来なくなるかもしれない』
『勝手なイメージで、勇斗を否定する人もいるかもしれない』
一つずつ。
自分自身に言い聞かせるように並べていく。
そうしなければ。
決心が揺らいでしまいそうだった。
『そんな未来を……俺は見たくない』
最後の声が震えた。
勇斗は何も言えなくなる。
仁人が怖がっているのは、自分が傷つくことじゃない。
勇斗が傷つくことだった。
それが分かってしまう。
『俺さ』
仁人が続ける。
『ずっと思ってた』
『もし、いつか俺が勇斗の重荷になる日が来たら』
少しだけ間を置く。
『その時は、ちゃんと手を離そうって』
勇斗の呼吸が止まった。
「……勝手に決めんなよ」
低い声が落ちる。
『勇斗』
「俺、一回でも仁人のこと重荷だって言った?」
『言ってない』
「足引っ張られたって言った?」
『……言ってない』
「じゃあなんで」
声が掠れる。
「なんで勝手に俺のためにいなくなろうとするの」
電話の向こうから、返事はなかった。
代わりに。
小さく息を吸う音がした。
それが泣くのを堪えた音だと。
勇斗には分かった。
『……好きだから』
やっと返ってきた。
勇斗は目を閉じる。
『好きだからこそ』
仁人の声が震える。
『勇斗の足を引っ張る存在にはなりたくない』
「足なんか引っ張ってない」
『今はね』
「これからだって――」
『分かんないじゃん』
初めて。
仁人の声が強くなった。
そして。
すぐにまた、小さくなる。
『……分かんないじゃん』
その声が。
ひどく苦しそうだった。
『俺のせいで仕事がなくなって』
『俺のせいで今までみたいに笑えなくなって』
『いつか勇斗が、あのとき別れてればって思うようになったら……』
言葉が詰まった。
『俺、それだけは無理』
勇斗は何も言えなかった。
仁人は。
別れたいんじゃない。
怖いんだ。
自分といることで、勇斗の未来を奪ってしまうことが。
そしていつか。
自分が勇斗にとって後悔になることが。
『だから』
仁人が息を整える。
『今なら、まだ――』
「今なら何?」
勇斗が遮った。
仁人が黙る。
「今なら別れられる?」
返事はない。
「本当に?」
沈黙。
「仁人」
優しく名前を呼ぶ。
それだけで。
電話の向こうから、小さく息を呑む音がした。
勇斗はもう分かっていた。
「……別れたくないんでしょ」
長い沈黙が落ちた。
仁人は否定しなかった。
できなかった。
『俺だって
やがて聞こえてきた声は、もう隠しきれないほど震えていた。
『……別れたくないよ』
勇斗は目を閉じた。
胸が痛かった。
聞きたかった言葉なのに。
こんなに苦しい形で聞きたかったわけじゃない。
『別れたくないに決まってるじゃん』
仁人が小さく笑う。
泣いているのかもしれなかった。
『でもさ』
『俺が勇斗の未来を邪魔するくらいなら』
一度、声が途切れる。
『……俺が恋人じゃない方がいい』
「よくない」
勇斗は即座に返した。
「俺にとっては、よくない」
『勇斗――』
「仁人が俺の未来を勝手に決めないで」
静かな声だった。
けれど、迷いはなかった。
「仁人がいない未来が、俺にとっていい未来だって」
一度、息を吸う。
「勝手に決めないでよ」
仁人は何も言えなかった。
勇斗には分かっている。
仁人が自分を守ろうとしていることも。
別れたくないのに、手を離そうとしていることも。
全部。
分かっている。
だからこそ。
勇斗は少しだけ声を和らげた。
「……お前さ」
『何』
「俺のことばっか考えてる」
仁人が黙る。
「仕事が減るかもしれない」
「イメージが悪くなるかもしれない」
「今まで積み上げてきたものを失うかもしれない」
「さっきから、そればっか」
『……当たり前だろ』
『俺は、それが一番嫌なんだよ』
「うん」
勇斗は静かに頷いた。
「分かってる」
責めたいわけじゃない。
仁人が自分を大切に思ってくれているからこそ、こんなことを言っている。
それくらい分かっている。
「でも俺は、それで全部終わりだと思ってないよ」
『……え?』
「もし本当に仕事が減ったら」
勇斗は静かに続ける。
「また仕事をもらえるように頑張る」
「イメージが悪くなったら、また見てもらえるように頑張る」
「信用を失ったなら、もう一回積み重ねる」
迷いのない声だった。
「簡単じゃないのも分かってる」
「全部元通りになる保証がないことも」
「それでも」
少しだけ笑う。
「俺、今までだってそうしてきたから」
最初から何もかも持っていたわけじゃない。
うまくいかないこともあった。
悔しい思いもした。
それでも。
一つずつ積み重ねて、ここまで来た。
「だから、もし何かを失ったとしても」
勇斗は言った。
「また積み上げればいい」
「何年かかっても」
「俺はそのために頑張れる」
仁人は何も言わない。
「俺たち、誰かを傷つけるために付き合ってるわけじゃないだろ」
「誰かを騙したくて隠してたわけでもない」
一度、言葉を切る。
「好きになった相手が、仁人だった」
ただそれだけ。
勇斗はそれを。
一度だって間違いだと思ったことはなかった。
「だから俺は、何かを失うかもしれないからって」
「最初から全部諦めるつもりはない」
電話の向こうが静かになる。
「M!LKも」
「仕事も」
「仁人も」
「全部大事だから」
「全部守るために頑張る」
仁人は目を閉じた。
強い。
昔から。
勇斗はそういう人だった。
無理だと言われても。
簡単に諦める人じゃない。
だからこそ。
仁人は、その未来を守りたかった。
「……でも」
勇斗が小さく呟く。
「お前だけは、ちょっと怖い」
『え?』
勇斗は苦く笑った。
「俺のためだって思ったら、本当に離れていきそうだから」
仁人は何も言えなかった。
「自分だって別れたくないくせに」
『……』
「俺が嫌だって言っても、俺のためになるって思ったら手を離すんでしょ」
否定できない。
勇斗は小さく息を吐いた。
「だから怖いよ」
それは。
今日初めて口にした、勇斗の弱さだった。
けれど。
次の声には、もう迷いがなかった。
「でもさ」
「もし仁人がちゃんと考えて」
「それでも別れるって決めるなら」
仁人が息を止める。
「俺には、無理やり止めることはできない」
『……勇斗?』
思ってもいなかった言葉だった。
けれど。
「ただ」
勇斗の声に、ほんの少し笑いが混じった。
「それで俺が諦めると思わないで」
『……は?』
「俺、仁人のこと好きなのやめるつもりないから」
あまりにも当然のように言う。
「もし別れたとしても」
少しだけ笑った。
「また付き合ってもらえるように頑張るよ」
仁人は言葉を失った。
『……何言ってんの、お前』
「そのままだけど」
『それじゃ別れた意味ないじゃん』
「俺は別れたくないんだから、そりゃそうでしょ」
あまりにも迷いがない。
思わず。
仁人の口から小さな息が漏れた。
呆れたのか。
笑ったのか。
自分でも分からなかった。
「お前が俺を嫌いになったなら、ちゃんと受け入れるよ」
勇斗は静かに続けた。
「それは俺がどうにかしていいことじゃないから」
「でも、違うんでしょ」
仁人は答えなかった。
答えられなかった。
嫌いだから別れたいんじゃない。
好きだから。
離れようとしている。
「だったら」
勇斗はあっさりと言った。
「俺が諦める理由ないじゃん」
『……ほんと、お前』
仁人が小さく呟く。
勇斗が笑う。
「何?」
『しつこい』
「知ってる」
その答えがあまりにも早くて。
仁人は今度こそ、ほんの少しだけ笑った。
勇斗はその小さな笑い声を聞いて。
ようやく少しだけ息を吐いた。
「仕事が減ったら、また頑張る」
「信用を失ったら、また積み上げる」
「もし仁人が俺の手を離すなら」
少しだけ間を置く。
「また握ってもらえるまで頑張る」
仁人の胸が、強く締めつけられた。
「俺、何かを失ったくらいで全部終わりだなんて思ってないよ」
「大事なら、守る」
「もし守れなかったら、もう一回取り戻すために頑張る」
「俺は、そうしたい」
静かな声だった。
けれど。
その言葉には、揺るぎない強さがあった。
「だから」
勇斗はもう一度言った。
「俺は別れたくない」
「M!LKも諦めない」
「仕事も諦めない」
「仁人のことも諦めない」
「全部大事だから」
「全部守るために頑張りたい」
電話の向こうで。
仁人は何も言わなかった。
勇斗も。
それ以上、答えを求めなかった。
今すぐ決めてほしいわけじゃない。
ただ。
知ってほしかった。
仁人が守ろうとしている未来を。
勇斗自身は、どう生きたいと思っているのか。
しばらくして。
『……分かった』
仁人が小さく答えた。
それだけだった。
別れないとは言わなかった。
考え直すとも言わなかった。
けれど。
電話を切ったあとも。
勇斗の言葉は、仁人の胸から離れなかった。
――仕事が減ったら、また頑張る。
――信用を失ったら、また積み上げる。
――もし仁人が俺の手を離すなら、また握ってもらえるまで頑張る。
自分がいなくなれば。
勇斗を守れると思っていた。
それが一番正しいと思っていた。
でも。
本当にそうなのだろうか。
勇斗が望んでもいない未来を。
勇斗のためだと言って、自分が勝手に選んでいいのだろうか。
そして何より。
――別れたくない。
自分で口にしてしまった本音が。
今になって。
どうしようもないほど、胸の奥に残っていた。
コメント
1件
おお…第8話、めっちゃ良かった…。仁人の「別れたくないけど、勇斗の未来を壊したくない」っていう葛藤が痛いほど伝わってきたし、それに対して勇斗が「全部大事だから全部守るために頑張る」って迷いなく言い切るところが、本当に彼らしいなって思った。特に「また握ってもらえるまで頑張る」ってセリフ、グッときたわ…。2人の関係の重みがちゃんと描かれてて、続きが気になる!